集合住宅を自分たちで建設する方法=コーポラティブ方式
一戸建てならいざ知らず、集合住宅は買うものと考えている人が多いと思う。だが、集合住宅でも自分で、いや、自分たちで建てるという方法がある。コーポラティブ方式というやり方である。
18世紀後半のイギリスで劣悪な住宅事情を解消するために労働者が掛け金を積み立てて、住まいを協同組合方式で建設したのが始まりとされ、日本でも1960年代後半くらいから少しずつ建てられるようになってきた。登場した頃は地価の上昇が著しく、住宅問題が深刻だった高度経済成長期であり、普通のビジネスマンが都心近くに家を買うことが難しかった時代。そのため、みんなで土地を買って、そこに自分たちで家を建てればより原価に近く家を得られるのではないかという発想からスタート。黎明期には若い建築家を中心に企画され、最初は自分の住まいの建設という形で誕生している。
その後、80年代から90年代初めにかけては住宅都市整備公団(現UR都市機構)や大都市圏の住宅供給公社が土地を提供する形で建てられた時期があり、以降コーポラティブハウスは多様化が進む。入居者が自分たちで時間、手間をかけて建設する形から企画者がそれを肩代わり、入居者の負担を軽減する仕組みが登場したり、土地を購入するのではなく定期借地権で利用する方法、既存建物を改修する造り方、環境共生型、住民同士の相互扶助を重視した共助型や賃貸でもコーポラティブハウスのように建設時から入居者も参加するタイプなど、現在ではコーポラティブハウスと一言でまとめるのが難しいほどになっている。
ここでは2000年4月に竣工した奈良市のコーポラティブハウス「つなね」(設計・コーディネート VANS 以下ヴァンズ)をご紹介する。1996年に同じ団地に住む2家族がコーポラティブハウス建設を決意、周囲に参加を呼び掛けるところからスタートした住宅は竣工から22年。入居後すぐの住み心地を伝える記事はよくあるが、20年以上住んだ後の住み心地を聞く記事は珍しいはずである。
6種類、3万枚のビラを配布し参加者を募る
つなねが立地するのは近鉄奈良線高の原駅から歩いて5分ほどの場所。京都方向に向かう車中から右手に広がる斜面にある3棟23世帯の建物がつなねである。このエリアは1960年代に計画がスタートした平城・相楽ニュータウン建設に伴って開発されてきており、最寄り駅の高の原はその入り口。現在では関西文化学術研究都市の玄関口でもある。
そのため、駅周辺はもちろん、広範な地域にわたって大規模な団地が点在。その中にあってつなねは7mもの高低差のある傾斜地の緑の中にあり、外から見ても各部屋がそれぞれ異なるものであることが分かる時点でかなり異色である。また、景観だけでなく、誕生の経緯も他とは一味も二味も違う。
始まりは1996年5月24日。つなねの竣工までを記した記念誌「つなね物語」(以下記念誌)によると高の原駅前団地に住んでいた「瀬渡さん(夫)と山下さん(妻)が高の原駅前で出合い、コーポラティブハウスをやろうかと言い出す」とある。その翌日、この2家族は団地の草取りをしながら決意を固めた。
すごいと思うのは、2家族で3回のミーティングをした後に高の原駅前団地の340戸にビラを配布。その後も23世帯の参加者が決まるまで6種類、3万枚ものビラを自分たちで配布したということ。驚くべき行動力である。
記念誌にはビラも収録されている。それにはコーポラティブ住宅の魅力が大きく4点挙げられている。ひとつは個別設計による住戸の自由な設計。ふたつ目は楽しい近隣関係とあり、「住宅が完成する前から楽しい付き合いが始まっています」と書かれている。3つ目は実質性。余剰利潤や宣伝費などの諸経費がかからないため、「ガラス張りの予算で実質的な住宅をつくることができます」。最後は「個人では持てないような共同施設(集会所、パーティールーム、庭園、音楽室、レンタルルーム…)をつくったり、話し合いによって犬猫などのペットが飼えるようになることも魅力です」(表記は記念誌のまま)。
