バブル以降、多くがマンションへ建て替えられてしまった熱海の「お別荘」

「奈良時代、海底から温泉が湧き出て、周辺の海水がことごとく熱湯に変わったことから『あつうみが崎』改め『熱海』と呼ばれるようになった」と伝えられている国内屈指の温泉別荘地・熱海。古くから湯治場として知られ、かの徳川家康も保養に訪れたそうだが、別荘地としてその名が全国へ轟きはじめたのは明治時代末期のこと。1907(明治40)年に小田原~熱海間の25.3kmを結ぶ国鉄熱海線が軽便鉄道線として開業したことをきっかけに、東京から気軽に出かけられる保養地として多くの実業家・学者・文化人らが別荘を構えるようになった。

(ちなみに、機関車が牽引する軽便鉄道の開業前までは、人力でトロッコを動かす人車鉄道だったという。国鉄熱海線は後に東海道本線として開通した)

しかし平成に入ると、地元の人たちから「お別荘」と呼ばれていた大正~昭和初期の贅を尽くした建物は、後継者不在や相続税問題などから人手に渡るようになり、ことごとくバブルの泡に飲み込まれてリゾートマンション等へと変わっていた。現在、熱海市内には約1万戸の別荘があるが、その約7割が平成以降に建てられたマンション別荘であり、現存する別荘黄金期の建物は、坪内逍遥が晩年を過ごした『双柿舎』、歌人・佐佐木信綱の邸宅『凌寒荘』、ドイツ人建築家 ブルーノ・タウトが地下室を設計した日本国内唯一の個人宅『旧日向別邸』など、数えるほとどなっている。

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そんな消え行く熱海の「お別荘」の中で、『岩崎別荘』『住友別荘』と並ぶ熱海の三大別荘として称賛された『起雲閣(きうんかく/旧根津別荘)』は、いま熱海の文化発信拠点として新しい役割を担っている。その維持・管理運営を任されているのは、なんと地元の主婦メンバーを中心とした女性だけのNPO法人だ。

▲名別荘と称えられた『起雲閣』は、2002(平成14)年 に熱海市の指定有形文化財に指定された。JR『熱海』駅から車で約10分ほど、熱海市街地にほど近い約3000坪の広大な敷地には、美しい日本庭園をぐるりと囲むようにして伝統的日本家屋の和館、離れ、中国・欧州などの建築様式を融合させた洋館など、合計9つの建物が回廊式に配置されている▲名別荘と称えられた『起雲閣』は、2002(平成14)年 に熱海市の指定有形文化財に指定された。JR『熱海』駅から車で約10分ほど、熱海市街地にほど近い約3000坪の広大な敷地には、美しい日本庭園をぐるりと囲むようにして伝統的日本家屋の和館、離れ、中国・欧州などの建築様式を融合させた洋館など、合計9つの建物が回廊式に配置されている

管理を民間へ!市民運動を行っていた地元の主婦グループに白羽の矢が

▲館長の中島美江さんが『起雲閣』の管理に携わるようになってもう6年が経つ。「わたしたちは、学者さんのような専門知識は持ち合わせていませんが、“どういう経緯でこの建物が建てられ、なぜ存続しているのか?”ということを自分たちなりの言葉でわかりやすくお伝えするようにしています。お客様には、ここ起雲閣だけでなく熱海の街全体を楽しんで帰っていただきたいので、こちらから積極的に話しかけて、地元の美味しいお店の情報とかオススメの立ち寄りスポットをご紹介しているんですよ」と中島さん▲館長の中島美江さんが『起雲閣』の管理に携わるようになってもう6年が経つ。「わたしたちは、学者さんのような専門知識は持ち合わせていませんが、“どういう経緯でこの建物が建てられ、なぜ存続しているのか?”ということを自分たちなりの言葉でわかりやすくお伝えするようにしています。お客様には、ここ起雲閣だけでなく熱海の街全体を楽しんで帰っていただきたいので、こちらから積極的に話しかけて、地元の美味しいお店の情報とかオススメの立ち寄りスポットをご紹介しているんですよ」と中島さん

館長を務める『NPO法人あたみオアシス21』の中島美江さんは、現在70歳。「わたしたちね、ほんとに普通の専業主婦なの。わたしの場合は47年前に熱海へ嫁いで以来、これまでずっと子育てをしてきて、64歳のときに人生で初めて経験した“お勤め”がこの仕事でした」とにっこり。

『起雲閣』は、もともと1919(大正8)年に海運王と呼ばれた実業家・内田信也が足の悪い母のために建てた純和風の別荘で、車椅子でも動きやすいように畳の部屋と廊下の段差を無くすなど、当時としては珍しい“バリアフリー設計”が採り入れられていた。

