1645年に創業した八丁味噌の味噌蔵、カクキュー

敷地内に設置されている、東海道筋において岡崎領と他領の境界を示すための“岡崎領傍示石”の説明碑に描かれている絵を見ると、江戸時代の八丁村の位置関係がよく分かる。右端が岡崎城で、左に進むと八丁村、さらに左に水運が行われていた矢作川がある敷地内に設置されている、東海道筋において岡崎領と他領の境界を示すための“岡崎領傍示石”の説明碑に描かれている絵を見ると、江戸時代の八丁村の位置関係がよく分かる。右端が岡崎城で、左に進むと八丁村、さらに左に水運が行われていた矢作川がある

徳川家康の生誕の地、岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある八丁村(現:八帖町)。ここで造られていた「八丁村の味噌」に由来し、名付けられたのが「八丁味噌」だ。

日本の味噌は、原料に加える麹(こうじ)によって、米味噌、麦味噌、豆味噌と分かれる。それら異なる種類を組み合わせた調合味噌もある。地域によってさまざまな種類が利用されており、その多くは米味噌だが、愛知、岐阜、三重の東海地区で主に使われているのは豆味噌であり、八丁味噌は豆味噌の分類に入る。

現在も岡崎市八帖町では、江戸時代に整備された、江戸から京を結ぶ東海道の道を挟んで向かい合う2社の味噌蔵が、江戸時代初期からの伝統の製法を守って造っている。

今回はそのうちの1軒、1645(正保2)年に創業した「合資会社八丁味噌」の建物を紹介したい。同社の事務所と蔵の1つが、1996(平成8)年に愛知県初の国の登録有形文化財に登録されているのである。

その前に、同社の歴史に少し触れておく。

先祖の早川新六郎勝久は今川義元の家臣であったが、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで今川側が敗れ、岡崎にあった寺に落ち延びた。武士をやめた新六郎勝久は名を久右衛門と改め、寺で味噌造りを学び、近隣の人にふるまったところ「久右衛門の造る味噌はおいしい」と評判を得ていく。そして数代後の子孫が八丁村に移り、創業した。当主は代々、早川久右衛門を名乗っており、正方形で“久”の字を囲んだマークから「カクキュー」と呼ばれるようになり、今もその屋号で親しまれている。

なぜ八丁味噌がこの地で造られるようになったかというと、八丁村は西に矢作川という大きな川があり、東海道沿いということで、水陸交通に恵まれていたのだ。原料である大豆と塩の入手や、商品の出荷がしやすかった。

1907(明治40)年に建設された仕込み蔵

さらに気候風土も八丁味噌の特徴に大いに関係する。矢作川の伏流水のおいしさは味噌の醸造に適していた。温暖な太平洋岸式気候であることは、醸造に必要な微生物群にも関与し、独特の風味を生むことになった。また、「川に囲まれた八丁村は、高温多湿。八丁味噌はとても固いのですが、こういう土地でも耐えられるようにと、水分を少なく仕込んで固い味噌になったといわれています」と教えてくださったのは、同社の企画室・近藤ちかこさん。

登録有形文化財となっている本社蔵は、1907(明治40)年の竣工。生産量の増加に伴い、それまでの蔵よりも一段と大きいものだったことから、大蔵(おおぐら)と呼ばれ、1941(昭和16)年まで味噌の仕込みに使われていた。

この蔵は、高く積み上げられた石垣の上に建設されているが、これも土地柄に関連する。「近くの矢作川がたびたび氾濫して、ここまで水がきて被害を受けていたので、水に浸からないように石垣が高く積んであります」と近藤さん。現在、7,000坪という敷地にいくつも仕込み蔵があるが、大蔵の建設時期以降は洪水が少なくなったことから石垣は造られなかったそうだ。

建物としては、切妻造り、桟瓦葺(さんがわらぶき)の2階建てで、東西約30メートルというとても立派なものだ。

上/カクキューの登録有形文化財のひとつ、本社蔵。外壁は1階部分を黒塗りの下見板張り、2階部分は漆喰仕上げ。<BR />下/近くを流れる矢作川で起きた洪水から守るため、石垣が組まれている上/カクキューの登録有形文化財のひとつ、本社蔵。外壁は1階部分を黒塗りの下見板張り、2階部分は漆喰仕上げ。
下/近くを流れる矢作川で起きた洪水から守るため、石垣が組まれている

仕込み蔵の1階天井は竹製

大蔵は、内部を一部改修し、1991(平成3)年より史料館として公開している。昔の看板やラベルなど貴重な資料の展示や店先の再現のほか、明治中期頃を中心とした味噌造りの様子を見ることができる。

昔も今も大豆と塩、水のみが原料という八丁味噌。史料館で展示されている作り方はこうだ。

まずは大豆をきれいに洗い、水に浸して水分を適度に含ませた後、蒸し上げる。その蒸した大豆をこぶし大に丸め“味噌玉(みそだま)”を作る。それを職人が2階の室(むろ)に運び、こうじカビというカビの一種の胞子を表面にまぶしつけ、1週間ほど発酵させる。それでできたものを“豆こうじ”という。

