牧野富太郎博士も練馬の大泉に居を構えた
石神井は江戸時代から名刹や清らかな水を求めて人々が訪れる地域だった。
真夏日には無数の蝉の声が三宝寺池の森中に響く。実際、ここは蝉の種類が多いそうで、かつては蟬類博物館があった。大正昭和期の昆虫学の権威・加藤正世博士が、石神井公園に隣接した自宅に加藤昆蟲研究所と併設して開設したものである。
NHK連続テレビ小説(通称:朝ドラ)「らんまん」の主人公で植物学者・牧野富太郎博士も1926年から大泉に居を構え、57年に生涯を終えるまで、自邸の庭を「我が植物園」として大切にした。
現在は練馬区立牧野記念庭園として一般公開されている(東大泉6−34−4)。庭園には約300種類の草木類が植栽され、なかにはスエコザサやセンダイヤザクラ、ヘラノキといった珍しい植物も数多くあり、学問的にも貴重なものだという。
1920年には堤康次郎により箱根土地株式会社が設立され(その後国土計画株式会社)、同社により22年に「目白文化村」という住宅地の分譲が現在の新宿区内で開始された(24年までに第三文化村までが分譲された)。
練馬区内でも、沿線住民や行楽客が増えた。1920年に6035人だった石神井村の人口は30年には9839人に63%増加した。
昭和初期(1926〜30年ごろ)までは石神井川は大雨でよく氾濫した。そのため練馬第一耕地整理組合が30年に設立され河川改修をし、耕地整理を行い、河川の両岸の水田を畑に換えたり、湿地の畑を改良したり、農道の整備をしたりした。
三宝寺池には戦前、100mプールがあった
石神井公園には2つの池があり、東半分が石神井池、西側が三宝寺池である。
三宝寺池は、武蔵野台地の先端に湧く天然の池である。三宝寺池から出る水は石神井川に流れ込むが、川の本当の源流は小金井公園だという。
池の周辺は古代からの遺跡が多く、中世の豊島氏城趾があったことでも知られる。豊島氏は豊島郡、豊島区の元となった一族である。
池のまわりの丘陵地は坂が急であり、坂の上からは三方寺池をのぞき込むように見ることになり、とても23区内とは思えない風景で、どこかの避暑地に来たような気分になる。
三宝寺池には現在、カキツバタなどを移植した水辺観察園という一帯があるが、ここには戦前、池の水を利用した100メートルプールがあった。東京府営でありオリンピックをめざす選手たちのために1918年に「府立第四公衆遊泳場」として開場した。
だが石神井公園のプールは、側面は板囲い、底は土のままだったので、泳ぐとすぐに泥水になった。そこで24年に底もコンクリートに改修され、オリンピック選手や学生の合宿訓練などが行われた32年のロサンゼルスオリンピックでは、日本は水泳五種目で優勝している。
当時は東京各地にレクリエーションを目的としてプール設営が進められていたらしく、1921年には井の頭恩賜公園(三鷹市・武蔵野市)にも井の頭池を利用したプールがつくられている。
直木賞・芥川賞作家など、文学者たちが集まった石神井
石神井公園ふるさと文化館分室では「志と仲間たちと-文士たちの石神井、美術家たちの練馬」という展示が2015年に開催された。石神井池近くに住んだ小説家・檀一雄を中心とする文士村、そして練馬駅周辺にできたアトリエ村に光を当てた貴重な展示である。
檀一雄は、結婚した1942年から石神井に住み、その後陸軍報道班員として中国へ渡った後、再婚し、1947年に石神井に戻り、三宝寺池畔の石神井ホテルに投宿した。そこで書いたのが代表作のひとつ、闘病する先妻との生活を描いた『リツ子 その愛』 『リツ子 その死』だった。その後、檀は石神井池周辺に家を買い、流行作家となる。
石神井ホテルとは、1918年頃に、当初は料亭「豊島館」旅館「武蔵野館」として開業した。木造2階建てで、三宝寺池のすぐ南側の、石神井城址隣に立っていた。1923年には、日本共産党臨時党大会が開かれている。1975年頃に取り壊された。