ただ、この時点では建設場所は平城・相楽ニュータウンとだけ決まっているだけで、建設時期は決まっておらず、価格も一般のマンション程度が目標とあるだけ。本当にゼロからのスタートだったのである。
大小合わせて100回の打ち合わせを経て着工
最初のビラ配布に続き、同年7月には駅西団地に1,500枚のビラを配布、8月には最初の説明会が開催されている。その後、完成までに何をやり、何が起きたかは記念誌に詳細に記録されているのだが、参加者募集の説明会(全8回)の他に、参加者が集まってのミーティング(全35回)、建設組合(以下組合)ができてからは建設組合総会(全31回)があり、現場見学会なども含めると参加者は多い月には2回、3回と集まり、協議、検討をしていた様子が分かる。記念誌には着工までの打合わせ回数は大小合わせて約100回ともある。
添えられた写真を見ると子どもも含めて家族で参加、時には乾杯をしている風景が混じっており、どの写真も賑やかで楽しげ。実際には途中に危機もあるのだが、造る過程まで楽しんで進められてきたことが分かる。
この記録でもうひとつ、目に付くのは2家族が集まってのビラ配布の時点での毎日新聞奈良版に始まり、テレビや雑誌など多くのメディアに取り上げられてきたこと。冒頭で挙げたように1960年代後半から建設されてきたコーポラティブハウスではあるが、ここまで自分たちで情報を発信、行動してきた例は少ないのではないかと思った。
もちろん、これは意図してのこと。コーポラティブハウス建設にはいくつかの課題があるが、そのひとつがメンバー集め。つなねではビラの配布、メディアへの情報発信、口コミで知り合いに働きかけるという3つの方法で取り組んだが、最後の一世帯が決まったのは土地の手配が動きだしてからというぎりぎりのタイミングだった。
分譲マンションの場合、販売後に空き住戸が出てもリスクは事業を進める分譲会社が負うことになり、居住者には無縁。ところがつなねの場合は居住者が作った組合が事業の主体である。メンバーが集まらずに空きが出たら、その負担は他の居住者全員にかかってくることになる(コーポラティブハウスがすべて同じやり方というわけではなく、居住者は負担を追わない形式もある)。メンバー集めに一生懸命になるのは当然だろう。
土地購入にも一波乱
もうひとつの大きな課題は土地探し。地域の地主や市街化区域内に農地を持っている人、住宅・都市整備公団(当時)の公団所有地の譲渡打診などさまざまな可能性を検討したそうで、最終的に選んだ土地は公団が所有していたもの。
しかし、ここで大きな問題がふたつ持ち上がる。ひとつは選択した土地が一戸建て住宅等容積率の低い住宅を想定した場所で、一戸当たりの土地代が通常の中層住宅よりも高額になってしまうこと。それがメンバー集めに苦労した理由でもある。初期の家族ミーティングでは100m2で4,000万円と試算していたそうだが、とてもその金額ではできなかったと記念誌には書かれている。
もうひとつは公団側から集合住宅用の土地を個人のグループ(組合のこと)に分譲する制度はなく、ディベロッパーにでなければ土地の譲渡はできないと言われてしまったのだ。コーポラティブハウスはディベロッパーを介さずに自分たちで家を建てることで自由度の高い、多少は安価な住宅を建てることを目指している。そこにディベロッパーを入れるのは矛盾した話。それでもディベロッパー何社かと交渉はしたものの、うまく行かなかったのは無理もない話である。
だが、ディベロッパーを介さなければ土地は購入できない。そこで取った手は建設会社にディベロッパーの役割を頼むということ。建設会社は工事請負が本業であり、ディベロッパーとしての利益ではなく、工事請負にメリットを感じてもらえば協力者になってもらえる可能性があるのではないかと考えたのだ。
それを受けてくれたのが施工を担当した金山工務店(以下金山)である。しかし、それでも問題が残った。事業中の資金の手当てだ。土地の取得、工事費の支払いと建物完成までの出費を誰が負担するか。組合を構成する個人は事前に自己資金から一部を払うことはできるものの、住宅が完成しなければ住宅ローンを受けられず、費用を負担できない。
