織姫と牽牛ゆかりの「七夕伝説」
「星のまち」としても知られる交野市から枚方市にかけては、七夕伝説があり、市内には天野川が流れ、織姫と牽牛ゆかりの地も残っている。しかし、そもそも織姫と牽牛の物語は中国由来だったはずだ。そのゆかりの地が、なぜ大阪にあるのだろう。
織姫と牽牛の七夕物語は多くの人が一度は耳にしているに違いない。
織女と牽牛は恋人同士だったが、恋にうつつを抜かして仕事を怠けるようになったため、崑崙山を統べる仙人であり、織女の母でもある西王母が天の川で二人を遮ってしまった。しかし二人があまりにも悲しむので、7月7日の夜だけはカササギが橋を渡し、二人の逢瀬を助けたのだ。
中国に伝わる伝説は、道教、儒教、仏教の思想によるものが入り交っているが、七夕神話は道教の物語で、琴座のベガは裁縫を司る星、わし座のアルタイルは農業を司る星とされる。この二つの星とはくちょう座のデネブを合わせて「夏の大三角」と呼ぶように、北半球では夏によく見える星だ。夏にはベガとアルタイルの間に流れる天の川もくっきり見えるので、この神話が生まれたのだろう。
大阪北部に多い織物にまつわる神社
交野市や枚方市ではないが、同じ大阪北部にある池田市の呉服(くれは)神社や穴織(あやは)神社、豊中市の服部神社は、平安時代の『延喜式』に記載された古社で、織物と深い関係がある。
『日本書紀』には、雄略天皇の時代に呉国から織姫が渡来したとある。
「(雄略天皇が即位して)十四年春一月十三日、身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎(たなすえのてひと・織物や縫物の職人のこと)、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)・衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊った」と書かれており、その後、漢織と呉織は織物の技術を日本に広め、飛鳥衣縫部(あすかのきぬぬいべ)と伊勢衣縫(いせのきぬぬい)の始祖となったという。
呉服神社の祭神は呉綾織(くれあやはとり)大神で、穴織神社の祭神は穴織(あやはとり)大明神と、雄略天皇の時代に渡来した織姫を祭神としているのがわかる。そして服部神社は諸国の織部を総領した『服部連』の本拠地と伝わるから、大阪の北部が古来織物に深いかかわりがあったと推察できる。
穴織神社のお旅処は「星の宮」「星の御門」と呼ばれ、不思議な伝説が残る。漢織と呉織が夜遅くまで織物をしていると、星たちが天から降りて来て、二人を照らしたというのだ。星の宮の祭神は「明星(みょうじょう)大神」で、織姫たちを照らした星すべてが信仰の対象だ。
交野市にも機物神社が鎮座する。
いつごろ創建されたかはわからないが、室町時代の記録に残っているので、それ以前だろう。祭神は天棚機比売大神で、織物の女神だ。
交野市や枚方市だけでなく、大阪北部には星と織姫の伝説が数多く残っているのがわかるだろう。ただしそれらは二つの星の恋物語ではなく、「織姫と星」あるいは「織姫を助けた星」のエピソードで、恋物語というより職人の物語だったようだ。
交野や枚方と星の関係
大阪の北部は星に関わる地名や寺社も多い。
交野市には星田の地名が残り、星田神社や星田妙見神社が鎮座する。交野市より西よりだが、能勢妙見山の山頂にある妙見堂は天平勝宝年間(749~ 757年)に行基が建立したとされる歴史のある寺院だ。ちなみに「妙見」は北極星あるいは北斗七星を神格化した呼び名で、当然星と関係が深い。
なぜこの地に星に関わる伝説や寺社が多いのかはわからない。そもそも日本には星信仰がなかったとするのが定説だ。太陽の神アマテラス、月の神ツクヨミは記紀神話に登場するが、星の神として紹介されているのは後述するカカセオだけで、「悪神」とされる。住吉三神や宗像三女神がオリオンの三ツ星だとする見解もあるが、積極的に肯定されてはいない。
しかしたとえば岡山市北区真星に鎮座する星神社は、空から落ちてきた三つの星を神として祀っているし、広島県福山市の淀媛神社にも、隕石と伝えられる三つの石が祀られており、昔の日本人が星に神秘を感じていなかったとは考えにくい。