その後、1925(大正14)年に鉄道王・根津嘉一郎が二代目所有者となって隣地を買い広げ、敷地内から湧き出た温泉を利用して『ローマ風浴室』など2棟を増築。さらに戦後1947(昭和22)年には、石川県能登町出身の実業家・桜井兵五郎が敷地・建物を買取り、旅館『起雲閣』を開業。館内の見どころのひとつとなっている和館1階『麒麟』の壁には、加賀地方特有の伝統的技法である真っ青な群青壁が用いられるなど、屋主が変わるたびに豪華なしつらえと建物の機能がどんどん更新されてきた。

「しかし、1999(平成11)年に旅館が廃業となり『起雲閣』は競売にかけられることになってしまったんです。3000坪もあるこの場所が人手に渡ったら、きっと建物は壊されてマンションになってしまう…そうした中で市民運動が起こり、地元から保存を望む声が挙がりました。

競売物件はとてもややこしいので、弁護士さんから止められるぐらい行政としては“手を出しにくい案件”だったそうです。しかし、地元の強い要望に背中を押される形で、熱海市がひとつひとつ抵当を剥がし、結果、この敷地と建物を取得することができたのです。そのとき、たまたま市民運動の女性代表をしていたのがわたしで、その流れでNPO法人を立ち上げ、指定管理者制度に基づき熱海市の委託を受けて、2012(平成24)年から『起雲閣』の管理運営を任されるようになりました」(中島館長談)

現在の『起雲閣』は、歴史的建造物の保存と市民交流の場、熱海の文化発信地としての役割を担っている。

我が家を愛するように、築98年の指定有形文化財を慈しむ

『起雲閣』の館内を見学すると、その美しい佇まいや各建物にまつわるエピソードのおもしろさはもちろんなのだが、何より館内のスタッフの“親しみやすい応対”にも驚かされる。一般的に文化財の見学というと、ひっそりと静まりかえった中で難解な解説に耳を傾けるイメージがあるが、『起雲閣』の場合は、受付・館内ガイド・清掃・喫茶スタッフまですべて女性ばかり。しかもとてもフランクな接客で、積極的に来場者と交流を図っているのだ。

「スタッフは女性ばかり12名です。下は40代から上は70代まで、みんな長年熱海で暮らしている主婦ばかり。他にも、NPOからお願いしているシルバー人材センターの方がお掃除や見回りをしてくださったり、ずっとボランティアで館内のガイドを続けてくださっている方もいます。“この場所を残したい”という思いがつながっている仲間たちに支えられています」(中島館長談)

館内には、素手では触れることができないような文化財的価値の高い調度品もあるが、基本的には「我が家を愛し、慈しむような気持ちで毎日お掃除や見回りをしています」と中島さん。

「スタッフはみんな“主婦目線”を持っているので、“ここがギシギシして傷んできたから直したほうがいいわ”とか、“ここはもっと経費の節約ができるわ”とか、女性特有の細かいところまで目が行き届くんです(笑)。特にモデルケースがあったわけではないので最初は試行錯誤の連続でしたが、困ったことがあればすぐに熱海市の担当者の方がアドバイスをくれましたし、今も官・民の連携が上手く取れています。おかげで、当初は赤字だった運営がここ3年で来場者数が10万人を超すようになり、収益も順調に上がってるんですよ!」(中島館長談)

この『起雲閣』のように、市の文化財の管理を民間へ委託し運営が成功しているケースは国内でもまだ珍しく、近年は県外の行政や市民団体からの視察も増えているという。

▲写真左上から時計回りに:『麒麟』と『大鳳』のある本館入口/食堂のある『玉姫』と暖炉のある『玉渓』。瓦屋根はすべて京都・泰山タイルの特注品で、光沢のある茶褐色が特徴/『麒麟』と『大鳳』を庭園から眺めた様子。この2階『大鳳』には太宰治が亡くなる3ヶ月前に滞在し『人間失格』を執筆した/その他、旅館時代に増築された客間は『音楽サロン』や『展示室』など、市民向けの貸し出しスペースとなっている▲写真左上から時計回りに:『麒麟』と『大鳳』のある本館入口/食堂のある『玉姫』と暖炉のある『玉渓』。瓦屋根はすべて京都・泰山タイルの特注品で、光沢のある茶褐色が特徴/『麒麟』と『大鳳』を庭園から眺めた様子。この2階『大鳳』には太宰治が亡くなる3ヶ月前に滞在し『人間失格』を執筆した/その他、旅館時代に増築された客間は『音楽サロン』や『展示室』など、市民向けの貸し出しスペースとなっている

主婦ならではの目線でチェック、専門知識がなくても“観察すること”が大事

「専門的な知識が無かったとしても、こまやかな目で見てしっかり観察してあげること…これが歴史ある建物を管理する上で、とても大切なことだと気づきました」と中島さん。

指定有形文化財になっている部分は、中島さんたち個人の判断では整備できないため、熱海市の文化財保護委員が視察を行った上で審議会にかけ、予算を取得できるとようやく修復可能となる。一番経費がかかるのは日本庭園の維持だが、基本的には年間を通して地元の造園業者が手入れを行っている。また、文化財以外の部分は、中島さんたち女性スタッフが毎朝8:00頃から草取り・落ち葉拾いなどをしながら、建物の内外の見回りを行い“昨日と違うところがないか”をチェックしているという。

