「わっち」「ありんす」などの花魁言葉(廓言葉)はなぜ使われた?

2025年NHKの大河ドラマ「べらぼう」に登場する遊女たちは、「わっち」「ありんす」「しておくなんし」などと、花魁たちは独特な言葉遣いをしている。花魁が使うこれは「廓(くるわ)言葉」などと呼ばれるもので、遊郭内で使われる特殊な言葉遣いだ。

江戸時代の三大遊廓は京都の島原、大坂の新町、江戸の吉原とされる。
島原と新町は、豊臣秀吉が京都の二条柳町に創設した遊廓を、それぞれ島原と新町に移転したものだ。江戸の吉原は最後にできた遊廓で、江戸に幕府が置かれ、江戸の町を開発するために土木建築工事が盛んに行われていた時代からつくられた。全国から集まってきた働き手の男達を客とする遊女屋がたくさんできたのが原型だ。上方から移転してきた遊女屋も多かったらしい。吉原遊郭は最初日本橋にあったが、拡大し続けたことと、明暦の大火があったことを機に浅草の外れに移転し、新吉原と呼ばれた。江戸が栄えると遊女たちも増え、幕府は江戸の治安を安定させるために吉原を幕府公認の遊郭とした。

浮世絵などにも描かれた花魁や遊女浮世絵などにも描かれた花魁や遊女

では、何故、独特な言葉が使われたのだろうか?
遊女たちは、全国各地から売られてきたから、最初はお国言葉、つまり方言で話していた。
しかし遊郭は遊客たちにとって別世界であり、遊女たちは美しく着飾った天女のような存在で憧れられなくてはならなかった。天女が方言で話しては夢も醒めてしまうだろうと、遊郭内で使う特殊な廓言葉が生まれたようだ。

浮世絵などにも描かれた花魁や遊女江戸時代の遊郭の跡

小説や伝説などで違いがみえる遊女や娼婦に対する扱い

遊女に対する西洋との違いについて、元禄3(1690)年から二年間、出島に滞在したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルは、『日本史』に、「かかる娼妓にして公正なる市民と結婚するならば、彼女は自らその淪落失行に責任あることなく、教育も相当にあれば、通常の市民の間に伍して公正なる婦人と認めらるるなり」と、驚きをもって書いている。
遊女であっても、名目上は庶民と結婚すれば過去は不問にされること、また、遊女たちの多くはよく躾けられているため、無事に年季を過ぎたならば夫を得ることは難しくなかったことが、不思議に感じたようだ。

反対に、娼婦の登場する西洋の小説を読むと、激しすぎる差別意識があるのがわかる。
たとえばサマセット・モームの『雨』。伝染病の検疫で島にとどまっている人々の中に、娼婦のサディーと、宣教師のデイビッドソンがいた。デイビッドソンはサディーを「罪に満たされた女」と呼び、教会の権威をかさに、さまざまないやがらせをし、なんとしても教化しようとする。それはもうすぐ成功しそうに見えるのだが、物語はデイビッドソンの無残な他殺死体が発見されるところで、いきなり終わる。明確には書かれていないが、彼はサディーに暴行を加えようとし、「裏切り」に激怒した彼女に殺されたのだ。

モーパッサンの『脂肪の塊』を読むと、当時のさまざまな階級の人々が、娼婦をどのように見ていたのかよくわかる。舞台はフランスがプロイセンに占領されていた時代のフランス。占領から免れていたル・アーブルへ向かう乗合馬車に、商人、上流夫人、修道女、そして娼婦のエリザベートといったさまざまな職業、階級の人々が同乗していた。乗客たちはエリザベートを無視していたが、彼女がさまざまな料理をご馳走してくれたのをきっかけに、打ち解けるようになる。しかし途中でプロイセン軍に占領された村を通過せねばならず、プロイセンの士官は、エリザベートが自分と寝るならば出発を許可すると言い出す。愛国心の強いエリザベートはきっぱりと拒絶したが、どうしてもル・アーブルへ逃れたい乗客たちは、エリザベートをなだめすかして士官と寝ることを承諾させた。そのおかげで彼らは再び旅立つことを許されるのだが、一行はエリザベートを「敵と寝た娼婦」として汚物のように扱い、侮蔑するのだった。

