神山町の町営住宅の独自性とは
今から5年前、2017年11月に徳島県神山町を訪れた。鮎喰川(あくいがわ)沿いに細長く広がる町の中心部、かつてRC造の中学生のための寮があった大埜地(おのじ)で始まった町営住宅「大埜地住宅」の建設を取材するためである。
公営住宅建設自体は昔より数は減っているとはいえ、今も行われており、珍しい話ではない。だが大埜地住宅には他にない独自なやり方があり、それがこれからの時代の公営住宅のあり方を示しているように思えた。それは徹底的に町にあるものだけで、町の環境にあった長く愛されるものを作るという姿勢である。まずはその概要をおさらいしておこう。
公共事業で住宅が建設される場合には全体を一括で発注、一気に作ってしまうことが多いが、神山町では全20戸を1棟ではなく、2階建て8棟にし、工事を全部で四期に分け、4年をかけて少しずつ建ててきた。これは地元の材を使って地元の大工で作るため。
発注規模が大きくなると地元の事業者だけでは財務面や手間の問題から受注できず、都市の事業者に発注することになるが、それでは地域の中で一番大きな発注者であろう町からのお金を外に払うことになる。神山町では、地元の事業者が関われる規模の住宅を時間をかけて作ることで町内で経済を循環させ、大工たちに新旧技術を会得・習得してもらおうと考えたのだ。
使う材は地元産の杉・檜を町が前年に購入、それを使用した。もともとあった寮の建物を解体したコンクリートのがらも現地で小割にして再生砕石として使った。地中に埋没している基礎も資源としてそのまま使った。
植栽は町内にある城西高校神山分校の生徒たちが2016年秋から周囲の山で採取してきた樹木の種から育てて成長した苗木を植えた。地域の在来種主体の植栽は神山らしい景観を生むだろうと考えたのだ。
建物は建設地の日照や風の向き、眺望などを検討、環境に負荷をかけずに快適に暮らせるものを模索した。また、地元の古い住宅を見学して、この地に昔からあった気軽に人を招く文化を伝承できる仕掛けを取り入れた。間取りは今後暮らし方が変わっても柔軟に対応できるような、〇LDKにこだわらないものとした。
もうひとつ、敷地内には地域の人たちのリビングであり、図書室であり、自由に使える「鮎喰川コモン」というコモンハウスも作られた。前述したように神山町は川沿いに細長く広がっており、子どもたちはバス通学などをしており、学校以外にみんなで集まって遊ぶ場所が少なかった。鮎喰川コモンは子どもたちの遊び場として機能することを意識したスペースなのだ。
町産材認証制度を創設、町内の木を使う気運に
特徴を列挙しただけで、違いがお分かりいただけるだろう。だが、実現に当たっては乗り越えるべき課題もあった。たとえば、材料の手配。近年では製材所が無くなってしまっている地域もあるが、幸い、神山町には7軒の建材を扱う製材所があった(この間に1製材所が閉業)。だが、当初、製材所サイドには地元の木を使うことに抵抗感があったという。
町産材は「犬杉」と呼ばれ、程度が低いものと考えられていたからだ。そうした材を商品として出荷するのはプロとしてどうか、出すなら選りすぐりの品でなくてはなるまいというのが彼らの考え。しかし、そこまでの高い木材は予算的に使えない。
そこで町役場の担当者と住宅建設のコーディネートを担当した神山つなぐ公社と設計者は、製材所を対象に説明会を開催。個別に製材所を訪ねて意図を説明するなどこまめに動いたが、最後まで意思疎通は難しかったと当時の担当者は語る。また、同じ理由からなのか、この建設に必要な分量の町産材木を在庫しているところはなかった。そこで前年に町が発注、乾燥をさせてから工務店に支給するというやり方になった。
本建設計画を追い風に、神山町では2016年に町産材の認証制度を作った。県レベルでは徳島県、埼玉県、栃木県、福井県など多くの自治体に認証制度があるが、町村レベルでの認証制度はそれほど多くはない。事務手続きが複雑で大変だからだが、幸い、神山町には徳島県で県産材の認証制度制定に関わった人がおり、非常にスムーズに制定に至った。
