街の変化を見続けてきた銭湯、長屋に光
北区滝野川、旧中山道から一本入った路地に道幅にふさわしくないほど堂々とした建物がある。東京の銭湯は社寺のような外観、通称宮造りで知られるが、滝野川稲荷湯(以下稲荷湯)はその典型。正面入り口の上には入母屋屋根、その上に唐破風、さらに千鳥破風と三段の構えとなっており、実にクラシカル。その風情を生かし、2012年には古代ローマの浴場と現代日本の風呂をテーマとした漫画「テルマエ・ロマエ」の映画化でローマ人浴室設計技師の主人公が最初にタイムスリップする銭湯として登場している。
稲荷湯のこの土地での創業は1913(大正2)年。建物は1930(昭和5)年築だが、創業から考えると稲荷湯は100年以上この地にあったことになる。そして、稲荷湯の創業時は旧中山道沿いの風景が大きく変わり始めた時期でもある。
もともとは街道沿いに江戸の市場と農村を行き来する人を対象に種苗を売る商売が栄えていた地域で、通りからすぐ裏手には田畑。商家はあるものの、のどかな雰囲気の場所だったはずだが、大正末期から昭和初期にかけて滝野川では急激に都市化が進む。滝野川から北東方向、王子駅周辺から荒川にかけての地域に印刷、紡績、兵器その他の工場が進出し、周辺の農地はそうした人たちのための宅地に変わっていったのである。
当時の賑わいを象徴するものが稲荷湯の隣に建っている、2022年に修復された二軒長屋である。旧中山道沿いに建っていたものだが、映画館建設のために取り壊されることになっていたところを当時の稲荷湯の店主が引き取って敷地内に移築。その後現在の場所に曳家したという。現在の旧中山道から映画館があったほどの賑わいを想像するのは難しく、隔世というのはこういうことなのだろう。
以降、長屋は銭湯の従業員の住まいなどとして使われてきたというが、修復以前には誰も住まなくなって久しかった。戦災には遭わなかった稲荷湯周辺だが、社会はその後、高度経済成長、バブル期などを経て大きく変化してきたのである。
稲荷湯にカメラを向ければその変化が一目で分かる。稲荷湯周辺の路地は昭和初期からほとんど変わっていないが、その周辺、幹線道路沿いにはマンションが立ち並び、稲荷湯を包囲するかのよう。住まい、暮らし、社会が大きく変わってきた中にあって長屋はその使命を終え、使われないままに忘れられ、打ち捨てられていた。稲荷湯本体も含め、そこに変化が起き始めたのは2018年のことである。
文化財登録、海外からの助成で修復再生が決定
稲荷湯の修復再生を手がけた一般社団法人せんとうとまちの代表理事 栗生はるかさんが稲荷湯を訪れたのは北区内の銭湯全軒取材時。そこで建築調査を提案したことから、より良い姿で銭湯の存続を図る模索が始まった。
最初に行ったのは国の登録有形文化財への申請のサポート。文化財を専門とするせんとうとまちの理事・牧野徹さんを中心に学生と建築図面を起こし、稲荷湯四代目ご当主、創建に関わった棟梁のご子息などにヒアリング、申請を行った結果、2019年12月には銭湯としては都内二軒目の登録有形文化財として答申を受けた。隣接の長屋もこの時に併せて申請、文化財として認定されている。ちなみに銭湯一軒目の登録有形文化財は台東区・御徒町の燕湯、三軒目は杉並区・高円寺の小杉湯である。
続いては実質的な支援を得るために世界中の危機的建造物などに支援を行っている「ワールド・モニュメント財団(以下WMF)に申請を行った。銭湯の文化的、社会的価値や今後の可能性を「稲荷湯修復再生プロジェクト」としてせんとうとまちの理事の一人でアメリカ出身のサム・ホールデンさんと共に英語でまとめ、それをもっての申請である。
「WMFでは2年に一度、危機的な文化遺産を選定するウォッチリストを発表しており、稲荷湯は世界中の250件以上の申請の中から2020年版『ワールド・モニュメント・ウォッチ』リストの25件に選ばれました。同時に選ばれているものとしてはパリのノートルダム大聖堂、ペルーの空中都市・マチュピチュ周辺の景観などがあり、稲荷湯はそうした世界遺産レベルと肩を並べるモノといえるわけです」と栗生さん。
認定翌年にはWMFを通じてアメリカン・エキスプレスから約20万ドルの助成が決定。銭湯の脱衣所や外構など本体の修復・耐震補修工事に加え、稲荷湯に付属する長屋を地域サロンに再生する計画が実行されることになった。
銭湯とまちのクッションとなるスペースを作る