その問題を解決したのは信託方式をとること。東洋信託銀行(以下東洋)が金山に融資する代わりに、金山が東洋に事業を信託するのである。これによって東洋に対して信託手数料1,000万円ほどを払う必要は生じるが、事業の安全性は確保される。表面的にはディベロッパーの金山の依頼によって東洋が分譲マンション工事を金山と設計に当たるヴァンズに発注、完成後のマンションを組合が購入することになる。
非常に複雑な仕組みだが、これが可能になったのは1996年と早い時期からコーディネートに入ったヴァンズの伴年晶氏、加えて金山が不動産、金融について詳しかったため。ようやく、諸問題がクリアされ、地鎮祭が行われたのが1999年5月のことである。
30m2から120m2まで、広さ、間取りも全戸ばらばら
見せていただいたお宅にはジェットバスがあり、自由さは設備にも表れている。つなね以外のコーポラティブハウスを見学した際は、薪ストーブがある部屋もあり、一般的な集合住宅では設置できないような設備を設置できるのが、コーポラティブ形式の特徴ともいえるこうした紆余曲折を経て完成したつなねだが、建物を最初に見た時に感じたのはその自由さ。普通の集合住宅は縦横に同じような間取りが並ぶことが多く、当然だが窓は規則的に同じものが並ぶ。
だが、つなねでは隣同士で窓の位置が違うし、バルコニーの位置も違う。各戸の間取り図を見せていただくと住戸の床部分はある程度共通しているように見えるものの、30m2弱から120m2超までと広さも違えば、平屋あり、メゾネットあり、地下階ありと間取りも水回りの位置なども全部違う。それぞれの住戸に風来坊の家、大きな格子の家、窓のある書庫の家などと住み手が考えた名がつけられており、本当にそれぞれが自分が好きな家を造ったのだということが分かる。
建物の自由さの背景には設計の工夫がある。自身もコーポラティブハウスに居住し、つなね以前にも10棟を手がけてきた伴氏はコーポラティブ住宅に重要なことは住戸設計の自由度の高さと考えている。そのために上下階の床、隣家との戸境壁を除いて自由にできるようにするなど、さまざまな工夫を凝らしたのだ。
自由さでは土地の傾斜をそのままに使っている点も挙げておきたい。普通、日本で住宅を建てる時には土地を平らにする。効率的に建設しやすいからだ。だが、つなねではGL(地盤面の高さ)を計測するのが難しく、完了検査が2回に及んだ。しかし、その傾斜が魅力的な景観、各棟の独立感などにつながっている。
広い中庭には樹木が植えられていて車中からも目立つが、最初からこんな状態だったわけではない。竣工時には欅、こぶしなどのシンボルツリー、家族ごとに選んだパーソナルツリーが植えられたものの、それだけでは足りないほどの広さである。竣工後何年間かは土がむきだしで土埃に悩まされ、その後は草ぼうぼうだった時期もあったとか。
だが、そこにクローバーを植える人が出て、さらにみんなで芝を植えようとなり、やがて園芸好きな人たちが手を入れ始めるようになって徐々に今の状態に近づいていったのだという。今は入居者の手入れに加え、年に10回ほど植木屋さんが入り、2ヶ月に一度は自治会の清掃活動も行われている。中庭はこの20余年で年々美しくなってきたわけだ。
どこのお宅も「自慢のわが家」
何軒かのお宅を見せていただいた。最初にお邪魔したのは敷地のもっとも西側、地階にある「ブリキの家」。その名の通り、ブリキの外壁、ルーバーが特徴で、住んでいらっしゃるのは夫婦揃って建築家の阿久津氏。ルーバーは光を入れ、視線を遮るための工夫で六角レンチで開け閉めするのだとか。
他の住戸は内装だけをそれぞれが好みに設えたが、この住戸は外装も含めて自身の設計で、自宅兼事務所として使っている。玄関から路地の雰囲気がある通路を入り、中庭から室内に入れていただいたのだが、細長い空間の中央に設置されたキッチンが印象的だった。
続いては2階と3階でメゾネットになった「書斎が”光る”家」。フランスの集合住宅で使われていたという木製ドアが配されており、玄関のところから個性が発揮されている。書斎はリビングのコーナーに設けられており、自然木を製材するところから作ったという机が両側に配されている。窓もあって居心地が良さそうだ。