モームもモーパッサンも、娼婦を差別する人間たちに疑問を呈しているわけで、決して娼婦への蔑視を肯定しているのではない。しかし、当時の西洋における、娼婦の待遇がひどかったことはよくわかる。

また、たとえば古代メソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』では、ギルガメッシュやその友であるエンキドゥを聖なる遊女たちが手助けしているし、そもそもメソポタミアの女神イナンナ(イシュタル)は娼婦の女神でもある。ギリシャ神話のアフロディテも娼婦の守護神ともされている。

国や宗教、時代により遊女や娼婦の扱いはさまざまなようだ。

物語や伝説の中の遊女と神女

江戸時代までの日本人は、遊女に対して、複雑な感情を持っていたようだ。
儒者の荻生徂徠は『政談』の中で「遊女・河原者の類を賤しきものとする事は、和漢・古今ともに同断也」と書いている。つまり「賤しきもの」と見る者もあったことは間違いがなさそうだ。

それでも、娘を売った親をとがめこそすれ、親に売られて遊女となった女性たちには罪がないというのが一般的な感覚だったようだ。井原西鶴の『好色一代男』では、世之介が、太夫の吉野を身請けして正妻にしようとしたところ、当初は親戚一同が大反対したものの、吉野の人柄や賢さを知った女性達が味方にまわり、二人の結婚を後押ししている。

さらに、「遊女は男を癒してくれる存在」として、そこに菩薩さえ見ることもあった。たとえば谷崎潤一郎の娯楽小説『乱菊物語』には、遊女が普賢菩薩の化身として登場する。書写山円教寺を開山したことで知られる性空上人が、なんとかして普賢菩薩を拝みたいと熱望していると、「室津の遊女・花漆に会いにいけ」と夢のお告げがくだるのだ。
室津は古くから遊郭のあった場所で、素直な上人はいそいそと室津へ行き、花漆を座敷に呼ぶのだが、花漆が菩薩に見えて仕方ない。目をつむると目の前にありありと普賢菩薩が現れたので、すがろうとしたところ、その姿はふいと消えてしまった。これは小説だが、室津には同じ筋書きの伝説が残されている。

また、『一休関東咄』には、一休和尚が、大坂堺の遊里で、地獄太夫と歌を詠みあったエピソードが記されている。地獄大夫が「山居せば 深山の奥に 住めよかし ここは浮世の さかい近きに(山の奥に住むならともかく、なぜこんな俗世にいるのですか)」と詠みかけると、一休は「一休が 身をば身ほどに 思わねば 市も山家も 同じ住処よ(私がこの身をなんとも思わなければ、俗世も山奥も同じだ)」と答えるのだ。
このやりとりを経て、一休は、「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」と、太夫を讃嘆している。

そもそも、地獄大夫のいたとされる乳守遊郭の遊女は、神女由来とされる。
日本書紀に三韓を征伐した女傑として登場する神功皇后は、凱旋ののち、自分を守護してくれた海神を住吉の地に祭るのだが、その際、長門国から連れてきた神女たちを田植え女として奉仕させた。そしてその後、神女たちは乳守で遊女になったというのだ。だから、住吉大社の御田植神事では、現在も新町の芸妓が植女を務めている。

文学や神話などの中では、遊女の扱いも様々だ文学や神話などの中では、遊女の扱いも様々だ

「もてる」という言葉は本来、「遊女に丁重にもてなされる」の隠語

江戸町人たちは、遊郭に対して憧れに近い感情をもつこともあったようだ。
洒落本の『旧変段』には、人々が「引すり」を履いたり、「ぴんほん」で遊んだりして、遊郭の風俗を真似する様子が描かれている。引すりは遊郭の少女が履く高下駄のことで、「ぴんほん」は「ぽひん」あるいは「ポピン」「ポッペン」とも呼ばれる、遊里の玩具だった。薄いガラスでできたフラスコ形のおもちゃで、管を吸うと「ポピン」と音が鳴る。

