名古屋市が整備する「文化のみち」エリアに位置
名古屋市は、名古屋城から尾張徳川家の邸宅跡を日本庭園として公開している徳川園にいたる東西約3kmのエリアを「文化のみち」と名付け、歴史的建造物などの整備をしている。その一角にあるのが、今回ご紹介する「文化のみち橦木館(しゅもくかん)」(以下、橦木館と表記)。
このあたりは、もともと名古屋城に参内する武士の屋敷が立ち並んでいたところで、一区画およそ500~600坪もあったという。明治維新によって空き地となった広大な屋敷跡は、実業家たちによって近代産業の工場や邸宅へと転用された。
この地を繁栄させた近代産業の1つが陶磁器の絵付け。近隣の愛知県瀬戸市、岐阜県多治見市は昔から陶磁器の産地として知られるが、明治時代になって輸出用の陶磁器に絵付けをする作業がこの地で盛んに。産地からの街道で品物を運びやすく、輸出用に船積みする大量の荷物を置いておく場所も確保できたことも陶磁器産業が栄えた理由に挙げられる。
橦木館は、その陶磁器産業をけん引した一人である井元為三郎の旧邸宅。大正末期に家族が住む和館を、次いで昭和初期に商談や外国人をもてなす際に使われる洋館が建てられた。
戦火を免れた奇跡の建物。市民の力で保存へ
「このあたりで家を建てるとき、洋館を建てること、当時高価だったガラスやステンドグラスを使うこと、そして蔵と茶室があること、それがいわゆるステータスだったんです」と教えてくださったのは、館長の坂口範泰さん。周辺の邸宅が現代になって移築されたり、取り壊されたりしていくなか、それらがすべて元の敷地のままで残されているのは橦木館だけだそうだ。
橦木館のガラスはすべて手吹きガラスで、建築費用のかなりの部分がガラス代だったという。いまでは大変貴重なガラスが当時のまま残っている。
実は、名古屋は第二次世界大戦の末期に大規模な空襲の被害を受けた。現在、二大繁華街といわれる名古屋駅エリアと栄エリアなど市の中心部は一面の焼野原に。
ところが、この橦木館から北のエリアは奇跡的に被害を免れた。橦木館の前にある道を挟んで南側にあった高等女学校では航空機の部品を作っていたといわれ、爆撃で多くの女生徒が被害にあい、跡地には死を悼む碑が建てられている。
その状況下で建物やガラスがそのまま残ったというのは本当に奇跡だ。そのことからも1996(平成8)年に名古屋市の有形文化財に登録。2008(平成20)年には景観重要建造物に指定された。
なお、戦火を免れた橦木館のある白壁・主税(ちから)・橦木地区は、江戸時代に由来する地割りに、大正から昭和初期に建てられた近代建築が多く残っていることから、名古屋市が指定する町並み保存地区のひとつにもなっている。
古い建物ゆえに水回りの不便さを感じるようになり、20年ほど前に住む人はなくなったが、建物保存の観点から市民有志による5組の店子が入って内部公開や文化的なイベントを開催していた。その後、一時的に閉鎖され、2004(平成16)年に再び市民団体による管理が始まったが、また維持が難しくなったところで、2007(平成19)年には名古屋市が建物と土地を取得。傷んでいた箇所の修理工事を経て、2009(平成21)より指定管理者制度を取り入れて再オープンした。
独立するゲストルームもあった和館
現在の入場口は洋館の玄関となっているが、当時、家族の出入りや通常の客を迎えるのは和館の玄関だった。いまは非公開になっているが、館内レイアウトでいま事務室になっている部屋の手前と展示室2というところが、客人の対応をする場所だったそうだ。
そして和室2となっているところが、家族の間。4室あるうち、庭に面した最も広い部屋が主の部屋。その右隣が奥様の部屋で、その上が子どもたちの部屋。残る1つが、仏間だった。現在は建具が取り外されて1つの空間になっているが、主の部屋からが最も庭の眺めが良かったり、子ども部屋の畳に当時は安かったヘリのないものが使われていたりと細かな違いが興味深い。
家族の間の前にある廊下を進んだ奥にある部屋は客間として使われていた。廊下には引き戸があり、客が泊まるときは閉めて、専用のトイレもある独立した部屋として自由に使ってもらえる配慮がされていたという。食事や入浴のときはそちらにつながる廊下の扉を開けて通ってもらうようにしていた。
庭に面した戸は大きなガラスが配されていて、庭もよく見える。当時高価だったガラスを贅沢に使えた財力を感じられるが、ぜひ見ていただきたいものがもう1つ。客間から庭に降りる際に使われる沓脱石(くつぬぎいし)だ。「沓脱石は大きければ大きいほどお金がかかるので、立派なものを使ったようです」と坂口館長。客人のもてなしのために豪勢にしたこだわりだ。
