昭和33年に『併存住宅』として建てられた築60年の古ビル

千日前通りと新なにわ筋が交わる『汐見橋』交差点の角地に、昭和33(1958)年生まれの古ビル『新桜川ビル』が建っている。

戦後の高度経済成長期には、新しい都市住宅の在り方として、下層階に店舗や事務所・上層階に賃貸住宅を設けた『併存住宅』が注目を集めるようになったが、この『新桜川ビル』も当時の大阪府住宅協会(現:大阪府住宅供給公社)が併存住宅として設計したもので、滑らかな曲線を描く扇形の外観フォルムや、格子の窓枠をリズミカルに配置した意匠性から、当時の設計技術の粋を極めた建物であったことが窺える。

しかし、竣工から60年の時を経て建物は老朽化。店舗や賃貸住宅の半数以上が空室となり「いよいよ取り壊しか?リノベーションか?」を迫られたとき、ビルのオーナーが選択したのは『この建物のモダニズムを再興するためのリノベーション』だった。

▲『新桜川ビル』新築当時の写真。有名建築家が設計した建物ではないものの、独特の扇形のビルは実に個性的で、長年『汐見橋』交差点のシンボルとして地域の人たちに愛され続けてきた。当時、建物の裏側に市場があったことから“ゲート的な意味合いを持つ建物”として扇形に設計されたと伝えられている。※出典/「10周年 財団法人大阪府住宅協会」▲『新桜川ビル』新築当時の写真。有名建築家が設計した建物ではないものの、独特の扇形のビルは実に個性的で、長年『汐見橋』交差点のシンボルとして地域の人たちに愛され続けてきた。当時、建物の裏側に市場があったことから“ゲート的な意味合いを持つ建物”として扇形に設計されたと伝えられている。※出典/「10周年 財団法人大阪府住宅協会」

「面白いビルなので、残せるものなら残したい」相談を受けリノベを提案

▲『新桜川ビル』を案内してくれたアートアンドクラフトの土中萌さん。1・2階は店舗と事務所、3・4階は賃貸住宅フロア、屋上には入居者専用の洗濯物干し場がある。「阪神高速をすぐ目の前に眺める屋上スペースは最高です」と土中さん▲『新桜川ビル』を案内してくれたアートアンドクラフトの土中萌さん。1・2階は店舗と事務所、3・4階は賃貸住宅フロア、屋上には入居者専用の洗濯物干し場がある。「阪神高速をすぐ目の前に眺める屋上スペースは最高です」と土中さん

「この『新桜川ビル』は、住宅が足りない時代に“賃貸住宅をもっと街なかに増やそう”という計画で建てられたと聞いています。

当時はまだ木造の低層住宅ばかりでしたから、鉄骨鉄筋コンクリート造の集合住宅なんて誰も見たことがない時代でした。だからこそ、住宅協会の設計担当者も力を入れて、細部にまでこだわりを持って丁寧にデザインをしたのだと思います」(以下:「」内は土中さん談)

『新桜川ビル』のリノベーションを手がけたのは、大阪市西区に本社を置くリノベーション会社『アートアンドクラフト』だ。広報の土中萌さんが、同ビルのコンセプトとして『モダニズム再興』を掲げるまでのストーリーを話してくれた。

「住宅協会によって建てられたこのビルは、後に民間企業へ売却されました。大通りに面した交差点の角地ですし、阪神『桜川』駅の駅上で地の利も申し分なしでしたが、扇形の変形空間はいまどきのライフスタイルには合わず空室が増えてしまっため、収益性を上げるために建て替えを検討していたそうです。しかし、オーナーさんご自身がこの建物に愛着があり、“面白いビルなので残せるものなら残したい”という想いをお持ちだったので、相談を受けた当社でリノベーションを担当することになったのです」

建物自体は阪神淡路大震災のときにも大きな被害は無かったほど頑丈に造られていた。集合ポスト、階段手すり、照明器具、ドアノブ、階段踊り場に設けられた丸窓。まだ既製品が少なかった時代にオリジナルでデザインされたパーツにはレトロなお洒落さがあり、土中さんたちスタッフは“モダニズム建築のオーラ”のようなものを感じたそうだ。