「怖いのは台風。特に洋館にはイギリス直輸入の年代物の一枚ガラスが使われているので、何かあったらもう取り返すことができません。台風の予報が出たときは木の雨戸を閉めるんですが、雨戸自体も古くなっているため、なかなか女性の手では動かせず本当に大変!でも、文化財に電動シャッターをつけるわけにはいきませんから、木の雨戸のスムーズな閉め方のコツをみんなで研究しました(笑)。

いつも心配しているのは漏電による火事ですね。配線に詳しいお客様がいらっしゃると“ちょっとここの部分の配線が古いから、気をつけて…”と声をかけてくださる。そしたらすぐに市に伝えて修繕の相談をします。歴史ある建物なだけに、専門家の方も見学に来てくださって、いろいろなアドバイスを残してくださいます。お客様からのご意見は本当に貴重です」(中島館長談)

▲鮮やかな青色の壁『群青壁』と『二段長押』、外の空気を取り込む『無双窓』、大木から1本しか取れない『正目の柱』などのしつらえも歴史的価値が高いものばかり(写真左側の格子戸は意匠性を損なわず耐震補強をするために新しく取り付けられたもの)。「館内に花を生けたり、コロコロを使って廊下のホコリを取ったり(笑)、主婦目線で地道なお掃除を続けてきたら、開館当初からのお客様が“最初よりも建物がキレイになったね”と声をかけてくださって、本当に嬉しかったですね。古い建物も愛情を注いでお手入れすると生き生きと蘇りますから、訪れたお客様から“古くてもキレイ”と感じていただけるよう努めています」▲鮮やかな青色の壁『群青壁』と『二段長押』、外の空気を取り込む『無双窓』、大木から1本しか取れない『正目の柱』などのしつらえも歴史的価値が高いものばかり(写真左側の格子戸は意匠性を損なわず耐震補強をするために新しく取り付けられたもの)。「館内に花を生けたり、コロコロを使って廊下のホコリを取ったり(笑)、主婦目線で地道なお掃除を続けてきたら、開館当初からのお客様が“最初よりも建物がキレイになったね”と声をかけてくださって、本当に嬉しかったですね。古い建物も愛情を注いでお手入れすると生き生きと蘇りますから、訪れたお客様から“古くてもキレイ”と感じていただけるよう努めています」

「お別荘」は熱海市民の心の風景、携わった人たちの想いを継承していきたい

「運営に携わるようになって改めて実感したことですが、行政が機械的に“市の文化財だから、この建物を大事にしましょう”と訴えるだけではなかなか文化財の保存は成り立ちません。先人が残してくれた財産であること、携わった人たちの保存に対する想い、それらをより多くの人たちに伝え、共感してもらうことが何より大切なのだと思います。『起雲閣』をはじめとするお別荘は、熱海市民の心の風景であり、市の宝物。わたしたちも何歳まで活動ができるかわかりませんが(笑)、少しでも多くの若い人たちにこの“想い”をバトンタッチして、これからも行政と一緒に保存活動を行っていきたいですね」(中島館長談)

中島さんをはじめ、運営に携わるメンバーは、買い物途中で出会ったご近所の人に『起雲閣』での催しについて伝えたり、喫茶に新しいメニューが登場したら「食べに来てね」と宣伝をしたりと、“主婦のクチコミパワー”も駆使して地道なPR活動を行い功を奏しているという。

『何かを保存して伝える』ということは『人の想いを継承していく』こと。これまで、文化財の保護は難解な課題のように捉えられてきたが、まずは行政側が市民を信頼し“地元力に頼ってみる”ことも、非常にシンプルな成功への近道なのかもしれない。

■取材協力/起雲閣
http://www.ataminews.gr.jp/spot/114/

▲ゴージャスなローマ風浴室(左上)の浴槽のまわりには木のタイルが使われている。一時期壁のタイルが膨らんで落ちてしまいそうになっていたため入室ができなかったが、昨年修復が完了した。食堂の床は繊細な寄席木細工で、劣化を防ぐために現在は部屋の外からの見学のみとなっている。「展示家具の中には、座ってはいけない椅子などもありますが、極力手を触れていただけるようになっているのがこの『起雲閣』の特徴。お客様のアンケートでは、貴重な建物や調度品を身近に感じることができてよかったという声を多く頂戴しています」と中島さん▲ゴージャスなローマ風浴室(左上)の浴槽のまわりには木のタイルが使われている。一時期壁のタイルが膨らんで落ちてしまいそうになっていたため入室ができなかったが、昨年修復が完了した。食堂の床は繊細な寄席木細工で、劣化を防ぐために現在は部屋の外からの見学のみとなっている。「展示家具の中には、座ってはいけない椅子などもありますが、極力手を触れていただけるようになっているのがこの『起雲閣』の特徴。お客様のアンケートでは、貴重な建物や調度品を身近に感じることができてよかったという声を多く頂戴しています」と中島さん

2017年 08月01日 11時07分