200年前の東京は水の都市だった
水都東京・未来会議2回目の講演は法政大学江戸東京研究センター特任教授の陣内秀信氏による「華麗な文化を生んだ水都東京を再び 歴史を活かした『水辺のヴィジョン』」。
話は岡山県津山市にある津山郷土博物館が収蔵する「江戸一目図屏風」から始まった。この屏風は寛政6(1794)年に津山藩の御用絵師になった江戸生まれの浮世絵師・鍬形蕙斎(くわがたけいさい)が文化6(1809)年に描いたもので、画面中央に江戸城、背後に富士山、左に江戸湾、そして手前に隅田川や水路が縦横に走る下町エリアが俯瞰的に描かれている。
現在、この屏風のレプリカは東京スカイツリー®の展望デッキに置かれている。それにより、私たちは200年以上もの時を経て、画家が見ていた江戸と現代の東京を重ねて見ることができるのだ。
もちろん、まちは大きく変わっている。江戸城を囲んでいた森は高層ビルになり、江戸湾は埋め立てられて陸地は大きく広がった。何より変わったのは屏風のなかで大きなボリュームを占めていた河川の存在感が薄くなったことだろう。隅田川そのほか、現存している河川もあるものの、私たちの社会、生活の中での河川の意味合い、役割は往時ほど大きくない。
だが、かつての水都東京を再考、復権を考えることは東京の未来につながると陣内氏。海外では郊外に移転した港湾施設の跡地を利用することで都市に新たな魅力を付け加えることに成功した事例が数多くある。東京の水辺には海外諸都市にはない歴史、特徴があり、それを生かすことができればというのである。
水辺が失われた60年代、水都再生へ向かった70年代
東京の水辺のこれからを考える前に、近代に入って以降の人と水辺の関係を振り返っておこう。高度経済成長期前夜までは都心と人間、水は近しい関係にあったと陣内氏。
例として挙げられたのが、今の隅田川花火大会の前身とされる両国の花火大会での写真。防潮堤のない時代には川べりに料亭が並び、各店の前には自前の桟橋が並んでいたのだという。そこに停泊した船の上で酒食を楽しみながら花火を眺めるのが、その時代の花火大会だったのである。
その水辺が失われ始めたのは1960年代。それ以前から河川は戦災の灰燼(かいじん)の捨て場として埋立てられてきており、そこに前回の東京五輪に向けてのまちづくりが加わった。初期の首都高速道路はその多くが河川・運河の上空を利用したり、埋め立てたりして建設されたのは広く知られるところ。「海を埋め立て、川を埋立て、未来に向かって都市を建設するために東京は内、外の両側から水辺を失っていったのです」
だが、幸いにして1970年代後半から水都再生への動きが始まる。第1段階は自然の回復だった。下水道の整備が進んだことなどで東京の河川の水質が改善され、そこに人が集まり始めたのである。たとえば水質汚濁による臭害や交通事情の悪化などで中断されていた両国の花火大会が隅田川花火大会に名称を変えて復活したのは1978年。花火だけでなく、花見やレガッタ、屋形船もこの時期に復活している。お台場に人が集まり、ウィンドサーフィンを楽しめるようになったのもこの頃だという。
続く第2段階は1980年代前半。ウォーターフロントでの住宅建設プロジェクトが持ち上がったのである。これは日本だけの話ではなく、アメリカ、ヨーロッパなど世界各地の港湾都市に共通する課題であった。水辺の工場、物流基地が移転、それによって空洞化した都市中心部の水辺をどうするか。各地でさまざまな取り組みが行われたのである。
日本でこの時代に開発されたのが中央区佃島の大川端リバーシティ21である。石川島播磨重工業の東京工場跡地などを利用、超高層住宅を中心に整備された住宅地で、着工は1986年。それから約20年をかけて超高層棟7棟、高層棟5棟などが誕生、スーパー堤防(緩傾斜型堤防)によって石川島公園、佃公園なども整備されている。同時期にはニューヨークのバッテリー・パーク・シティ、ロンドンのドックランズの開発も進められており、「東京も意外に早かったんですよ」
水辺の文化はバブルの前に潰えた
同時期にはもうひとつ第3段階ともいえる水辺の文化が花開く。海外同様、海辺の倉庫などを利用してライブハウス、ギャラリーやディスコ、レストランなどが多数生まれたのである。
