世田谷区の中心

世田谷区の中心はどこだろうか。成城学園、下北沢、二子玉川、三軒茶屋と代表的な住宅地や商業地があるが、地理的・歴史的にいえば世田谷区の中心は世田谷駅周辺である。つまり世田谷区役所のあるあたり。鉄道でいえば、あの地味でかわいいレトロな東急世田谷線沿線だ。

世田谷区は、かつて荏原郡世田谷村、池尻村、三宿村、太子堂村、代田村、上北沢村、
下北沢村、松原村、赤堤村、野沢村、深沢村、等々力村、上野毛村、下野毛村、瀬田村、用賀村、さらに多摩郡喜多見村、鎌田村、岡本村、大蔵村、烏山村、上祖師ヶ谷村、下祖師ヶ谷村などからなっていた。

その中で、世田谷村の中心は中世より世田谷城だった。今は区役所近くの世田谷城址公園のあるところで、武蔵吉良氏が居城とした。
豪徳寺近くに水色の下見板張りの洒落た洋風住宅があるなと思うと、憲政の神様・尾崎行雄邸であった。これは取り壊しの予定であるが保存運動も起こっているらしい(トップの写真)。

昭和初期の住宅地と新しいお店が混在昭和初期の住宅地と新しいお店が混在

豪徳寺はとても大きなお寺である

世田谷区役所世田谷区役所

城址公園の南東、駅でいうと上町のほうが少し近いが、そこに世田谷区郷土博物館がある。博物館は世田谷村代官の屋敷のあった場所で、かつての代官は世田谷区長を務めたこともある大場家である。博物館や代官屋敷の近くでは毎年有名なボロ市が開かれる。

城址公園の北、駅で言うと宮の坂駅近くには豪徳寺がある。小田急線の駅名としては誰でも知っているが、お寺の豪徳寺に行ったことがある人は少ないだろう。行ってみると広大な敷地を持つ大きなお寺である。

豪徳寺は、文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母の弘徳院のためにつくった庵が発祥で、寛永10年(1633年)、彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を整備した。だから幕末に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼大老の墓もここにある。

宮の坂の「宮」とは世田谷八幡宮であり、世田谷線の線路のすぐ西にある。世田谷線の線路にそって細い道があるが、これはおそらく鎌倉街道であり、このまま北上すると杉並の大宮八幡宮に通ずる。

このように、世田谷駅周辺は世田谷区役所があるからというのではなく、歴史的に世田谷村の中心であり、交通の要所とも言え、世田谷区の中心であると言ってもよい。

甲州街道は渋谷につながっていた!

ここにもう1つ、交通の要所であることを示す道がある。それが滝坂道である。豪徳寺の北側を東西に延びる道である。
実はこの道は江戸時代以前、つまり徳川幕府が新宿から甲州街道を整備する前は甲州街道だったのだ。今の甲州街道の、京王線つつじヶ丘駅近くの滝坂という坂の上から新宿に向かわずに小田急線の経堂駅を抜け、豪徳寺の北側を抜けて、渋谷・青山方面に向かったのである。

つつじヶ丘から環状七号線まで、滝坂道は細い道である。だが環状七号線の東側からは道が広がる。これが淡島街道である。淡島街道は下北沢と三軒茶屋の間を抜け、駒場を抜けて環状六号線(山手通り)まで続くが、また道が細くなる。この道は道玄坂の北側の道であり、実は円山町を貫通している。今はラブホテル街だが、かつては花街として栄えた円山町と世田谷とつつじヶ丘が結ばれていたのだ。

明治42年の滝坂道。左端が松原宿。真ん中の道が滝坂道。</br>
資料:陸地測量部『正式壹萬分壹地形図東京近傍拾九面』日本地図資料協会明治42年の滝坂道。左端が松原宿。真ん中の道が滝坂道。
資料:陸地測量部『正式壹萬分壹地形図東京近傍拾九面』日本地図資料協会

豪徳寺近くに宿場があった

豪徳寺北側の滝坂道には、昔「松原宿」という宿場があったという。松原は小田急線豪徳寺駅や梅ヶ丘駅の北側の地名であるが、そこから来た名前であろう。
滝坂道は豪徳寺北側のお地蔵さんのある角で北に折れ、しばらくするとまた東に折れて渋谷方面に向かう。世田谷城は北沢川と烏山川に挟まれた丘陵地にあるが、道がクランクするのは、先に述べた吉良氏が、敵が城をめがけて攻め込みにくくするためにわざとつくったのだそうだ。南北の道沿いにも少しクランクがあったのか、今でも道路が少しくねっている。

「松原宿」は宿場とはいえ、店が3軒ほどあっただけだという(せたがやトラスト協会『世田谷の古道に沿って』)。今は基本的には静かな住宅地である。
だが、そういう住宅地なのに滝坂道沿いには突然ビリヤード場があり、その向かいには宿屋風の作りの古い木造建築があるのがちょっと面白い。
1989年の住宅地図を見ると、ビリヤード場の近くにはサウナもあった。もしかしたらこれらは宿場町時代の性格を引き継いでいるものなのかもしれないと勝手に想像したが、真偽のほどはわからない。

お地蔵さんの角で曲がらずに東に進み坂を下りると、立派な屋敷がある。これが東京でも有名な地主の一族である宇田川家の屋敷である。庭の梅の木などが立派であり、たしかにここは梅ヶ丘にも近いとわかる。

住宅地らしくないビリヤード場とクランクした道が旧街道らしさを感じさせる住宅地らしくないビリヤード場とクランクした道が旧街道らしさを感じさせる

住宅地なのにビリヤード場があり、昔はサウナもあった

山下駅周辺の曲がりくねった道は烏山川の流域だったから山下駅周辺の曲がりくねった道は烏山川の流域だったから

ビリヤード場の向かいくらいには、ちょっと不思議なラーメン屋がある。住宅地にぽつんとあるのに客が並んでいる。私も食べてみたら、なかなかいい味だった。
店名が「りらくしん」といって全然ラーメン屋らしくないが、店のひさしのテントを見ると、元は焼き鳥バーだったらしい。「りらくしん」は、ジャズの帝王マイルス・デイヴィスのアルバム名から取られているようである。
この店も元はスナックかなにかではなかったかと思って、やはり住宅地図で調べてみたが、なんと電器店だった。なかなか想像通りにはいかないものである。
考えてみれば、滝坂道が甲州街道だったのは江戸時代以前だし、江戸時代も五街道のように栄えたわけではないのだから、そんなに宿場らしいものが残っているはずはない。

また、ネットで調べると、かつての宿場の要素は鉄道ができてからは小田急線豪徳寺駅や世田谷線山下駅(2駅はほぼ同じ場所にある)の周辺に移動したのではないかという仮説を立てている人もいる。たしかにありうる話だ。
山下駅から南北に延びる古道沿いは大正頃から商店街になったようであり、いまも結構にぎわいがある。山下という地名はおそらく烏山川に沿った低地、山の下という意味であり、その一帯にも飲食店などが多い。隣の経堂や梅ヶ丘の駅前と比べると庶民的で下町的に見える。

このように世田谷線沿線にはあまり知られていない歴史があり、なかなか奥深い魅力があるようだ。

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