主の渡航経験が生かされた洋館のデザイン
洋館の玄関に置かれたオリジナル家具。建物が建てられたときに合わせてオーダーされたもので、帽子かけやステッキ入れがあり、外国人のゲストが来たときに身支度をするのに使われた。上部の半円の真ん中に上下に延びる木は、鍵をモチーフにしたデザインが施されているかつて商談や海外からの客を迎えるパーティーなどが開かれていた洋館。設計図はあるものの、設計者は不明。「井元為三郎が仕事で出かけたニューヨークなどの建物を見てきて、こうだった、ああだったという意見を加えたのではないでしょうか」と坂口館長は語る。
1階は食堂と応接室で、いまはカフェになっている。2階はゲスト用の寝室とバスルーム、ビリヤードやカードゲームなどを楽しむための娯楽室、サンルームがある。
戦後しばらくはアメリカ軍将校がこの洋館部分に住んでいたそうで、和館の台所には当時の将校一家が使っていたアメリカ製の大きな冷蔵庫が残されているのでぜひご覧いただきたい。
蔵に50年ほどしまわれていた、贅を尽くしたステンドグラス
洋館の見どころの1つがステンドグラス。当時の富裕層の邸宅でステータスを表すものであったステンドグラスだが、橦木館のものはどれも本当に美しい。
それにまつわる逸話を坂口館長が話してくださった。
「井元為三郎は輸出業でしたのでドルなどの外貨を得ていたのですが、その当時、銀行では外貨を預かってもらえなかったので蔵に保管していました。2棟ある蔵のうち、最初にできた西側の蔵が3階建てで、その地下階に長い間、ステンドグラスがしまわれていたのです。戦時中、鉛でできていたステンドグラスの枠を軍に供出しなければならなかったため、取り外され、ステンドグラスをしまってそれっきりに。ここが2007年に名古屋市のものとなったときに整理していて発見されました。50年ほど地下に眠り続けていたので、とてもきれいなんです」
中に入って、和館につながる廊下から玄関の方を見ると、欄間と玄関の扉に設えられたステンドグラスに統一されたデザイン性を感じる。「新緑の季節になると、ステンドグラスに庭の木の緑色が映り込みます。季節に応じて色合いが変わっていくのがきれいなんですよ」と坂口館長。
また、2階の娯楽室は、カードゲームで遊ぶことにかけて、トランプで使われる絵柄が組み込まれたステンドグラスに。なんておしゃれ!と思っていると、坂口館長が「実はハート柄がありません。それは当主の井元為三郎が『ハートは自分の胸の中にあるので柄に必要はない』としたのだそうです」とエピソードを教えてくれ、遊び心にさらに感心した。
市民の文化活動の場として
名古屋市の所有となり、建物の維持に関する資金的な心配はなくなった。2020年12月~2021年3月には耐震対策のため行われた塀の補修とそれに伴う庭の補修も名古屋市の資金でまかなわれた。
名古屋市所有になる以前の維持活動からイベントを開催して市民に開かれた場とする利活用が行われてきたが、現在も展示会からコンサートまでさまざまな催しが行われている。コロナ禍では収容人数を少なくして予約も必須としているが、それ以前では近隣の人もイベントがあるとふらっと訪れるなど、交流の場になっている。
イベントは橦木館主催のものもあれば、各部屋が貸室として利用できるようになっており、一般の人が主催するものもある。利用時間帯によって無料から最高でも2,800円とリーズナブルに借りられる。
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古い建物は、まちの成り立ちや、戦争の影響、人々の暮らしといった歴史を後世に伝えてくれる。そういったことを視覚的に得られる経験は代えがたいものだと、橦木館のような歴史的建造物を取材させてもらっていつも思う。人々が集う場所という新たな役割を担うことで、訪れやすくなる。橦木館の周辺は名古屋市内で早咲きの桜が見られることでも有名なエリアだ。橦木館は現在の庭の修復で、その早咲き桜を植えるという。四季折々の景色に映える建物、そしてイベントなどを楽しみに、多くの人が訪れ続けてほしいと願う。
取材協力:橦木館 https://www.shumokukan.city.nagoya.jp
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