そのうちでひとつだけ紹介するとしたら1983年に始まり、2000年まで続いた佐賀町エキシビット・スペースだろう。まだ、リノベーションという言葉のない時代に1927年竣工の食糧ビル3階講堂を修復した空間はそれだけで珍しく、美術、デザイン、建築、写真などとジャンルを超えた人たちがコラボレーションする展示はとても新鮮だった。森村泰昌、杉本博司、大竹伸朗など、現代の日本を代表するアーティストたちもここで展示を行っており、それが転機になったという例も。この時代、水辺は芸術、文化を生む場所だったのである。
だが、そんな時代は長く続かなかった。80年代後半のバブル期には倉庫など古い建物は土地を有効活用していないと取り壊され、高層ビルに建て替えられていったのだ。また、同時期、東京都は1987年に東京テレポート構想、1988年に臨海部副都心開発基本計画と水辺に新しい都市をつくる計画を打ち出すが、バブルの崩壊、巨額の整備費問題、臨海部を使っての東京世界都市博覧会の計画と開催10ヶ月前の中止と紆余曲折が続き、以降は水辺には積極的に関わらなくなってしまったと陣内氏。
「行政がベイエリアから手を引いてしまったのです。一方で民間は水辺の開発を続けてきましたが、それはたいていは水辺のタワーマンション。かくして水辺は遠くなり、特にここ20年は水辺空白の時代と言ってもよいのではないかと思います」
世界の水辺には再生事例が多数
その一方で世界は水辺を上手に再生してきている。オスロ、ブエノスアイレス、ボストン、アムステルダム、ロンドン、例を挙げればきりがないと陣内氏。
「たとえばドイツのハンブルクはエルベ川北岸に位置する、ハンザ同盟の中心だった港湾都市です。ところが、時代が進むにつれ、港湾機能は巨大化。もともとの都市中心部から広い土地を求めて外に向かいます。その結果、都市部には古い港湾施設が残される。ハンブルクでも水辺にはアムステルダムにも似た倉庫群が残されていました。
それを利用し、2001年から開発が続いているのがヨーロッパでも最大規模の水辺の再開発、ハーフェンシティです。新しい近代的なビルも建てられてはいますが、19世紀の煉瓦造りの倉庫街を再生、水辺に近い、実に魅力的な都市になっています。欧米では役割を終えたものを次の世代に生かすやり方が実にうまい。港湾施設が使われていた時代には水辺は遠いものでしたが、それが移転して空いた空間を生かすことで水辺にカフェが設置できるようになる。そのチャンスを生かし、まちを変えているのです。それに対して東京は使い捨てが主流。残念です」
陣内氏はそれ以外にも、60年代に郊外に移転した埠頭の利用でまちに魅力を付加した例としてニューヨーク市の港湾局が持っていた土地を独立採算制の公園として再生したブルックリン・ブリッジ・パークや、ウォーターフロントの裏手に位置し、文化の発信地になっている高架鉄道跡の公園・ハイラインなどを挙げた。あったものを生かし、次の時代にふさわしい形に。海外ではしばしば行われているわけである。
また、一度失われたものを再生する動きもあるという。イタリアのミラノだ。今、ミラノと聞いても水運のまちとは思わないだろうが、12~19世紀にかけてはミラノは運河に囲まれ、水路が交通、商業の要だった。20世紀前半までに運河のほとんどが埋め立てられているが、2015年のミラノ万博のために10年を費やして再開発された一角がある。残された運河(ナヴィリオ)が合流するダルセナ地区である。
現在ではレストランやカフェ、ギャラリーなどが集積し、コロナ以前は夜間も賑わう場所になっているそうである。わずかでも残されたものを上手に活用、新しい賑わいの原資としているというわけである。
周縁部という隅田川の独自性
海外に比べると長らく水辺空白の時代が続いてきた東京だが、他の地域とは異なる強みがいくつかあるという。ひとつは隅田川の存在。
「パリのセーヌ川、ロンドンのテムズ川は都市の真ん中にあり、川沿いに権力が集中、両側が同じように発展しています。ところが隅田川はもともとは東京の外れ。今、江戸東京の象徴であるにもかかわらず、いまだに中心部にあるわけではありません。そこに独自性があります」
江戸というまちができる前から隅田川流域には文化があったのだ。もっとも古いものは飛鳥時代の、待乳山聖天(まつちやましょうでん)の由来である。待乳山聖天はその名のとおり、隅田川べりの丘(待乳山)にあるが、ここは595(推古天皇3)年に出現、龍が守護したと伝えられており、それが浅草寺の山号、金竜山の由来ともいわれる。今は周囲に建物が立ち、それほどの高台とは思えないが、かつての待乳山は浅草一帯を見渡せる山であり、江戸時代には多くの文人墨客がこの地を訪れている。
そしてもちろん、浅草寺も古い。寺伝によるとご本尊が姿を現されたのは待乳山聖天に少し遅れた628(推古天皇36)年3月18日の早朝。宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中に投網の中に仏像を発見、それが浅草寺の始まりとされている。
もうひとつ、謡曲や浄瑠璃、歌舞伎などの題材として多く取り上げられてきた、平安時代の梅若伝説もある。これは京都の公家の息子・梅若丸が人さらいに連れられ、隅田川の岸でわずか12歳で亡くなり、その子を探して狂女となった母もまた亡くなるという悲劇の物語。墨田区にある木母寺には今も梅若塚があり、4月には梅若忌も。浅草は江戸繁栄の以前からさまざまな形で人々に影響を与えてきた地なのである。
「芝居も、音楽も、宗教も隅田川周辺にありました。しかも、セーヌ川、テムズ川と違い、隅田川は江戸の周縁部分。権力ではなく、コモンの空間が発展しました。交流があり、文化が発信されたのです」
多様な文化的景観、空間的体験ができる東京ベイエリア
もうひとつ、ほかにはない可能性として陣内氏が挙げたのは東京ベイエリアだ。archipelago(アーキペラゴ:英語で多数の島からなる海域、多島海あるいは多数の島嶼つまり諸島、列島、群島を指す)としての可能性があるという。湾岸には時代の異なる多様な要素が点在しており、ダイナミックに変化する文化的な景観、空間的な体験を楽しみながら島から島への移動ができるというのである。
それ以外で、ほかにはない空間として陣内氏が挙げたのは御茶ノ水駅から秋葉原駅間の神田川。この区間の神田川は都心とは思えない深い谷の底を流れているが、それもそのはず、このエリアは仙台伊達藩による大規模な土木工事で生み出された人工的な渓谷。もともとは神田山という台地があり、そこから隅田川に向けて神田川の原型となる流れがあったところに、平川、小石川、石神井川という3河川を接続、隅田川へ流す河川付け替えが計画され、仙台藩は神田山を真っ二つに分断、掘削するという大工事を命ぜられたのである。
そんな歴史を知って舟に乗り、川面から御茶ノ水駅を見上げれば土地の歴史が体感できるというもの。東京湾岸にはこうした歴史ある場所が多数あり、川がそれらをつないでいる。舟、自転車などで回れるようになれば、東京の魅力のひとつになるはずである。
また、近年は水辺に親しむ新しい空間が生まれつつあることも指摘された。たとえば、2020年には公共の水辺、船着き場、干潟の再生を行ったウォーターズ竹芝がオープン。水辺に開いた広場には海を眺める人たちが集うようになった。
あるいは隅田川に架かる東武鉄橋に添架された人道橋「すみだリバーウォーク」は浅草と東京スカイツリー®を徒歩でつなぐ最短ルートとして誕生。リバーウォークから先も北十間川沿いに広がる東武鉄道高架下の店舗街東京ミズマチ、水辺の風景と隅田公園が楽しめるコースとなっており、さまざまな人たちが歩いている。
それ以外にも民間にはいろいろな動きがあり、水辺は以前よりぐっと近くなりつつある。そこにさらに東京都など行政の一押しがあれば、もっと東京は楽しくなる。陣内氏の言葉にわくわくする未来があった。次の週末にはどこかの水辺に行ってみたい、聞いていた人はそう感じたのではあるまいか。
水都東京・未来会議
こうした講演等もしばしば開催されているので関心のある人はぜひチェックを。
https://www.suitomirai.com/
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