独自の遺伝子型を持つという、奈良公園の鹿
2023年1月31日、福島大学・山形大学・奈良教育大学が連名で、「『奈良のシカ』の起源に迫る―紀伊半島のニホンジカの遺伝構造とその形成過程―」と題したプレスリリースを発表した。
これによると、奈良公園と紀伊半島各地のニホンジカの遺伝子解析を実施した結果、奈良公園の鹿は周辺地域の鹿と近縁ながら、独自の遺伝子型を持つ集団であることが判明したらしい。
詳細に資料を見ると、共通のニホンジカの祖先集団から、約1400年から1000年前に奈良公園のニホンジカ集団が分岐し、約500年前に紀伊半島西部の集団が分岐したと考えられるという。紀伊半島東部のニホンジカは先祖集団そのものの遺伝子型を維持しており、西部集団と交雑を繰り返してきた。しかし奈良公園のニホンジカ集団は他の地域と一切交雑しておらず、周辺集団との交流がないと推定されたのだ。
「肉」の訓読みは「にく」ではなく「しし」だが、古来日本人に「しし」と呼ばれた動物が2種類ある。「猪」と「鹿」だ。縄文時代から、猪と鹿は人間にとって重要なたんぱく質源だった。またニホンオオカミが存在した時代、ニホンジカは恰好の獲物となったため、地域によっては絶滅寸前にまで追い込まれ、奈良周辺のニホンジカ集団は1000年以上消滅状態だった。そういった環境の中、奈良公園のニホンジカが消滅を免れたのは、人間が信仰の対象として大切に保護したからだと考えられる。
奈良公園の鹿は独自の遺伝子型を持つ集団であることが判明したという奈良公園の鹿が信仰の対象になったわけは？
それではなぜ、奈良公園の鹿は信仰の対象とされたのだろうか。
日本において、645年は大化元年。「大化の改新」が起きた年だ。大化の改新とは『日本書紀』によれば、朝廷をないがしろにし、権力をほしいままにしてきた蘇我入鹿が、中大兄皇子と中臣鎌足（藤原鎌足）に暗殺された。その後、中大兄皇子と鎌足は、朝廷の地位を確立させていく。鎌足は臨終に際して藤原姓を賜り、藤原氏の始祖となった。その後藤原氏は絶えず朝廷の側に仕え、重用されている。
藤原氏の祖神といえばアメノコヤネノミコトで、春日大社や日本中の春日神社に祀られている。
春日大社が創建されたのは神護景雲二（768）年だから、藤原鎌足の死から100年近く後のことだが、藤原氏の地位を明確にしようとする意図もあった。
アメノコヤネノミコトとその妻であるヒメガミだけでなく、藤原氏とゆかりの深いタケミカヅチノカミやフツヌシノミコトも合わせて祀られた。タケミカヅチノカミの本拠は茨城県の鹿島神宮、フツヌシの本拠は千葉の香取神宮で、タケミカヅチノカミは神鹿に乗ってやってきたと伝わる。それが奈良公園の鹿の祖先だというのだ。
これはあくまでも春日大社に伝わる神話ではあるが、今後もし鹿島神宮周辺のニホンジカに、奈良公園のニホンジカ集団が独自に有する遺伝子型が発見されれば、また新しい話題になるかもしれない。
また、春日大社一帯の春日野には、少し趣向の違う伝説が残る。
大和史蹟研究会が昭和34年に発行した『大和の伝説』によると、春日の最初の主は聾者だったという。タケミカヅチノカミが常陸からやってきて、「この山野を三尺（約1ｍ）借りたい」と申し込んだところ、気の良い春日の主はよく聞こえなかったにも関わらず、「よいともよいとも」と快く承諾した。
しかしタケミカヅチノカミは春日野全体を取り上げてしまう。慌てた春日の主が抗議すると、「三尺といったのは面積のことではなく、この山野の地下三尺という意味だ」と言い張って返さなかったという。居場所をなくした春日の元の主は、桜井のあたりを遍歴し、現在は春日大社の境内摂社である榎本神社に祀られているともされる。彼はタケミカヅチノカミを乗せてきた神鹿について、どう思っていたのだろうか。
春日大社の本殿『日本書紀』に登場する鹿にまつわる神話
日本人にとって身近な動物であった鹿は、さまざまな神話に登場する。
『日本書紀』の仁徳天皇条と、「摂津国風土記逸文」には、ほぼ同じ話が見える。