キッチンはくの字型でリビングにいる人と顔を会わせることは出来るが、手元は見えない高さになっている。ガス台の前に壁を配してあるのはリビングに匂いや熱が行きにくいようにという配慮だろうか、良いアイディアだと思った。個室はキッチンの背後に和室、上階に洋室が2室。上階の壁面いっぱいにしつらえられた本棚が圧巻だった。
この棟の2階には5戸が並んでいるのだが、そのうち、一直線に並ぶ4戸のバルコニーはつながっている。バルコニー伝いに隣の住戸に行くことができるわけで、過去には鍵を忘れて出かけてしまい、お隣に入れてもらってバルコニー伝いにわが家に帰ったこともあるのだとか。人間関係があるからできる設計、使い方である。
このお宅では玄関ドアに始まり、書斎の机、20年以上壊れていないジェットバスなどさまざまな点をとても誇らしげに説明していただいた。あちこちに飾られた絵や緑などからも住んでいる人がわが家を大事に、丁寧に暮らしていらっしゃることがよく分かった。
ほど良い距離感の、楽しそうな人間関係
最後に見せていただいたのは3階にある「陽風遊居」。広い土間が玄関代わりになっている家で、入ったところに広いLDK、バルコニーがある。2面に窓があって風通しの良さそうな家だが、バルコニーが西向きのため、夏は大変だとか。それでも広いバルコニーは気持ちがよく、かつてはしばしばみんなで集まっていたそうだ。
「最初の5~6年はよくパーティーをしていたものです。それが10年、20年も経つと普通になり、今では大皿の出番はありません」。といっても仲が悪いというわけではもちろん、ない。このお宅では水回りの勝手口前にあるバルコニーを隣家と半分ずつ使っており、鍵はいつも開けてある。何かあった時に玄関以外に逃げられるようにという配慮で、隣家に行けるバルコニー同様、信頼関係がなければできないことだ。
それに互いの家に集まらなくなったとしてもつなねでは実にしばしば集まりがある。偶数月には定例ミーティング、正月のどんど焼きに始まり、花見、鯉のぼり、七夕、餅つきと季節の行事があり、茶道クラブに中国語研究会と称した麻雀の会、月に1回昼間から飲むつなねバル、それに対抗して女性陣が集まる女子会、2ヶ月に1度のシネマクラブ、時には旅行に行ったりと盛りだくさん。また、世界中から見学のために人が訪れており、そんな時には集会室を利用してプレゼンテーションが行われる。人の出入りが頻繁にある、自由な雰囲気もある建物なのだ。
この20余年で入居者の入れ替わりもあった。最初が10年目くらいの時期で、以降3世帯が新しくなったが、募集は組合が自分たちで行い、不動産会社は通していない。ビラを作って配布するという、参加者を募集した時と同じやり方で、記者クラブにもビラを配ったことから新聞にも取り上げてもらった。価格は周辺相場を見て所有者本人が決めた。車中からも見える、あの素敵な物件が売りに出ていると話題になり、面接(どんな人に入ってきてもらうかが大事だからだ)には多くの人が集まった。良い物件ならコーポラティブハウスでもちゃんと希望価格で売れるのだ。
築年数が古くなってくると維持管理が気になる。つなねでは15年目に今後30年の維持保全計画書を作成しているが、普通の半額ぐらいで大規模修繕ができる予定と設計者の伴氏。建物が大事に使われてきていることに加え、あらゆる設備縦配管を階段空間に設けてメンテナンスを容易にするなど最初から維持管理を考えた設計が行われていることも大きい。
完成までにかけた手間が種となって入居後に次々に芽吹いていったというと抽象的だろうか。個人的には見学時にわが家を案内、建物を説明してくださる居住者の皆さんが実に楽しそうで、生き生きとかっこよく見えたことが忘れられない。良い住まいは人を幸せにするのだと思った。
つなね コーポラティブ住宅
https://tsunane.wixsite.com/info
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