認証は、町内の製材事業者約40社でつくる町木材買方組合と徳島中央森林組合(同町)で立ち上げた認証機構が行い、機構に登録した事業者からの申請に産地証明書を発行するという形。加えて町産材を使い、町内の事業者に家を建ててもらうと補助金が出る仕組みも作られ、町産材の利用促進、ブランド化への道筋が生まれた。町内の人工林の多くが伐採期を迎えているという事情も考えると、町産材を使うことは多方面にプラスに働くはずである。
建築家と大工をつなぐハブ役を起用
建物はビオフォルム環境デザイン室の山田貴宏氏が設計したが、地元の大工からすると設計者とともに家を建てるのはこれまでにあまりない経験。見たことのない設備の導入などもあって不安を感じたのだろう、高めの入札が続き、最終的に工事を担当する工務店が決まるまでに入札を何度も繰り返す羽目になった。
そこで、入札する工務店を集めて質問会を開いたり、導入予定の「びおソーラー」(屋根集熱・床下蓄熱を行い、室内の温度などを快適に保つソーラーシステム)のメーカーに説明会を開いてもらうなどの機会を持った。
またこの開発では、地元工務店や建設会社と細やかな相談を交わせるよう、設計者が現地に常駐する形をとった。それが吉田涼子氏、池辺友香子氏という2人の女性だ。初年度は東京で設計に携わり、その完成後は現地で監理に当たることに。
町が彼女たちが常駐する経費を含めて設計監理業務を委託したのである。神山町では長らくアーティストインレジデンスという、アーティストが町に滞在して作品を作るという活動が続いているが、それに倣い、アーキテクトインレジデンスというところだろうか。この規模で監理者が常駐することは珍しいそうだが、単に建てるだけではなく、地元に関わる多くの要素が含まれたプロジェクトを実現させていくためには現場にいつもいる人が必要だったのである。
さらに徳島市内の建築事務所を辞めて、神山町で独立しようとしていた赤尾苑香氏に休業届を出してもらい、つなぐ公社にプロジェクトマネージャーとして参加してもらってもいる。クライアントである町には建築などに関する知識はなく、作業工程、内容、スケジュールなどを適切に管理することができないからだ。
当初は完成予定時期が決められていても、おそらく延ばしてもらえるだろう、分からないことがあったら意思疎通を図るより自分の馴染んだやり方で進めるほうがいいといった意識もあり、また担当者の多くが若い女性ということもあって互いに相手を探るような状況が続いたそうだ。しかし、赤尾氏に加え、2年目からは現在つなぐ公社の代表理事を務める馬場達郎氏がスケジュール管理などに携わるようになった。関係性ができてくるにつれ、徐々に状況は好転。最終的には大工も技術と自信を得てプロジェクトを終えることができた。
また、赤尾氏は工事が軌道に乗った後半で本業に復帰、その後、建築設計工房を主宰。プロジェクト期間中だけ滞在する予定だった池辺氏もいけべ建築設計室を、吉田氏は四方山設計を開いて神山に定住している。神山で家を建てる選択肢は確実に広がっているのである。
町の工務店には大きな刺激に
工事に携わった若手大工の荒井工務店の荒井充洋氏、大家工務店の大家稔喜氏にも話を聞いた。工事が始まったのは2017年だが、2人はその前に町の民家改修プロジェクトなどに参加。産業観光課、移住交流支援センターの人々と一緒に岡山、尾道、益子などへの視察ツアーに参加している。
「地域の景観、環境を劣化させている要因のひとつに住宅産業があると思っており、その土地らしい景観を考えると地元の工務店に頑張ってもらいたい。しかし、地域工務店は高齢化が進展、数も減少しており、若手には育ちあう場が少ない。若手に機会をと地元の製材所の跡取りから紹介されたのが荒井さん、大家さん。そこで他の中山間地の工務店事例を一緒に尋ね、実際にそれぞれに民家改修に関わってもらいました」と元神山つなぐ公社の西村佳哲氏。
視察、古民家改修を契機に2人もこれからのこと、仕事のやり方を考えるようになった。
「以前の仕事はハウスメーカー的な組立作業、床貼りのような単純な仕事が多く、父と2人で与えられた仕事だけを小さくやっていました。時々、このまま、ずっとおやじとだけ仕事をするのかなあと不安を感じていましたが、今は横のつながりができました。
最初に現在『豆ちよ焙煎所』に使われている民家改修の話があったときには、激しい白アリ被害のある家を直すより、新築したほうがよいのにと思いましたが、初めて揚屋(あげや。建造物を土台から持ち上げる工事)をして、そこで自信がつきました。また、これまで体験したことのない規模の集合住宅に関わったことでなんでもこい、やるぞ!という気分です」と大家氏。