次に豆こうじに塩と水を加えてこねて仕込み、木桶に入れていく。木桶は高さ1.8mほどの大きなもので、職人2人がなんと150回も往復して運んだそうだ。木桶に職人が入り、“踏み込み”という方法で空気を抜いていく。それが終わったら、6トンの味噌に対して3トンの石、およそ350個もの石を木桶の上に重石として円錐状に積み上げていく。そこから二夏二冬(ふたなつふたふゆ)、2年以上手を加えることなく自然のまま熟成させて完成となる。

「味噌を木桶に運ぶ作業は今ではリフトなどを使用していますが、踏み込みや石を積む作業は今も昔も手作業で変わっておりません」とのこと。

また、史料館の木桶の石積みは、蔵から史料館となった1991年に当時の職人が積んだものだが、その時からいっさい崩れていないそうだ。「5年~10年修業した職人が積んでいるので、なかなか崩れないようになっています。この石積みはお城の石垣と似ていまして、野面(のづら)積みという積み方。岡崎城の石垣にも野面積みのところがあるので、おそらくその技術がここに活きているのではないでしょうか」と近藤さんは語る。

その味噌造りの様子が再現された場所を見上げると、竹で編まれた天井になっている。2階は味噌玉にこうじカビを付ける作業が行われていたためである。昔の味噌造りは雑菌が繁殖しにくいとされる、新暦でいう正月休み明けから3、4月までの寒い時期に行われた。しかし、発酵させるには温かさが必要だったため、1階で練炭を燃やし、2階に温かい空気が流れるよう、隙間が空いた竹の天井にしたそうだ。ちなみに、この史料館で見られる竹の天井は創建当時のままのもの。

大変な作業量と、考えられた仕込み蔵の造り。普段何げなくといってはなんだが、食べていたものがこのようにして造られ、食文化として伝わってきたことをあらためて感じ、興味深かった。

①昔の味噌造りの様子。木桶など実物大。写真手前の人形が再現しているのは豆こうじに塩水を混ぜているところ。カクキューが作るこぶし大の“味噌玉”は、一般的な豆味噌と比べて大きめで、大きな味噌玉を作ることで微生物を多く抱え込み、独特の風味が出るという。右端は仕込みを終えた木桶の再現で、上には緻密に積み上げられた重石が。一般的な豆味噌の場合、重石は仕込み重量の4分の1~3分の1程度といい、水分を少なくする八丁味噌の特色が出ている②再現された昔の店先③竹製の天井④味噌の熟成に使っていた木桶。もともと木桶は日本酒の醸造に使われ、20年ほど経って劣化で酒が漏れるようになると、それを味噌や醤油の醸造元が買い取るという循環ができていた。しかし、戦後は木桶を使うところが減少し、現在、このように大きな木桶を作るのは大阪の1軒のみに。カクキューでは変わらず木桶のみを使用している。この木桶は1839(天保10)年に作られたものだが、カクキューではわずか5年後の1844(天保15)年に作られたものが現役で使われている。ちなみに、木桶の寿命は約150年⑤現在の熟成蔵。長年使いこまれた木桶に、昔と変わらぬ石積みの重石がされている(写真提供:合資会社八丁味噌)⑥カクキューの商品。手前が八丁味噌、奥は八丁味噌をベースに米味噌を合わせた赤出し味噌。赤出し味噌は柔らかいため、機械で袋詰めなどできるが、固い八丁味噌は機械が使えず、現在も手作業で詰めている①昔の味噌造りの様子。木桶など実物大。写真手前の人形が再現しているのは豆こうじに塩水を混ぜているところ。カクキューが作るこぶし大の“味噌玉”は、一般的な豆味噌と比べて大きめで、大きな味噌玉を作ることで微生物を多く抱え込み、独特の風味が出るという。右端は仕込みを終えた木桶の再現で、上には緻密に積み上げられた重石が。一般的な豆味噌の場合、重石は仕込み重量の4分の1~3分の1程度といい、水分を少なくする八丁味噌の特色が出ている②再現された昔の店先③竹製の天井④味噌の熟成に使っていた木桶。もともと木桶は日本酒の醸造に使われ、20年ほど経って劣化で酒が漏れるようになると、それを味噌や醤油の醸造元が買い取るという循環ができていた。しかし、戦後は木桶を使うところが減少し、現在、このように大きな木桶を作るのは大阪の1軒のみに。カクキューでは変わらず木桶のみを使用している。この木桶は1839(天保10)年に作られたものだが、カクキューではわずか5年後の1844(天保15)年に作られたものが現役で使われている。ちなみに、木桶の寿命は約150年⑤現在の熟成蔵。長年使いこまれた木桶に、昔と変わらぬ石積みの重石がされている(写真提供:合資会社八丁味噌)⑥カクキューの商品。手前が八丁味噌、奥は八丁味噌をベースに米味噌を合わせた赤出し味噌。赤出し味噌は柔らかいため、機械で袋詰めなどできるが、固い八丁味噌は機械が使えず、現在も手作業で詰めている

