ごった煮の街・大須!

名古屋には、商店街のシャッター通り化が多く見られる今の時代にありながら、活気にあふれ、全国の商店街関係者から注目を集めている「大須商店街」がある。

大須商店街とは、名古屋市中区大須2丁目~3丁目界隈の商店集積地のこと。メインストリートは東西約600mの通りが3本、南北約400mの通りが2本あり、すべてを歩きまわってもさほど疲れることもなければ物足りなさを感じることもない、ほど良い広さが特長のエリアだ。さらに、交通の便も良く、商店街西側には名古屋市営地下鉄鶴舞線・大須観音駅が、東側には名城線・上前津駅があり、どちらからでもスムーズに行き来できるようになっている。

そんな大須商店街は「ごった煮の街」といわれている。そのゆえんは、情報関連機器販売店をはじめトレンドファッションの店、国際色豊かな飲食店、サブカルチャーの店、昔ながらの老舗店、さらには由緒ある神社仏閣や歴史的建造物など、約1,300軒ものさまざまな店舗・施設が立ち並んでいるからだ。

観光や買い物などで大須商店街を訪れる人の数は、土日で約7万人、平日でも約3万人が行き交っている。だが、そんな活況に沸く大須商店街も過去には斜陽の時代があった。9団体の商店街振興組合(2014年12月現在加盟者数438名)を代表する大須商店街連盟会長の今井富雄さんに話を伺いながら、1950年代から現在までの大須商店街の変遷を追った。

「大須観音」の呼び名で地域の人々に親しまれている「北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)」。ここを起点に大須商店街のメインストリートが延びている「大須観音」の呼び名で地域の人々に親しまれている「北野山真福寺宝生院(ほうしょういん)」。ここを起点に大須商店街のメインストリートが延びている

近代化の波から取り残され衰退へ

大須商店街連盟会長の今井富雄さん。「30代後半~40代の若いオーナーが中心で活性化事業をやっているのが大須商店街の魅力の一つ。柔軟な頭で取り組まなければ、遅れた感覚ではまちは活性化していきませんから」と力強く語る大須商店街連盟会長の今井富雄さん。「30代後半~40代の若いオーナーが中心で活性化事業をやっているのが大須商店街の魅力の一つ。柔軟な頭で取り組まなければ、遅れた感覚ではまちは活性化していきませんから」と力強く語る

大須の歴史は今から約400年前までさかのぼる。名古屋城が築城された1610年から2年後の1612年、岐阜羽島の大須観音が移転してきたことから、この界隈は「大須」と呼ばれるようになった。以来、大須観音から通りが延びる大須商店街は門前町として大いに栄えた。

「このあたりは“芸どころ尾張名古屋”の文化・芸能の中心地だったんです。江戸時代から芝居小屋、見せ物小屋、遊郭などがひしめく盛り場で、1950年(昭和30年)代始めぐらいまではそのなごりがありました。日本映画が全盛の頃は十何館もの映画館があり、パチンコ屋などの遊興施設もたくさんあって、大衆娯楽を楽しむ人々で賑わうまちだったんです」

当時の写真を見たことがあるという今井さんは、「ものすごく賑わっていたことがよくわかりますよ」と誇らしげにいう。だが、やがて名古屋に近代化の波が訪れると、大須商店街はその波から取り残されていった。

「戦後、区画整理で100メートル道路の若宮大通ができたことで大須と栄が分断され(※)、栄から行き来する人が少なくなっていきました。さらに、1957年(昭和32年)頃から地下鉄東山線や名城線が開通して名古屋駅や栄に地下街ができ、1974年(昭和49年)に路面電車が廃止されると、ますます大須への人あしは遠のいていきました。また、テレビが普及して自宅でテレビを見る人が増え、日本映画館がどんどん衰退していったことも大須の賑わいに影響を与えたと思います」

(※)大須商店街は栄地区から南へ2kmほど離れたあたりにある。

再生への第一歩、ラジオセンターアメ横ビル誕生

大須商店街を“電脳街”としてイメージづけるきっかけとなった場所大須商店街を“電脳街”としてイメージづけるきっかけとなった場所

1960年代、名古屋駅・栄の百貨店や地下街が賑わいを増していく一方で大須商店街は閑散としていき、何十軒とあった娯楽施設もつぎつぎと取り壊されていった。ところが、この危機的な状況が、むしろ商店街再生にとって有利に働いたのである。

「1977年(昭和52年)に、日本映画館の跡地に電脳ショップ『ラジオセンターアメ横ビル』(現在の第1アメ横ビル)が完成し、さらに同じ年、アメ横が建つ数ヵ月前に地下鉄鶴舞線が開通して「大須観音駅」ができました。それまでは商店街東側の名城線・上前津駅からのアクセスしかなかったのが西側からも商店街に入れるようになり、電気パーツなどを求める若い人たちがどんどん訪れるようになったんです」