「今となってはもう造ることができない希少性の高い建物で、この雰囲気が好きなユーザーは確実に存在している…そう確信を持つことができたので、“当時のモダニズム建築の美しさを再興させましょう”とオーナーさんに提案をおこない、快諾していただきました」

ピカピカにするのではなく、デザイン美を尊重して残すためのリノベーション

リノベーションの提案から完了までには約2年半を要した。最も苦労したのは、昔からビル内に店を構えている店舗や事務所、賃貸住宅の入居者の生活の営みはそのまま維持しつつ、建物の機能を更新しなくてはならない点だった。一店舗ずつ、一人ひとりに丁寧に説明をして理解を得ながら段取りを組んだ。

「大変だったのは、内部の構造図面が残っていなかったこと。実際に解体してみないと、どれが重要な構造壁でどれが取り外せる壁なのかがわからなかったんです。そのため、途中で急遽設計変更した箇所もあります。特に住居部分は独特の扇形をしているので、斜めの壁に浴室を設置するのが大変な作業でしたね(笑)。建物機能の更新のためには配管を集約して水廻り設備の交換を行うことが不可欠でしたが、今の既製品の四角いアイテムをどうやって斜めの部屋に入れるか?という工夫はプランナーの腕の見せどころになりました」

手延べガラスは残し、塗装だけ塗りなおす。ドアの扉は取り替えたが、ドアノブはそのまま使う。スタッフのセンスで「残すべきもの・要らないもの」を直感的に判断し、新しく更新したパーツも極力当時のデザインに近づけるようにして、どれが古くどれが新しいのかわからない状態に仕上げていった。

「色をちょっとくすませて昔っぽい雰囲気にしたり、給水バルブは塗装しなおしてあえてむき出しにしたり…ピカピカにするのではなく設計当初のデザイン美を残して、リノベーション箇所を最小限に抑えるようにしました。“昔のものを生かす”という作業は、どうしても新築より作業の手間はかかってしまいますが、わたしたちスタッフも好きで楽しませてもらったというのが正直なところです(笑)。オーナーさんにとっては建て替えをするよりも初期投資を抑えることができたので、回収率アップにもつながりました」

▲リノベーションが完了した『新桜川ビル』。昔からの洋品店・カレー屋などが入る1階テナントにはまったく手を加えず、新たに募集をかける店舗・事務所はスケルトン状態にして入居者に内装を任せることに。ビルの館銘板や入口のタイルはクリーニングをしただけで昔のまま残した。「そもそも当時のデザインがお洒落だったので、今見てもカッコイイですよね。時代が一巡して、再び“昭和30年代の建築がお洒落”と思える時代がやってきたのだと思います」と土中さん▲リノベーションが完了した『新桜川ビル』。昔からの洋品店・カレー屋などが入る1階テナントにはまったく手を加えず、新たに募集をかける店舗・事務所はスケルトン状態にして入居者に内装を任せることに。ビルの館銘板や入口のタイルはクリーニングをしただけで昔のまま残した。「そもそも当時のデザインがお洒落だったので、今見てもカッコイイですよね。時代が一巡して、再び“昭和30年代の建築がお洒落”と思える時代がやってきたのだと思います」と土中さん

人も、店も、建築も、新・旧が交わることで新しい効果を生み出す

モダニズム再興。このリノベーションコンセプトに合わせてユーザーのターゲットを絞込み、リノベーション工事中からテナント・入居者の募集活動を行ったところ、土中さんたちの読み通り、このコンセプトに共感する希望者が殺到した。テナントを決定する際にはビル内の他店と業種が競合しないように配慮し、オーナーと共に“ビルのコンセプトにマッチする店舗か否か?”の審査も行った。リノベーションによって従来より賃料は約14%アップしたが、現在はテナントフロアも賃貸住宅フロアもすべて満室で、オーナーも満足しているという。

「テナントや賃貸の入居者の方は、20代から50代までと幅広い世代で、みなさん『建築が好き』『ヴィンテージが好き』という共通の志向をお持ちの方が多いですね。志向が似ている方同士というのはひとつのきっかけがあるとすぐに距離を縮めやすいので、新しく賃貸に入居された方が下の店舗のオーナーさんと仲良くなったり、昔から1階で営業していたパン屋さんのパンを、お隣に新しくできたコーヒースタンドでイートインできるようにしたりと、ビル内の新・旧の交流を通じて『ビル全体の活性化』を生み出しているように感じます」

