大病をきっかけに漫画家を目指し、34歳でトキワ荘に入居
空き家を低家賃のシェアハウスとして貸し出し、漫画家になりたい若者を支援する「トキワ荘プロジェクト」。現在、東京都内には21軒のトキワ荘があり、100人以上の若者がプロデビューを目指して共同生活を営んでいる。
では、トキワ荘での暮らしには、どのようなメリットとデメリットがあるのか。3年前にトキワ荘に入居し、漫画家としてプロデビューを果たした中川学さんに、話を聞いてみた。
中川さんは北海道出身の37歳。北海道教育大学釧路校を卒業後、小学校の臨時講師になったが、その後はさまざまなアルバイトを経験した。29歳の時にクモ膜下出血で倒れ、「人間、いつ死ぬかわからない」と実感。学生時代から描いていた漫画で身を立てようと、2010年に上京した。
「ネットで安い物件を探していたとき、たまたま見つけたのがトキワ荘でした。トキワ荘は賃料が安い上に、保証人もいらない。周りは漫画家を目指している人ばかりなので、仲間もできると思い、トキワ荘に入居したんです」
34歳にして初めての東京暮らしだったが、入居先での人間関係にも恵まれ、漫画家修行は順調にスタートした。台所で他の入居者と会えば、「最近、仕事どうなの」と声をかけあう、和気あいあいとした雰囲気。風呂や台所をシェアするときに気を遣う以外は、とくに不便は感じなかったという。
トキワ荘のネットワークを通じて、夢を共有する仲間と出会えた
だが、全く問題がなかったわけではない。特に気になったのが、隣室の「音」と「匂い」だった。
「隣の部屋との仕切りはふすま1枚なので、音楽や電話の声がダイレクトに響いてくる。それで、ふすまの前に自分でダンボールの壁を作ったところ、音の悩みはかなり軽減されました。もう1つ気になったのが、食べ物の匂いです。ニンニク入りのラーメンなんかを食べて、いつまでも放置していると、強烈な匂いが漂ってくる。たまらず、『食べ物はすぐに片付けてください』とお願いしたこともあります」
快適な共同生活を営めるよう、共用部分の掃除やゴミ出しなどは入居者同士で役割を分担。トイレットペーパーやゴミ袋など、消耗品の補充はどうするか、費用をどう精算するかのルールも決めた。
何より、共同生活の不便さを補って余りあるメリットが、トキワ荘での暮らしにはあった、と中川さん。なかでも、トキワ荘のネットワークを通じて、夢を共有する大勢の仲間と出会えたことは、大きな財産になったという。
「トキワ荘の入居者の集まりで知り合った”友だちの友だち”から、仕事を紹介してもらったことも。仲間同士で作品について意見を言い合うので、自分の作品を客観的に見ることもできます。仲間が夜遅くまで起きていると、『僕も描かなくちゃ』と思うし、『新しい仕事、決まったのかあ。自分もこうしちゃいられない』という気持ちになれる。1人でアパートを借りてコツコツ描いていたら、こうはいかなかったと思います」
トキワ荘の忘年会での出会いが、プロデビューのきっかけに
池袋駅から最寄りの駅までは、電車で約15分。月々の家賃は光熱費・インターネット料金込みで4万2000円。管理費も不要なので、地元の賃料相場と比べるとかなり割安だ。このため、週の半分だけアルバイトをすれば、残り半分は漫画の執筆に当てることができた。
中川さんのトキワ荘ライフに転機が訪れたのは、入居後しばらく経った頃のことだ。ある地方出版社からの依頼で、Webサイトに漫画を描くことになった。ノーギャラではあったが「実績作りのため」と引き受け、そこで描いた作品を、トキワ荘プロジェクトの忘年会に来ていた編集者に見せた。
それがきっかけで、編集者のアドバイスを受けながら作品を描き続けることに。ついに2012年5月、コミックエッセイ『僕にはまだ友だちがいない 大人の友だちづくり奮戦記』(メディアファクトリー)を発表し、念願のプロデビュー。トキワ荘に入居して2年目のことだ。
この作品は、「孤独への不安から友だち作りを決意」した中川さんが、「人生を語り合える友」を作るために奮闘するノンフィクション。2013年1月にはNHK・Eテレの企画オーディション番組「青山ワンセグ開発」内で実写ドラマ化もされた。
「単行本の帯の言葉は、大好きな藤子不二雄A先生に書いていただきました。藤子先生は、以前、テレビの取材でトキワ荘に来られたことがあるんです。そのときのご縁で、引き受けてくださったんだと思うんですが……トキワ荘に住まなければ、絶対にありえなかったことですよね」
大切なのは、人と自分を「ほどほどに比較」すること
トキワ荘に入居して3年目を迎え、活躍の場を広げている中川さん。2013年10月には2冊目の単行本『群馬県ブラジル町に住んでみた ラテンな友だちづくり奮闘記』(メディアファクトリー)も発売された。
では、トキワ荘という環境をうまく活かせる人と、そうでない人にはどのような違いがあるのか。中川さんはこう語る。
「自分と周囲の人を比べすぎても、比べなさすぎても、うまくいかない気がします。大事なことは、他の入居者のがんばりを見て、『自分も頑張ろう』と思えるかどうか。他の人と自分と比較して落ち込むのもよくないし、逆に“我関せず”でだらしない方向に流れるようだと、トキワ荘に入った意味がない。自分と他人との距離感をいかにうまくとるかという、その塩梅が大切だと思います」
今後はフィクションや怪談漫画にも挑戦してみたい、という中川さん。来年いっぱいはトキワ荘で暮らし、漫画家としての基礎を固めたい、と抱負を語ってくれた。
これまで、トキワ荘に入居した若者は延べ260名以上。このうち、実際にプロデビューを果たしたのは32名と、全体の2割に満たない。中川さんを取材して感じたことは、「シェアハウスという環境を活かすも殺すも自分次第」ということだ。夢を共有する仲間との共同生活は、さまざまな刺激に満ちている。その刺激をプラスに変えられるかどうかは、1人1人の目的意識と心の持ちよう次第なのかもしれない。
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