木造バシリカ建築の本社事務所

さて、では、もうひとつの登録有形文化財である事務所の建物について。明治中期から大正期にかけ、生産量が増加したカクキューは、その収益で新たな土地購入や建物建設を行った。そのなかで、東海道に面していた店で事務作業を行っていたが、手狭になったこともあり、新しく造成した土地に本社事務所を建てることになった。大正末期から建て始め、1927(昭和2)年に完成した。

「旧東海道から国道1号にメインの道が変わり、本社屋も国道1号に近いほうに移ってもいいのではと。それから、関東大震災が1923(大正12)年にあったことで、地震に強い建物が欲しいということが重なり、場所を移し、しっかりとした基礎で造られました」

切妻造の蔵が並ぶなかで、洋風の建物が目を引く。南北の2つの棟が、中庭、土間、渡り廊下を介して接続され、一体的なものとなっている。なお、渡り廊下は創建時にはなく、壁だけだったところに造られたものだそうだ。

2棟とも屋根が山形で、ヨーロッパでみられるバシリカ式教会堂に似ているといわれる。濃茶色の下見板張壁に、白色で1辺50cmほどと太い柱型がとても映えている。この色合いは、蔵の黒板壁、白の漆喰壁と調和するものとされる。

南側にある平屋造りの棟には事務室、応接室、会議室などがあり、いまも同様の活用がされている。一方、北側にある2階建ての棟は、洋間などがあり、2階は洋間と10畳の座敷などがあって接客用だった。

和洋折衷の近代建築である本社事務所だが、設計者は「みはら氏」としか分かっておらず、その後、落成式のときの写真が見つかると、山高帽をかぶり、洋風の格好をしていることから、海外に行ったことのある人物ではないかと推測されていた。しかし、当時の建築家としての記録は見当たらず、詳細は“謎”なのである。

ところが、ちょっとした進歩があったと近藤さんが教えてくださった。「今年(2020年)に入って、整理していたところ古い資料が見つかり、フルネームが三原好太郎さんと分かりました。併せて設計図も出てきましたが、それでもお名前以上の詳細は分かりません。これまで三原氏は東京のデザイナーともいわれてきましたが、資料によると隣市の安城市出身の方のようで、お仕事では東京で活躍されていたのかもしれません」

壁や屋根上部の飾りなど、ところどころにダイヤのモチーフがあしらわれており、デザインのポイントのようにも思われるが、その理由は不明だそうだ。また、正面の壁には社名や味噌のラベルデザインが描かれているが、その反対側の壁にはいまは薄くなっているものの、なんらかのマークのようなものが。創建時の写真にははっきりと白く塗られているが、なんなのかはこちらも不明とのこと。

社の中枢であることから本社事務所内部の一般見学はできないが、ちょっと謎めいたところもある建物は、外観だけでも見応えがある。受け継がれてきた長い歴史を建物からも体感してみてはいかがだろうか。

取材協力:合資会社八丁味噌 http://www.kakukyu.jp/

①八丁味噌本社事務所の外観②昭和初期に描かれた完成理想図。北側(写真右側)の蔵は造られていないが、ほぼこの通りになっている③今回取材にご協力いただいた企画室の近藤ちかこさん④北側の棟の1階にある部屋。現在は会議や来客対応の部屋として使用⑤内部の柱にはヨーロッパ風の意匠が施されている⑥北側の棟の洋間は、折り上げ天井に。教会風の外観ということから、日曜礼拝が行われていたこともあったという(写真提供:合資会社八丁味噌)⑦玄関の上の外壁にあるダイヤのモチーフ。詳細は不明…⑧東海道沿いの旧店。いまもその姿を見られる。写真手前の左右に走る道が東海道で、現在は往還通りという名になっている①八丁味噌本社事務所の外観②昭和初期に描かれた完成理想図。北側(写真右側)の蔵は造られていないが、ほぼこの通りになっている③今回取材にご協力いただいた企画室の近藤ちかこさん④北側の棟の1階にある部屋。現在は会議や来客対応の部屋として使用⑤内部の柱にはヨーロッパ風の意匠が施されている⑥北側の棟の洋間は、折り上げ天井に。教会風の外観ということから、日曜礼拝が行われていたこともあったという(写真提供:合資会社八丁味噌)⑦玄関の上の外壁にあるダイヤのモチーフ。詳細は不明…⑧東海道沿いの旧店。いまもその姿を見られる。写真手前の左右に走る道が東海道で、現在は往還通りという名になっている

2020年 07月22日 11時05分