リノベーション後に新しく店を構えた食堂は、SNSで「レトロかわいい」と話題になり、従来は『桜川』駅に降り立つことがなかった若い女性たちが『新桜川ビル』に集まって店の前に行列を作るようになった。

築60年の古ビルの再興が、これまで目立たなかった街にスポットライトを当て、街のイメージを変えるきっかけを作ったのだ。

▲食堂、ショットバー、クリエイター教室、撮影スタジオなど様々な店舗が並ぶ2階テナントフロア。取材時はアイドリングタイムで比較的静かだったが、どのお店も「建物がインスタ映えする」と評判になり連日行列ができるほど賑わっているという。「新しい店舗が新しいお客さんを呼び込むことで、昔からある店舗も活気を取り戻しています」と土中さん。もともと『桜川』は『堀江』『なんば』にも近く利便性の高い街だったが、『新桜川ビル』のリノベーションをはじめ、周辺でインバウンド向けのゲストハウスが増えていることもあって、『桜川』エリアの街のイメージがどんどん変わってきているそうだ▲食堂、ショットバー、クリエイター教室、撮影スタジオなど様々な店舗が並ぶ2階テナントフロア。取材時はアイドリングタイムで比較的静かだったが、どのお店も「建物がインスタ映えする」と評判になり連日行列ができるほど賑わっているという。「新しい店舗が新しいお客さんを呼び込むことで、昔からある店舗も活気を取り戻しています」と土中さん。もともと『桜川』は『堀江』『なんば』にも近く利便性の高い街だったが、『新桜川ビル』のリノベーションをはじめ、周辺でインバウンド向けのゲストハウスが増えていることもあって、『桜川』エリアの街のイメージがどんどん変わってきているそうだ

地元の個人店をちゃんと残すことができる…これがリノベビルの面白さ

こうして『桜川』エリアの新しいランドマークとなった『新桜川ビル』は、60年の時を経て息を吹き返し、地域の賑わいも再興させた。

「最近は東京・大阪を中心にして高度経済成長期に建てられた古いビルがどんどん姿を消しています。著名な建築家が設計した建物ならその名前だけで残しやすいのかもしれませんが、普通の古いビルの場合は取り壊して建て替えるほうが簡単ですからね。でも、新しいビルを建てると当然賃料が高くなるため、テナントには巨大資本の全国チェーン店しか入れなくなり、デザインも店舗構成も似たようなビルばかりになってしまうのが本当に残念です。

その点、リノベビルの場合は、昔ながらの地元のお店をその場所にちゃんと残すことができますし、知名度はまだまだでもユニークな個人店が登場することによって、感度の高い人たちが自然に集まるようになります。それこそが、新しいビルにはないリノベビルの面白さなので、今後も建物のリノベーションだけでなく、運用のコーディネートも含めて古いビルの保存・再生のお手伝いができたら良いなと思っています」

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定期的に適切なメンテナンスを行えば、古いビルの寿命を延ばすことは可能だが、何より古ビルの延命に欠かせないものは、オーナー自身の建物への想いと愛着だ。その想いにしっかりと寄り添うことができる施工会社が増え、その再興ストーリーに共感するユーザーが増えていけば、消え行く日本の古ビルを1棟でも多く救うことができるかもしれない。

■取材協力/アートアンドクラフト
https://www.a-crafts.co.jp/

▲どこか古くて懐かしい、イマドキのインテリジェントビルにはないやさしい温もりが感じられる『新桜川ビル』の館内。リノベーションによって再び輝きはじめた築60年の古ビルの姿に、自分の人生を重ねて眺める人も少なくないだろう▲どこか古くて懐かしい、イマドキのインテリジェントビルにはないやさしい温もりが感じられる『新桜川ビル』の館内。リノベーションによって再び輝きはじめた築60年の古ビルの姿に、自分の人生を重ねて眺める人も少なくないだろう

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