また、訪れる客が、遊郭でのみ通じる隠語を使うことがあった。
たとえば「もてる」という言葉は本来、「遊女に丁重にもてなされる」の意味だ。遊女たちは、複数の客をかけもちしなくてはならなかったので、一人ひとりにしっかり向き合うのが難しかった。そんな中でも丁寧に接待されたときには、「もてた」と自慢したわけだ。

遊郭の客の中には自分たちの知識を誇示するごとく、異国言葉を使うこともあった。特に侍を「スウクワン」、職人を「コンプウ」と呼ぶなど、中華言を使う者も多かったが、遊女たちにはあまり喜ばれなかったようだ。

浮世絵にも描かれた遊女。ポッペンを吹いている浮世絵にも描かれた遊女。ポッペンを吹いている

遊郭で使われる廓言葉の語尾や表現

廓言葉は、時代とともに洗練されていく。
たとえば現代では上品に使われると思われる「ざます」という語尾は、天保時代の後期に実は江戸吉原で花魁が使った言葉で、「ござんす」が変化したと考えられる。

言語学者の真下三郎博士は、「~んす」という独特の語尾は京都島原で生まれたとし、「遊郭の女性が客と遊楽する際に、ことばにはいりやすい『ん』と、ことばの終末を示す『す』とを合して、一つの語尾の表現として戯れに使い出したことに起因するのではないかという仮説が考えられる」と書いている。
「~しやる」は「~しやんす」、「~ある」は「~ありんす」、「~くださる」は「~くださんす」といった具合だ。

「~わ」「~だわね」「~しますもの」といった語尾も遊郭由来だが、遊郭への一種の憧れから、町人の娘たちも使っていたらしい。
たとえば梅暮里谷峨二世作のに人情本『春色連理の梅』でも、登場人物の菊が「然だわネ。又まさかあんなひとたちだからといツて、わけもなくどくづきもしますまひ」などと、廓言葉を使っている。

遊女が初めて客と床を共にすることを「水揚げ」というのは、船から商品を降ろして店頭に出すことにたとえたものだとされる。
遊女の揚げ代を「はな代」と呼ぶのは、遊女を花にたとえた優雅な廓言葉。
また、年季が開けても夫をもてず、遊郭に残ることを「お茶を挽く」と表現したのは、人気のない遊女が、客のいないときに茶を挽かされていたことに由来するらしい。

廓言葉は実は現代にもその流れがみえる言葉がある。
たとえば、親友を「マブダチ」と呼んだりするが、これは遊女たちが、本命の男を「間夫」と呼んだことからきている。「野暮」は気の利かないふるまいを指すが、本来は遊郭の事情をよくわかっていない、センスのないダサい客につかう言葉だった。
常連客を「馴染み」と呼ぶのも遊郭由来。また、「手練手管」は、客に嘘偽りの誠実さをみせてまどわす遊女を「手練者」と呼んだことからきている。さらに、好意をもつことを「なびく」と表現するのも、遊郭が発祥だ。鮨屋などのお茶を「あがり」というが、遊郭で最後に出すお茶のことを「あがり花」といっていたことに由来するようだ。

遊郭の遊女たちは、過酷な労働を強いられたし常に性病の危険にさらされており、短命の者も多かった。
しかし、遊女が存在したからこそ生まれた文化もあり、言葉にも残っているように今日の私たちもそれを受け継いでいるものもある。

現代の一般社会でも使われる花魁たちが使っていた廓言葉も少なくない現代の一般社会でも使われる花魁たちが使っていた廓言葉も少なくない

■参考
理想社印刷所『遊里語の研究』真下三郎著 1966年3月発行
論文『近世後期上方における遊里語のあり方』村上謙
論文『日本の女性語を形成する〈上品系〉と〈フェミニン系〉―町娘から女学生へと継承された話しことばの系譜―』塹江美沙子
有志社『遊女の社会史 島原・吉原の歴史から植民地「公娼」制まで』今西一著 2007年10月20日
創拓社『あそばせとアリンスと 江戸の女ことば』杉本つとむ著 1985年10月発行

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