桜丘高校の近くには

桜ヶ丘のがけ桜ヶ丘のがけ

前回(【横浜市 旭区・瀬谷区】昭和30年代に分譲された郊外住宅地を訪ねてみる)に続き、昭和30年代のチラシの中から住宅地を探してみる。

今回は保土ケ谷区である。ここに「桜ヶ丘美鳥園」という分譲地があったらしい。調べたところこれは保土ケ谷区の桜ヶ丘ではないかと思われる。美鳥園自体はどこにあったのかはわからなかったが、桜ヶ丘の良好な風景からして、いかにも美鳥園と名付けた分譲地があったと思われる。

桜ヶ丘は駅で言うとJR東海道線保土ケ谷駅、相鉄線星ヶ丘駅や天王町駅が近い。行ってみると、段丘の上と下とがはっきりと分かれた起伏の多い土地である。神奈川県立桜丘高校もあり、丘の上の住宅地は高級なものも少なくない。

保土ケ谷の偉人・岡野欣之助

桜ヶ丘からの眺め桜ヶ丘からの眺め

高校の他、桜台小学校・岩崎中学校・栄養短期大学(2004年閉校)があることから「学園通り」と呼ばれる古そうな道がある。
その道沿いは、地元の名士の家が多いらしく、古い立派な家がある。そして学園通りの南側の家は、眼下に東海道側を見下ろす絶景である。

桜ヶ丘は神戸(ごうど)上町、神戸下町、及び星川町の一部より成る高台である。ここは保土ヶ谷の偉人と言われる岡野欣之助が開拓したという。岡野は相鉄の前身である神中軌道株式会社の発起人の1人でもある。

彼は、新田開発(岡野新田)、耕地整理事業、公園整備(保土ケ谷区の常盤園、通称岡野園や西区の千歳園)を行い、銀行、平沼高校、女子更生施設などの設立など、無数の事業を展開した。いわば保土ケ谷区における渋沢栄一みたいな人物らしい。

明治時代には別荘地になった

桜ヶ丘が発展し始めたのは、関東大震災後の1924〜25年頃で、それ以前は畑と山林であり、家はなかった。だが岡野はこの高台が閑静で風光明媚、空気が良い健康地であることに注目しておた。都会に通ずる交通機関もあるから、ここを拓いて田園住宅地としようと考えたのだった。

すでに明治時代に、横浜市の渡辺福三郎ら、国内の商人、また外国人商人(フランス人の雑貨商アンリ−ファン夫妻やフランス人生糸商ポール・ドリールら)が、保土ケ谷に別荘を構えていた。ドリールの別荘は東海道の難所・権太坂にあったが、権太坂は療養地としても明治末期に注目を集めていた。空気がきれいでオゾンが多いと言われ、ぜんそく、脚気などの療養所がつくられたのである。

そうしたことからこの一帯は「長寿ヶ丘」とも呼ばれるようになり、伊勢佐木町あたりの商店主らも幼少期には療養に来たという。

大正末から昭和初期の常盤台(出所:保土ケ谷区史)大正末から昭和初期の常盤台(出所:保土ケ谷区史)

耕地整理と桜の植樹

大正時代になって、岡野は保土ヶ谷第二耕地整理組合を組織した。岡野はその組合長となり、1919年8月から耕地整理事業が開始された。幅約7.2mの道路が整備され、自動車も悠々通れるようになった。

21年4月には耕地整理事業が完成に近づいた頃、岡野は「桜の会」の組織を発案した。横浜市近郊の名勝地とすべく、開発した道路の両側に約9m間隔で桜の木約3000本を植えたのである。

それが桜ヶ丘の名のいわれである。桜並木は満開時には桜のトンネルのようになり、今も市民に親しまれている。

保土ケ谷区帷子(かたびら)の耕地整理前と後(出所:保土ケ谷区史)保土ケ谷区帷子(かたびら)の耕地整理前と後(出所:保土ケ谷区史)

イタリアのようだと斎藤茂吉が書いた風景

桜ヶ丘などには大正時代に文化住宅が増えた桜ヶ丘などには大正時代に文化住宅が増えた

22年には東京の上野公園で平和記念東京博覧会が開催されて、「文化村」という住宅展示場がつくられた。以後、西洋風のデザインを取り入れた住宅が文化住宅と呼ばれて各地に普及した。

横浜市では鶴見区豊岡町(JR鶴見駅西口)、港北区日吉や同区篠原町(菊名・妙蓮寺・新横浜あたり)、神奈川区白楽、磯子区磯子町などで、赤い屋根に白い壁などを特徴とする文化住宅が見られるようになった。

保土ケ谷にもそうした家は増えた。1938年ごろ、精神科医で歌人の斎藤茂吉は、東海道線の電車から見える保土ケ谷あたりの丘の上の住宅地の風景について、イタリアのようだと書いたという。

理想的田園住宅地ができていった

桜ヶ丘の耕地整理事業竣工記念碑桜ヶ丘の耕地整理事業竣工記念碑

また23年夏、現在の桜台小学校の地に、程谷小学校第二校舎が新築された。ところが関東大地震で壊滅。その後同地に町立の女子補修学校が新築された。やがて町立実科高等女学校ができ、同時に補修学校が家政女学校となった。それがその後、横浜市唯一の市立高等女学校のもととなった。

大震災の後、桜ヶ丘には次第に住宅が建てられるようになった。
29〜30年になると住宅が急増した。28年には市営住宅58棟が神戸上町の月見台と星川町の加賀山にまたがる桜ヶ丘に建設された。その後も良好な住宅が増え、「理想的田園住宅地」と見なされるようになった。

震災復興記念博覧会の一環として桜ヶ丘で開かれた花見の会

また35年3月から5月まで、震災復興を記念する「復興記念横浜大博覧会」が山下公園で開催された。その一環として桜ヶ丘では花見の会が開かれた。3000本の桜は樹齢が花の最盛期を迎えており、見事な桜が咲き、桜ヶ丘の花見は有名になった。

渋沢家による田園調布などのように歴史上有名な人物がつくった全国的に有名な住宅地ではなくても、大都市圏郊外の各地に、このような花咲く豊かな田園住宅地はつくられたのである。

参考文献:保土ケ谷区『保土ケ谷区史』1997年

桜が丘の桜桜が丘の桜

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