檀一雄が石神井の地に関心を持ったのは、1937年に太宰治らと三宝寺池を散策したときのことが楽しく記憶に残っていたからだという。33年に太宰治と知り合った檀は、彼らの友人を集めて「青春五月党」という団体を結成し、交流を深めていた。
戦後の昭和20〜30年代に石神井ホテルに住んでいた人物としては、洋画家・南風原朝光、美術評論家・四宮潤一夫妻、美術家・今井滋らがいた。
坂口安吾は1951年、檀一雄の家に逗留。 五味康祐は52年に下石神井へ引っ越してきた(のちに大泉に転居)。そのほか、庄野潤三、 草野心平らが1950年前後に石神井周辺に転居してきている。
この時代は「石神井ルネッサンス」だったといわれる。
石神井に引っ越した作家たちがしばしば文学賞を受賞をしたからだ。檀一雄は直木賞、五味康祐は芥川賞を松本清張とともに受賞した。清張は練馬区関町に住み、やがて石神井の住人となった。眞鍋呉夫も芥川賞候補となり、93年に読売文学賞、2010年蛇笏賞を受賞した。庄野潤三は「プールサイド小景」で芥川賞受賞。このプールは、石神井池プールを彷彿とさせるそうだ。
石神井談話会から感じられる郊外文化
1952年には、檀、五味、南風原、日本画家・丸木位里、理論物理学者・武谷三男らが発起人となり石神井談話会が結成された。会長はおらず事務局だけを置き、それぞれが講師になって話をしたり、いろいろな活動をしたりという自由な団体だった。
1954年のあるとき、武谷が「水素爆弾の話」という題で話しているのは、ビキニ環礁水爆実験のあった年だからだろう。同じ年、建築家・遠藤雄二らが「新しい住居の工夫」を話しているのも、いかにも復興から近代化に向かう時代を感じさせる。
談話会の設立趣旨的なものと思われる「わたくしたちのねがい」には「わたくしたちは石神井がいつまでも美しい森と水の町であるようにのぞみます/わたくしたちは石神井を平和で文化的な町にするようつとめます」などとある。ここにも戦前からの郊外文化と戦後的な理念が感じられよう。
文化的土壌が育まれて生まれた「練馬アトリエ村」
文士たちが石神井に集まったのは主に戦後だが、大正・昭和戦前期の東京郊外には、文士村や、芸術家たちが集住したアトリエ村が数多く誕生した。
石神井地区ではないが、練馬区にアトリエ村ができ始めたのは1934年(昭和9)頃かららしく、豊島区に長崎アトリエ村ができた流れが、さらに西側の練馬区に波及したらしい。
場所は、現在の西武池袋線南側の豊玉北4丁目と5丁目。4丁目の20軒ほどが中新井アトリエ村、5丁目の数軒が練馬アトリエ村と呼ばれた。練馬アトリエ村には彫刻家の佐藤忠良、舟越保武らが住んだ。2人をはじめ、東京美術学校(現 東京藝術大学)の学生や卒業生が多かった。
アトリエからの連想で言うと、下石神井には絵本画家・いわさきちひろの「ちひろ美術館・東京」もある。
練馬区にはそのほかに、童話関係者は、いぬいとみこ、大木雄二、角野栄子、久保喬、神宮輝夫、立原えりか、藤田圭雄、松谷みよ子らがいた。絵本作家では赤坂三好、谷真介、井口文秀、いとうひろし、鈴木寿雄、馬場のぼる、茂田井武らが練馬の住人だった。このように昭和初期に練馬の文化的土壌が育まれたのである。
参考資料
『練馬区史 歴史編』1982
中井嘉文「練馬にもあったアトリエ村』2010年
石神井公園ふるさと文化館 「志と仲間たちと 文士たちの石神井、美術家たちの練馬」
石神井公園ふるさと文化館 「特別展 鉄道の開通と小さな旅 西武・東上沿線の観光」
石神井公園ふるさと文化館 「ねりまと鉄道 武蔵野鉄道開通100年」
石神井公園ふるさと文化館「生誕100年檀一雄展 練馬を愛した作家・詩人」
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