荒井氏は移住者のお試し居住のために使われている住宅の改修を担当した。
「人の紹介で仕事は続いてきたものの、ちょうど父が亡くなり、先々のことを思うと不安しかない、岐路に立たされているときに改修の話を頂きました。神山でも大きな家で思うように進まないこともあり、不安もいっぱい。それでも古い材を丁寧に撤去し、それを新しく使うなどして少しずつ進行。完成したときにはそれが自信になりました。
以前はみんながハウスメーカーの楽な仕事をしているのに、父からは手刻みの難しい細工ばかりやらされ、嫌だなと思っていましたが、改修をやってみて父は一人でもやっていけるように、これを覚えさせようとしてくれたんだと思うようにもなりました」と荒井氏。
2人は実は同級生。だが、改修、視察までは交流はなく、それぞれ孤独と不安のうちに仕事をしていた。今は良きライバルであり、それぞれに若手を育てる立場でもある。世の中全体として大工は減少傾向にあるが、大工は地域の暮らしを支える大事な存在である。お二人はもちろん、彼らが育てる次世代の大工にも期待したいものである。
自然の力を生かす環境共生住宅
プロジェクトは移住者向けの空き家改修にも変化をもたらした。これまでも移住支援交流センターでは移住希望者に空き家を紹介し、借主負担で改修工事をするという空き家利活用の仕組みを提案してきた。
ただ、大工自体は町内にいるものの、若手大工はハウスメーカーの下請けなどで徳島市内の仕事をしていることが多く、イレギュラーな工事が求められる空き家改修を引き受けてくれるのは、60代以上の大工だけだった。担当者の伊藤友宏氏には「高齢化でいつかは空き家改修を担える大工がいなくなるのでは」という思いがあったそうだ。
ところがプロジェクトを経て、若手大工や設計士と相談しながら空き家を改修するという流れが出てきている。移住希望者のさまざまなニーズに合わせた大工、設計士を紹介できる体制になってきているわけだ。「今後は神山らしい、大き過ぎない新築などもあったらいいのではないか」とも考えているそうで、移住したい人はいても住宅が無いという状態はいずれ変わっていくかもしれない。
続いては完成した「大埜地住宅」の説明をしよう。前回の砕石だらけの地から一変、現地は木のぬくもりを感じる住宅がゆったりと配されており、完成からそれほど時間は経っていないのに落ち着いた佇まい。近くを走る道路から見ると明らかにこれまでの神山にない、でも、異質ではない空間となっている。
特徴は環境に配慮した住宅であるという点。設計の山田氏は5つポイントがあるという。
ひとつはパッシブデザイン。これは周囲の自然環境の特性を活かし、快適に暮らすための知恵とでもいえばよいだろうか。
たとえば南側に大きな窓を取って冬の日光が入るようにする一方で、しっかりとした庇を作って夏の日光を遮蔽するように作るというようなやり方である。それ以外では欄間や天窓、窓の開ける方向で通風を良くする、家の南側には比較的大きくなる木を植えて夏の日差しを遮るようにするが、北側はそれほど大きくならない木にするなど。昔なら自然にやっていたであろう生活の知恵を現代風にアレンジしたものといえるだろう。
ひとつ、面白いと思ったのは北側に設けられた大きな庇。徳島の周辺エリアでは伝統的に日射のコントロールと作業空間に使われる、オブタ(大きな蓋)と呼ばれる軒下空間があるそうで、それが作られているのである。使い方は住む人次第。応接空間として使ってもよし、物干し場、作業場としてもよし、いろいろに使える。アウトドアにもう1室あると考えると、豊かな気分になると思う。
真冬でも子どもたちはTシャツ短パンという心地よさ
二つ目は太陽、風などの自然エネルギーの利用。具体的には前述した太陽熱を利用する「びおソーラー」を導入、冬は屋根で集熱した暖かい空気を、夏は夜間に取り入れた冷気を室内に循環させることで快適に暮らせるようにするというもの。メンテナンスに町外の事業者を呼ばなくても済むように地元の電気屋さんでも直せるような、1戸あたり60万円しないくらいの簡易な装置を導入した。家が基礎から乾燥するため、長寿命化にも貢献する。
