清酒発祥の地
荒木村重による有岡城の城下町があり、宝塚長尾山地の伏流水による酒造りで灘以前から栄えた伊丹。尼子氏に仕えた戦国時代の名将・山中鹿之助の長男にあたる新六幸元が、伊丹北部の親戚を頼って鴻池に落ち着き、酒造業を興して江戸への輸出ルートを確立したと伝えられる。儒学者である中井履軒が書いた『鴻池稲荷祠碑』によれば、日本初の諸白澄酒を造ったのが鴻池家とか。主とトラブルを起こした雇い人がもろみ槽に灰を投げ入れたところ、粕が灰と一緒に沈んで清酒になったというのだ。
そんな伊丹の銘醸地にはみやのまえ文化の郷があり、酒造家を営んでいた旧岡田家と、雑貨店であった旧石橋家が見学できるので、統括責任者の小長谷正治さんと新居奈津美さんに、伊丹の文化と歴史についてお話を聞いてきた。
「『みやのまえ』の宮は猪名野神社のことで、門前町として賑わっていました。伊丹は諸白澄酒発祥の地と言われています。澄酒が清酒を意味するのは想像がつくと思いますが、諸白はわかりづらいかもしれませんね。諸白造りとは白米から酒造りをすることで、奈良からその技術が伝わったと言われています」と小長谷氏。
有岡城主の荒木村重が信長に討たれた後も城下町は残り、江戸時代になると、伊丹郷町領主の近衛家が清酒醸造業を保護したので、一帯はさらに栄える。まち中には近衛家の会所(役場)が置かれていて、総宿老(そうしゅくろう)を筆頭に、有力酒造家が住民の代表となり、市民自治をしていた。
長年酒造が行われていた旧岡田家
伊丹は酒造を中心に、米屋、樽屋、桶屋、馬借(ばしゃく・運送業)など、酒造りに付随する職業で栄えていたため、往時には大きな町家がたくさんあったという。
延宝2(1674)年に旧岡田家を建てたのは、酒造家である松屋与兵衛。三つ鱗が商標の「松緑」を醸造し、江戸に送っていたという。
「当時の記録は残っていませんが、地元で飲まれる地回りの酒を醸造する酒造家は、別にいたのではないでしょうか。江戸では伊丹の酒は良質だというイメージがありましたし、伊丹の人口に比べれば、江戸は一大消費地です。有力酒造家は江戸に出店を持ち、販路を構築していました。伊丹は内陸部なので、江戸への輸出は少し手間取ったようです。まずは馬や猪名川の通船を利用して神崎まで行き、大阪から海運を利用していました」
その後、この建物は鹿島屋清右衛門に譲られる。最初から近代まで同じ家が造っている伊丹の酒蔵は珍しく、松屋では手代の横領が原因で経営に行き詰まって、鹿島屋に売り渡したらしい。
その後短期間ではあるが安藤由松の所有となり、明治時代に岡田正造家に譲渡された。岡田家はもともと米を商う家だったが、このときから酒造を始め、昭和中期まで大手柄酒造の「富貴長」を造っていたらしい。
酒造りの見所が多数
母屋は帳場にあたる店の間や中の間、次の間、奥の間などがあり、立派な家構えだが、注目すべきはなんといっても、酒造りが行われていた釜屋や洗い場、搾り場だろう。
酒造りの場は時代により変遷があり、現在見学できる釜屋は幕末以降のもの。大きいかまどと小さいかまどが掘られており、さらに下部に焚き口がある。かまどといえば土間から盛り上がっているものを連想するが、酒造りのかまどは地下。かまどの上に湯を沸騰させて蒸気を出すための鉄の羽釜を、さらにその上に米を蒸す甑を乗せねばならないため、掘られたかまどでないと安定が悪いのだ。
釜屋から天井を見あげると煙出しが見える。小長谷氏は、「明治時代に煙突が造られましたが、それ以前は煙出しから煙を排出していました。建築当初のものは小さな開口部が斜め下を向いて付けられていて、雨が入ってこない工夫はされていますが、煙の排出効率が悪かったのではないでしょうか。新しいものは幕末以降のもので、下斜め向きの羽根板がたくさんついた鎧戸状になっており、雨を入れずに効率よく煙を出せるようになっています」と、土間にある古い煙出しとの違いを教えてくれた。
釜屋のすぐ隣には洗い場があり、深さ21メートルの井戸から汲み上げた水で、米を洗っていた。
面白いのは、隣接する釜屋と洗い場の上の梁構造が違うこと。釜屋の梁は格子状だが、洗い場の梁は放射状で、より近代的な構造。時代によって増改築が繰り返されてきたとわかる。
発掘調査によって、現在の酒蔵に搾り場があったことがわかっている。搾り場はもろみを搾る場のことで、「鴻池氏がもろみに灰を投入して澄酒にしたというのは伝説の域をでず、通常は槽(ふね)によりもろみを搾っていたようです」と、槽も復元されている。槽の右側にあるのが男柱と呼ばれるもの。ここから突出する棒を押し下げ、「てこの原理」で圧をかけて搾っていた。男柱は地下に埋もれているので、腐りにくい松材が使われていたようだ。
雑貨屋を営んでいた旧石橋家
旧岡田家の隣に移築された旧石橋家は江戸時代後期に建てられた商家。雑貨屋を営んでおり、幕末から明治は紙や金物を扱っていた。明治になると古い酒蔵を買い取り、酒造りも始めたらしい。移築されたのは母屋だけだが、一階には店の間、番頭部屋、中の間、仏間、座敷、台所、土間、二階には表の間、茶室、座敷、階段室、下部屋と部屋数が多く、かなり富裕な大店だったと推測できる。
厨子二階と呼ばれる物置のような空間があり、滑車でシャッターのように上げる「摺り上げ大戸」の綱が延びているから、旧石橋家を訪ねた際は、見逃さないでほしい。
現在の旧石橋家には伊丹郷町クラフトショップがあり、酒器・酒盃台などをテーマとする「伊丹国際クラフト展」で入賞した作家の作品が展示されているから、酒造りのまちらしさを楽しめる。
古いまちらしいイベントも開催されており、秋の「秋の鳴く虫と郷町」は特にユニークだとか。どんなイベントなのか新居さんに尋ねると、「虫の音を聞く江戸時代の『鳴き虫』を現代風にアレンジしたもので、まち全体が会場です。秋に鳴く鈴虫などを虫籠に入れて、家の中や飲食店、街路樹などに展示し、郷町館では、旧石橋家のカウンターでカフェをしたり、旧岡田家の土間で古楽(中世ヨーロッパの音楽)のコンサートをしたりしています。音楽で虫の声が消されてしまうと心配されるかもしれませんが、音楽にタイミングよく虫の鳴き声が挿入されて、いい感じですよ」と、教えてくれた。
「鳴く虫と暗蔵(あんぐら)」は、その名の通り、酒蔵を暗くして、虫の声を楽しむ。子どもは懐中電灯で虫をさがして、おおはしゃぎするという。
文化財を守っていきながら、活用していきたいというのが、伊丹郷町館の目標。5月30日には旧岡田家の酒蔵で、古楽のコンサートも開かれるから、町家のみならず、伊丹の酒造りに興味のある方は訪れてみてほしい。
■取材協力:みやのまえ文化の郷(伊丹郷町館)
http://hccweb1.bai.ne.jp/itamihall/zaidan/gotyou.html
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