1つのビルの完成によって人の流れが変わりだした頃、古くから店を営む商店にも変化が訪れていた。

「メインストリートの商店は、呉服屋や既製服などを売る店がほとんどでした。それが時代の流れと共に、後継者がいないとか売り上げが落ちたなどの事情で店舗をテナントに貸すようになっていったんです。その頃には若者が多く訪れるようになっていたので、若い世代をターゲットにしたカジュアルな店やメイド喫茶、フィギュアの店、カードゲームの店などがどんどん増えていきました。若い人たちが来るから若い人向けの店ができ、そこにまた若い人たちが来るという相乗効果があったのかなと思います」

足を止めれば衰退してしまう。だから動き続ける!

アメ横ビルの完成が大須商店街再生のきっかけになったのは確かだが、それだけで今ほどの賑わいが生まれるはずはない。やはり人の情熱があってこそ、まちはいきいきと発展していくのだ。衰退の危機にあった大須商店街の若手経営者たちを勇気づけ、商店街再生に突き動かしたのは、あるプロジェクトだった。

「1975年(昭和50年)に名城大学の助教授や学生さんたちの呼びかけで、私たちの先代・先々代の熱い思いを持った商店主が立ち上がり、協働で『アクション大須』というプロジェクトを行いました。“大須を市民のコミュニティの街に”をテーマに、商店街のあちこちに会場を設け、お化け屋敷をやったり路上ミュージックをやったり寸劇や寄席をやったりと、まるで学園祭のようなノリで商店街を楽しく回遊できるイベントをしたんです」

大成功をおさめたこの試みは、その後「大須大道町人祭(おおすだいどうちょうにんまつり)」へと受け継がれた。1978年10月に第1回目が開催されて以来、毎年約30万人を動員する一大イベントとなっており、2014年10月には37回目の大須大道町人祭が開催された。このほかにも春祭りや夏祭り、世界コスプレサミットのパレードなど趣向を凝らしたイベントが行われている。

「商店街連盟としては、訪れた人が散策しやすいよう大須マップをつくったり、土日限定の“大須案内人”を設けたり、観光客にアンケートを行ったり、ソフト事業をメインにさまざまな活動をしています。足を止めれば衰退するのは目に見えているので、絶えず動き続けているんです」

大須商店街の目印といえばこの2つ。東側は招き猫、西側は大須観音前の赤いちょうちん大須商店街の目印といえばこの2つ。東側は招き猫、西側は大須観音前の赤いちょうちん

年間7~8%の店が入れ替わり、空き店舗なし!

大須商店街の取り組みは高く評価されており、2006年に中小企業庁の「がんばる商店街77選」、2008年には愛知県「ブランド商店街あいち」に選定されている。

がんばる商店街77選の大須商店街の紹介文に“近所の不動産屋が出店希望者に対して空き店舗情報を提供しており、外部からの出店希望者も多いため、空き店舗は殆どない”とあるが、昨今の商店街事情のなかで空き店舗がないとは、いったいどういうわけなのだろう。

「店舗情報から出店後の管理まで安心して任せられる、先代・先々代の頃からつきあいのある近所の不動産屋さんがあるんです」

今井さんの話によると、その不動産屋さんとはそれこそ大須商店街の繁栄期から衰退期、そして見事再生した現在まで共に歩んできた絆があるという。通りごとに異なる坪単価や規約、条件などをすべて把握していて、出店希望者に詳細な情報を正確に伝えてくれていることが、目まぐるしい出入りをスムーズにしているようだ。

「大須商店街には1,300ほどの店や施設がありますが、そのうち年間7~8%の店舗が変わっています。絶えず起業家の方が出店し、チャレンジしてダメだったらスッと次に変わる。だからシャッター通りにならないんでしょうね。大須商店街はもともと排他的ではない土地柄なんです。大須まちづくり憲章と最低限のモラルさえ守ってもらえば、どんな方でもウエルカムですよ」

面白そうなものを何でも受け入れて、うまく吸収してしまうのが大須商店街流。ごった煮の街・大須は、今後も独自の個性を発揮して訪れる人を楽しませてくれるに違いない。

【取材協力】
■大須商店街連盟
http://www.osu.co.jp/



【関連リンク】
■中小企業庁 がんばる商店街77選(愛知県名古屋市 大須商店街連盟)
http://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/shoutengai77sen/nigiwai/4chuubu/1_chuubu_19.html

通りごとに雰囲気がまったく違い、まさにごった煮状態! 店を眺めながら歩いているだけでも楽しめる通りごとに雰囲気がまったく違い、まさにごった煮状態! 店を眺めながら歩いているだけでも楽しめる

2015年 01月16日 11時09分