もうひとつは温水暖房と給湯。敷地内に建てられたエネルギー棟から木質ペレットを燃やして80~85度に温めた温水が各戸に供給されており、各戸には70度くらいで届く。こちらもじんわりと住戸内を温めてくれる。燃料となるペレットは作っている会社が町内に1ヶ所あり、ここでも地元の材を使うというやり方が取り入れられている。設備自体は環境省の補助金を利用した。
これらの仕組みが快適な暮らしを支えており、住んでいる方に伺うと暖房を入れていなくても室温は冬でも21度ほどとか。取材したのは指先が冷えて痛いほどの日だったが、子どもたちは半袖のTシャツに短パンで家の中を走り回っており、実にうらやましく感じた。
三つめは自然の素材を地域で循環しながら使うこと。住宅が無垢の材料の現しでできているのはそのためで、木の風合いの変化を楽しむため、塗装もされていない。ただ、見学会ではあるおじいさんから「なぜ、こんな節だらけの木を使ったんだ」と言われたそうで、そのあたりの意識を変えていくのはこれからのことだろう。
四つめはできるだけ外から持ち込まず、地域にあるものを循環させようというもの。町産材の利用、地元の山林で採取してきた種から育てた植栽などがその例だ。また、敷地内にある小屋は杉皮で葺いてあるのだが、これも地元の杉から調達したもの。すでに当地では杉皮葺きの伝統は廃れており、昔の記憶を掘り起こし、知っている人に聞くところから始め、一時は地元調達を断念しかけたほど大変だったそうだ。
だが、町長がそれはダメと待ったをかけ、最終的には地元の材だけで葺きあげた。30年後には葺き替えが必要なので、今回の経験を引き継いでいく必要があると設計を担当した山田氏。作るだけでおしまいではないのである。
最後は水質浄化。下水道がきていないため、敷地内には20世帯分の浄化槽が用意してあるのだが、さらにもう一度植物で浄化しようと池を作ったのである。子どもが落ちたら危ないという声もあり、フェンスで囲ってあるが、ビオトープ的な生物多様性を目にする場所となるのではないかという期待もある。
居住者のみならず、神山の子どもたちの遊び場に
すでに全戸に入居者がいるため、敷地外周から現地を見せていただいた。建物自体は敷地内を東西、南北に走る道に沿ってシンプルに配されている。ただ、東西の道はまっすぐ、南北の道はクランクしているため、ところどころに広場のような空間があるのが特徴。住戸間、住戸と道路の間が垣根になっていることもあって見通しが良く、大人にとっては会話の生まれる場であり、子どもたちには遊び場になる空間だ。
車社会では駐車場は家の近くに作られるのが普通だが、ここでは歩車分離のため、離れた場所に配されており、敷地内は誰にとっても安全な場所。住戸南側に大きな開口部があるので、親は子どもたちが外で遊んでいるのが見えて安心だし、子どもには誰かが遊んでいるのが見え、それが外に遊びに行くきっかけになる。
一緒に遊ぶことで子どもたちはあっという間に仲良しになっており、2022年2月には冬だというのに、1年生、2年生の小学生女子が言い出して鮎喰川コモンを利用してお化け屋敷をやったそうだ。浴衣で座敷童に扮するなど、約1ヶ月前から子どもたちだけで用意をし、居住者宅を訪れては参加を呼び掛けた。第1回といっていることから今後も続けて開催するつもりらしい。仲の良さに加え、鮎喰川コモンに常駐するつなぐ公社のスタッフの力も借りたとはいうものの、子どもだけでイベントを作り上げる実行力にも脱帽である。
敷地内、鮎喰川コモンで遊んでいるのは居住者の子どもたちだけではない。近くにある小学校の子どもたちも学校帰りに、週末にとさまざまな機会に訪れ、離れた集落に住んでいる子どもたちが一緒に遊べる場になっているのだ。
残念ながら休館日だったため、内部は見学できなかったのだが、午前中は赤ちゃん、午後の早い時間には小学校低学年、夕方からは高学年の子どもたちが集まり、1日中賑わっているという。子どもたちだけでなく、大人たちの間にも自然と付き合いが生まれており、敷地内の手入れその他は居住者が率先して進められているとか。機会があれば、そうした人間関係についてもいずれ話を聞いてみたいものである。
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