奈良の「ひむろしらゆき祭」と「純氷道中」
奈良の初夏の風物詩として定着しつつある「ひむろしらゆき祭」。
日本各地から有名かき氷店が参加するので、さまざまな趣向をこらした氷を食べ比べできると、特に女性たちに人気だ。祭の日ばかりではない。奈良市の中心地であり観光地でもある「ならまち」にはかき氷の店が多数あり、冬でも行列ができるほどだ。
2014年から始められた「ひむろしらゆき祭」では、奈良時代に各地の氷室から平城宮まで氷を運んだ故事にちなむ「純氷道中」も催行されている。
純氷道中では氷室神社(奈良市春日野町1-4)の神官が先導し、天平衣装を身にまとった女官たちが、72時間かけてゆっくり凍らせた「72時間純氷」を春日野国際フォーラムに運ぶという。
春日野国際フォーラムは、御蓋山山頂を遥拝する四恩院が建てられていた場所で、公式サイトによると、ここにはかつて氷池があったのだとか。それにしても「氷室」も「氷池」も、一般には聞きなれない言葉であるが、どのようなものだろうか。
春日野にあった「氷室」「氷池」
クーラーや冷蔵庫のなかった時代には、夏に少しでも冷たいものを飲んだり食べたりするために、さまざまな工夫をした。
その一つが井戸水だ。地中の温度は年中ほぼ一定しているから、井戸の水は夏には冷たく、冬には温かく感じられる。そこで暑い日には井戸水を飲んだり、スイカを浸けて冷やしたりしていた。江戸時代になると、少し贅沢ができる家ならば、味醂を焼酎で割ったお酒を竹筒などに入れて井戸に浸け、晩酌したりしていたらしい。このお酒を関西では「柳陰」、江戸では「本直し」と呼ぶ。
しかし公家たちは、もっと贅沢に氷を楽しむこともあった。
清少納言は『枕草子』第四十二段に「あてなるもの。薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、新しきかなまりに入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる」と書いている。「あてなるもの」とは高貴なものという意味。その一つとして挙げられた「削り氷にあまづら入れて、新しきかなまりに入れたる」は、現代のかき氷のようなものだろう。"あまづら"はナツヅタの樹液を煮詰めたもので、江戸時代に砂糖が安定して作られるようになるまでは、甘味料として重用されていたようだ。芥川龍之介の短編小説「芋粥」も、山の芋をあまづらで煮た粥だと説明している。
それにも増して、冷蔵庫のない時代に夏まで氷を保存するのは大変難しく、氷は一部の公卿しか口に出来なかった。氷を保存するための暗冷室を「氷室」、氷室に収める氷を作る池を「氷池」と呼ぶ。つまり、その氷室と氷池が、春日野にあったというわけだ。
氷室神社の「献氷祭」
神社が伝える由緒によれば、和銅3(710)年7月22日に、元明天皇の勅命により平城京の東にある、春日の御蓋山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし、冷の応用を教えられたのが氷室神社の創建時とある。
この年に平城遷都が実施されているから、朝廷の公式史書である『続日本紀』には各地の守護が任じられたことなどが記録されている。しかし氷室神社に関する記述はなく、客観的な裏付けはないのだが、春日野といえば藤原氏の氏神である春日大社・氏寺の興福寺がある場所だ。権勢を極めた藤原氏が氷室を持っていた可能性は十分あるだろう。
奈良の氷室神社では、毎年5月1日に献氷祭が行われている。神社の公式サイトによれば、氷室があった場所は荒池や鷺池を望む浅茅ヶ原一帯と推定されており、氷の神を祀り、春迎え、豊作祈願の祭などが行われていたようだ。「献氷祭」とは、高さ1メートルの氷の柱を奉納し、氷を扱う商売が繁盛することを祈願するものだ。かつては、6月1日に行われていた。
そもそも「献氷祭」の行われる6月1日は「氷の朔日」と呼ばれ、宮中では公卿らが氷を食べる「氷室の節会」が開かれていた。江戸時代にも宮中あるいは将軍家が氷を食べていたが、庶民にとって夏の氷はとうてい手の届くものではなかった。そこで氷のかわりに正月の鏡餅を氷餅として保存し、この日に食べる風習もあったようだ。「氷餅」は、餅を水に浸して凍らせたのち、寒風にあてて乾燥させたもの。「凍み餅(しみもち)」とも呼ばれる。水でもどしてから焼いて食べたり、細かく砕いて炒って食べたりするのだが、氷の朔日に氷餅を食べると、体が剛健になるとも信じられたのだ。
氷室神社の献氷祭がいつごろから始まったかは定かではないが、現在は全国各地の製氷・販売業者が参列し、その年の業績成就を祈願する祭として知られている。かつては6月1日に開催されていたが、この時期は製氷業者にとって繁忙期にあたるので、5月1日に変更されたらしい。
日本書紀に書かれている「氷室」
氷室が公に知られるようになったのは、『日本書紀』によれば仁徳天皇の御代だという。
仁徳天皇の異母兄弟にあたる額田大仲彦皇子が闘鶏(つげ・現在の奈良市都祁地区)で狩りをしていたとき、山の上から野を見下ろすと、質素な小屋を見つけた。使者を遣わして調べさせると室だとわかったので、この土地の支配者である闘鶏大山主に尋ねると、「あれは氷室というもので、一丈(約3m)あまり土を掘り、その上を萱で葺き、さらに茅とススキを分厚く敷いて、その上に氷を置けば、夏を越しても溶けません。暑い時期にその氷を水酒に氷を浮かべるのです」と答えた。
そこで額田大仲彦皇子がその氷を仁徳天皇に献上したところ、天皇は大喜び。次の年から、師走になると必ず氷を納め、春分になるとその氷を取り出して配ったのだという。都祁からすぐ近くに福住氷室神社が鎮座しており、日本書紀に登場する氷室はこの地あたりにあったとされている。
春日野の氷室神社も、福住の氷室神社も、祭神は闘鶏大山主と仁徳天皇の別名である大鷦鷯命、そして額田大仲彦命だから、日本における氷室の歴史において、この三人は重要人物といえるだろう。
これから夏にかけてどんどん暑くなっていく時期だ。古式よろしく氷の朔日にかき氷を食べ、今年一年の健康を祈ってみるのもよいだろう。
■参考資料
講談社『日本書紀』宇治谷孟訳 1988年8月発行
講談社『続日本紀』宇治谷孟訳 1992年6月発行
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