摂津国風土記逸文によれば、兎我野には夫婦の鹿が棲んでいたが、雄鹿は淡路の野島に妾がいて、本妻より仲が良かった。雄鹿が本妻と共に寝た夜、不思議な夢を見る。眠る雄鹿のうえに雪が積もり、ススキが生えるのだ。夢の内容を聞いた本妻は「あなたの体に薄が生えるのは矢が背中に刺さる予兆です。そして雪が積もるのは塩を塗られる予兆でしょう。次に野島に行けば、あなたは射殺されてしまいます。決して行ってはなりません」と夢判断をした。しかし雄鹿は妾が恋しくて堪えられず、野島へ渡ろうとして狩り人に狩られてしまったという。この神話はよく知られていたようで、「夢野の鹿」は、気にしていたことが予感通りになることの喩えとして使われる。
仁徳天皇には、鹿にまつわるエピソードが複数ある。
晩年になって自らの陵地を決めた帰り、野から鹿が走り出て来ていきなり倒れて死んだので、死体を調べさせると、耳から百舌鳥が飛び去ったという。百舌鳥が鹿の脳みそを食い荒らしたのが死因だったのだ。その地は現在の「中百舌鳥町」である。
アイヌ神謡には、ミソサザイの神（トリシポッ）が、暴れ熊の耳から頭の中に飛び込み、脳みそを食い荒らしてこれを倒す話があるから、どちらかが原話かもしれない。ただし、アイヌ神謡はもっとも小さいミソサザイがもっとも勇敢であるというエピソードである。
春日大社の鳥居と奈良公園の鹿奈良公園の鹿にまつわる行事
奈良公園の鹿はあくまでも野生だが、一般財団法人奈良の鹿愛護会によって保護されており、イベントが開催されることがある。年間を通じて体験できるのは「鹿寄せ」だ。予約をすると、飛火野でナチュラルホルンが吹き鳴らされ、鹿たちが音に誘われて集まってくる。有料だが、収益は鹿の保護活動に活用されるので、興味のある方は体験してはいかがだろう。
10月の初旬には、鹿苑で鹿の角きりが開催される。
まずは安全祈願が行われ、赤旗を持った勢子たちが雄鹿を追い込む。そして縄をつけた「十字」と呼ばれる捕獲具を角に投げて鹿を捕まえると、神官役により角が切り落とされる。角を切られた鹿は可哀想にも見えるが、鹿の角は主に雌にアピールするためのもので、藪に引っ掛かれば身動きがとれなくなり、求愛の季節以外はむしろ邪魔になる。奈良公園の場合、樹木保護の意味が大きいようだ。また、角には神経が通っておらず、切っても痛くないので安心してほしい。
6月には子鹿の公開があり、その年生まれたばかりのバンビたちの可愛らしい姿を観察できる。
奈良公園の鹿寄せ。ホルンで鹿を呼び、ドングリを与える奈良公園といえば、観光客が鹿せんべいをあげる光景を目にする。
鹿せんべいを買った途端、待ち構えていた鹿に囲まれてしまい、逃げる観光客をよく見かけるが、鹿は「この人はせんべいをくれない」と認識すると、素直に追いかけるのをやめる。だから、ポケットでもカバンでもいいから、購入したせんべいはすぐにしまおう。
そのうえで両手を見せれば、鹿たちは「この人は持ってない（今はくれない）」と、離れていく。鹿の注目がなくなったら、カバンの中、あるいはポケットの中で、せんべいを束ねている紙をとる。この紙は鹿が食べても害がない素材でできているから、せんべいにくっついている紙はそのままでかまわない。そのうえで「この鹿にあげよう」と決めたターゲットに近づく。
気の弱い鹿は、人間が近づいてくると逃げるので、ある程度の距離まで近づいてせんべいを差し出すと、鹿の方から寄ってきてくれる。ただし、人が接触した子鹿は、母鹿に育児放棄される場合もあるから必要以上に近づかないよう注意してほしい。せんべいがほしくて何度も頭を下げる鹿に、余裕と慈愛をもって、動物との関わりを、楽しんでほしい。
■参考
A historic religious sanctuary may have preserved ancestral genetics of Japanese sika deer(Cervus nippon). （歴史的な宗教保護地区がいにしえのニホンジカの遺伝子系統を守ってきた）
https://academic.oup.com/jmammal/advance-article/doi/10.1093/jmammal/gyac120/6987841
岩波文庫「アイヌ神謡集」知里幸惠編訳 1978年8月発行
鹿せんべいを見せるとたくさんの鹿がよってくる公開日:
