氷川学園台とは、どこか

以前、埼京線日進駅から大宮駅西口方面までをレポートしたが、大宮から浦和にかけての住宅地分譲チラシも私は何枚か入手した。
その1つが氷川学園台という分譲地である。現地案内所は国電大宮駅東口となっているので、氷川神社の近くの分譲地か、「高・大学至近」とあるのは浦和高校と埼玉大学かと思ったが、「輝く東大宮発展高級商住地」とあるので、宇都宮線東大宮駅が最寄りらしい。

地図を見ると東大宮には芝浦工業大学がある。どうもその近くらしい。「大市営住宅街(工事進行中)の入口」とも書いてあるが、1960年代の航空写真を見ると、たしかに1960年にはほとんど住宅がないが、67年にはかなりの住宅地ができている。これが市営住宅なのか。

だとすれば氷川学園台は、大体この辺りだという当たりがついた。おそらく芝浦工業大学の西側の一帯である。それにしてもなぜ氷川学園台なのか。氷川神社からはだいぶ遠いぞ、紛らわしいなと思いながら、現地に赴いた。

1963年ごろのものだと思われる大宮の住宅分譲地のチラシ1963年ごろのものだと思われる大宮の住宅分譲地のチラシ

たしかに氷川神社があり高台だった

宇都宮線東大宮駅で降り、東口に出て、芝浦工業大学方面に向かう。
すると、大学は少し高台になっており、その西側は川になっている。川に隣接する低地はおそらく田んぼだったのだろう。そこも住宅地になっているが、住宅の外観からして建設時期は1990年代以降だと思われた。

そこからすぐに西側はまた少し高台になっている。ここは住宅の様式が古い。歩いていると神社がある。なんと氷川神社である。地図をよく見ると、このへんには大宮の氷川神社ではない氷川神社が2つある。芝浦工業大学の西側の氷川神社はそのひとつだった。

わずかながらに高台で、氷川神社があり、芝浦工業大学至近、だから「氷川学園台」なのである。ウソではない。まったく真実である。でも紛らわしい。

このへんが氷川学園台だろうか?このへんが氷川学園台だろうか?

東大宮は戦後、団地がたくさん開発された

「大市営住宅街(工事進行中)の入口」はどこのことか。入口らしきものはない。電信柱の標識を見ると「国鉄砂幹線」「B団地支線」といった文字が見える。

昔は電話を家庭に入れることが珍しかったので、住宅地ができるたびに電信柱がたてられ、ある家が電話に加入するたびに電信柱から電話線が引かれた。
たいがい旧地名、字(あざ)名などが標識に書かれる。「国鉄砂幹線」の「砂」というのはこの地域の昔の地名である。川沿いの低地であり、広い土地全体が砂州のようだったのだと思われる。

団地の場合、一気に建設が進むので電信柱も一気に整備され、それで固有の標識がつけられたのであろう。電話線も幹線から支線が分岐するので、国鉄砂幹線からB団地に支線が分岐したのだと推測される。

電信柱に国鉄砂幹線と書いてある電信柱に国鉄砂幹線と書いてある
電信柱に国鉄砂幹線と書いてあるこちらはB団地と書いてある

国鉄の社宅建設などが多かった

大宮駅に戻り、さいたま市大宮区図書館で昔の地図を見ると、東大宮駅の西に「国鉄A団地」があり、駅の東が「B団地」、B団地の北に「C団地」が書かれている。
「大市営住宅街」とはこの国鉄のC団地のことではないかと思われる。市営ではないが、最初は市営団地の建設が予定されていたところに、国鉄が社宅用地を求めた可能性はある。あるいは市営団地が別にあったのか。そこまでは今回は調べなかった。
大宮は鉄道の街、特に国鉄との関わりが非常に深い街であるから、多くの社宅が建設されたのであろう。

そして氷川学園台はそのC団地のおそらく北側に造られたものと思われる。だが、当時の常として、土地が業者間で転売されただけで、住宅はしばらく建たなかった可能性もある。C団地の北側に本格的に住宅地ができるのは、航空写真を見る限り1985年以降だからだ。

国鉄団地A・B・Cがある。氷川学園台はC団地の北の氷川神社の北側一帯だと思われる。氷川神社の右に芝浦工業大学がある(1967年大宮市明細地図)国鉄団地A・B・Cがある。氷川学園台はC団地の北の氷川神社の北側一帯だと思われる。氷川神社の右に芝浦工業大学がある(1967年大宮市明細地図)
国鉄団地A・B・Cがある。氷川学園台はC団地の北の氷川神社の北側一帯だと思われる。氷川神社の右に芝浦工業大学がある(1967年大宮市明細地図)国鉄B団地の近くにはこういうかわいい平屋もある。この地域にはこうした古い平屋が多い

素敵なテラスハウスの団地もある

国鉄A団地の西隣にも県営砂団地があるし、国鉄B団地の南東には住宅供給公社分譲の堀崎町団地がある。ここは2階建てのメゾネットのテラスハウスであり、なかなか良い出来映えである。

このように東大宮駅周辺全体が、1960年代に団地、社宅、民間宅地として急速に開発されたのであろうことが一枚のチラシをきっかけとして推測できるのである。

住宅供給公社分譲の堀崎町団地住宅供給公社分譲の堀崎町団地
住宅供給公社分譲の堀崎町団地堀崎町団地看板

北浦和で戦前から進んだ高級住宅地開発

浦和の方でも戦前からの住宅地開発は進んだ。1941年5月13日の読売新聞によると、北浦和駅周辺の針ヶ谷、領家地区の住宅地化についての記事が出ている。
これらの地区は駅の東側であり、駅から名門県立浦和高校などに至るなだらかな丘陵地であるが、もともとは「荒れた畑や雑木林を住宅地」であって、ここに道路や小公園(緑地帯)を整備し、5百数十軒の住宅を建築して「住宅難を緩和しよう」と区画整理組合が設立されたという。

行ってみると東京の世田谷、杉並と同じような第三山の手的な住宅地である。世田谷、杉並では地価が高すぎて土地が分割されてミニ戸建てが建ったり、造形的に面白みのないコンクリート住宅が建ったりと、その文化的雰囲気を失いつつあるのに比べると、北浦和の方がむしろ古きよき住宅地の姿を残している。

コロナで郊外居住が注目されているが、たしかにこうした緑豊かな庭を持つ住宅地を見ると、高いお金を払って世田谷、杉並に住むよりも、郊外の良好な住宅地を選択することも賢明であると思えてくる。

北浦和の風格ある住宅地 1
北浦和の風格ある住宅地 1
北浦和の風格ある住宅地 1
北浦和の風格ある住宅地 2
北浦和の風格ある住宅地 1
読売新聞1941年5月13日

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