すばる星は農業とも深い関係があり、南中するころが蕎麦の種の撒き時、すばる星が宵に出るころは稲刈りの時期とする地域もある。
船乗りにとっては星が身近だった。日本の操船は「山立て」で、山や岬を目印にしていたとされるが、夜間にも星をまったく頼りにしなかったというのは不自然だ。「冥王星」の和訳命名者としても知られる天文民俗学者の野尻抱影氏は、とある老船頭が真闇の玄海や周防灘を夜通し不眠不休で航海するときは、舵づかを握ってネノホシ(北極星)とシソウノホシ(北斗七星)ばかりを見ていたというエピソードを紹介している。北斗七星を「四三(しそう)のほし」と呼ぶのは、ただ星を四つと三つのかたまりに分けられるからというのではなく、サイコロを振って四と三が出たときに「しそう」と呼ぶことから出ているのではないかとの考察もあり、博打が好きな船乗りと、このネーミングとの関わりにも触れている。
交野市私市には、アマテラスの孫にあたるニギハヤヒが磐船に乗って天下ったとする磐船神社も鎮座するから、交野市や枚方市をふくむ大阪北部は、「空」と強く結び付けられた土地だといえないだろうか。
織物と星の悪神
それにしてもなぜ、織物と星なのだろうか。
両者の関わりを感じさせる神話が『日本書紀』に残されている。
アマテラスの孫であるニニギが、葦原中国(日本の国土)に天下るに際し、土着の神々を征服せねばならなかった。最初に従ったのがオオクニヌシだ。そのためにスパイとして遣わされたのがアメノワカヒコ。しかし彼はオオクニヌシの娘のシタテルヒメを妻にして寝返ったため、殺された。その後、武神のタケミカヅチとフツヌシが、出雲を制圧。その後、日本中の土着の神々を征服してまわるのだが、最後まで従わなかった神がいた。それが星の神、カカセオだ。しかし新たにタケハヅチが遣わされると、カカセオも従った。タケハヅチは別名を倭文神ともいう通り、倭文織(しずおり)の神だ。なぜ、武神を恐れなかった星の神が、織物の神には従ったのか、何も説明されていない。
日本の七夕(織物と星)
日本の七夕(棚機)物語は、雨乞いのためにアメノワカヒコの妻となった娘の物語だが、過去の記事におおまかなあらすじを紹介したので(「実は七夕はお盆と関連が深かった?日本古来の七夕の意外な事実」)、気になる方は参照していただきたい。
記紀神話では、アメノワカヒコの妻はオオクニヌシの娘であるシタテルヒメとされる。アメノワカヒコは裏切り者として高天原の神々に殺され、葬儀が行われる。シタテルヒメの兄であるアジスキタカヒコネも葬儀に参列するが、彼はアメノワカヒコとそっくりな顔立ちをしていたので、遺族たちはアメノワカヒコが生き返ったものと勘違いしてしまった。当時、死は大きな穢れであり、死者と間違えられたアジスキタカヒコネは怒って立ち去るのだが、シタテルヒメは歌を詠んでアジスキタカヒコネの名を遺族たちに知らせた。
「天なるや 弟棚機のうながせる 玉の御統(みすまる)、御統に あな玉はや みたに二わたらす アジスキタカヒコネの神そ」
現代語訳すれば、「(あの方は)天で暮らす若い織姫の首にかけられたような玉の飾りの中でも、特に大きな玉のような方、谷二つを同時に渡る光のようなアジスキタカヒコネの神です」といった意味になろうか。弟棚機は若い織姫、「みすまる」は玉飾りだけでなく、スバル星をも意味する。
記紀神話を見る限り、日本の七夕(棚機)も、星や織物と深い関係があったらしい。そうであるならば、星と織物の伝説を数多く持つ大阪北部は、中国の七夕物語を受容しやすい素地があったといえるだろう。
天野川をはさみ、機物神社と対峙する中山観音寺跡には「牽牛石」と呼ばれる石がある。いつごろからそう呼ばれるようになったかはわからないが、空の上の織姫と牽牛を、地上に移したかのごとくだ。昔の交野の人たちは、中国の伝説を取り込み、わが村の話として楽しんだのだろうか。ならば、あまりの詮索は無粋かもしれない。
■参考
中央公論新社『日本の星』野尻抱影著 2002年8月発行
講談社『日本書紀』宇治谷孟訳 2001年2月発行
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