このうちでも珍しいのは長屋の再生だろう。日本の文化財は多くが立派な建物である。普通の人が暮らした長屋のような建物にスポットライトが当たることは少なく、保存修復という動きもあまり聞かない。その意味では建てられた当時はごく普通の住宅だった稲荷湯の長屋保存には意味があるのではないかと思う。
改修にあたり、目指したのは銭湯とまちのワンクッションとなるスペース。江戸時代の湯屋(銭湯)はさまざまな世代、立場の人が日常的に利用し、現在よりもコミュニティ拠点として機能していたと栗生さん。また、男性客専用ではあったが2階に広間があり、飲食や会話、囲碁将棋などが楽しめ、それが地域の情報センターとなっていたとも。長屋がそうした場になってくれればということである。
特に最近では銭湯を知らない世代も増えている。学生に聞くと銭湯はテレビの中だけの存在と思っている人もおり、そうした人たちからするといきなり裸になって銭湯に飛び込むのはハードルが高い。だが、長屋を改装したコミュニティスペースで一杯飲んで知り合いを作ってからの銭湯なら多少なりとも入りやすくなるはず。もちろん、銭湯に来る人同士の関係がちょっと深まること、地域の情報が来ている人たちの中に伝わることなども目標である。
改修工事は2020年11月の長屋内部の清掃、不用品処分から始まった。それまで20年間誰も住んでいなかった長屋は板で閉じられており、近所の人も存在を知らなかったほど。文化財申請はしたものの、その時点まで中には入れない状態だったのである。
伝統工法を使った修復で分かったこと
モノを出してみると建物はかなり傷んでいた。柱の水平垂直は取れておらず、腐朽して意味をなさなくなった柱も多いといった状態で、骨組みを残して半解体することになった。ここで大事なポイントは職人、伝統工法を大切にした修復を求められたという点。
「WMFでは単に修復するのではなく、それに伴う歴史、技術の継承なども重視しており、私たちは初めて土壁にチャレンジすることになりました。また、その技術を広く見ていただくために2回のワークショップを開催、一般の人たちにも参加してもらいました」
関東の土は粘着性が低く、土壁に向いた土が手に入りにくかったため、長野の壁土製造所まで秋、冬と2回買付に行き、それを銭湯の駐車場に泥のプールを作って熟成し、4回に分けて塗った。本当は冬は水分が凍ってしまうため、作業はしないほうがよいそうだが、ストーブをつけて凍らせないようにしたとも。
ご存じのように現在、土壁で作られる住宅は非常に少なく、当然ながら壁土を扱う製造所は希少。香川県に拠点を置く特定非営利活動法人土壁ネットワークによると、西日本で現在稼働している製造所は各県1~2ヶ所ほどで、すでに製造所が存在しない県もあるとか。
今回の修復では長野の土壁を扱う会社から買い付けることができたが、この後はどうなるのだろう。稲荷湯修復再生プロジェクトが作っている新聞「せんとうとまち新聞」には長野の小坂商会の小坂正子さんの「べトコン(長野では土をべトというそうで、そこからの言葉)はもう私だけだから」という言葉が載っており、土壁がいずれ作れなくなる日も遠くないことを予感させる。
2軒がそれぞれに異なる意味を持つ空間に
土壁だけではない。建具を担当した職人、田中照人さんは旧中山道沿いに親の代からの工房を構えていたが、稲荷湯のプロジェクトがスタートした時点ではすでに廃業していた。だが、田中さん以外に近隣には木製建具が作れる、修繕できる職人はおらず、依頼することになった。建具店と名乗っていても今ではサッシしか扱ったことがない人が大半なのだ。
改修中に開かれた工事見学オープンデーでお目にかかった田中さんは、都内では最後の建具職人と自称されていたが、残念ながらそれは事実だろう。長屋にはもともとあった建具を修復したものに加え、1960(昭和35)年築の墨田区京島の牛乳販売店や文京区千石の長屋の天井板など譲り受けてきた部材が使われているが、それらと同じものはもう二度と作れなくなりつつあるのである。
同様に首都圏の銭湯によくみられるペンキ絵を描ける絵師も日本でわずか3人。先行きを考えると暗くなる部分もあるものの、改修は関わる人たちがラストスパートに徹夜するなど大変な思いをしつつも2022年6月に完成。お披露目会が開かれ、その後、長屋は金曜日、土曜日、日曜日の夕刻に開かれるようになっている。以下、現在の様子をご紹介しよう。
再生にあたっては2軒でそれぞれに異なる修復を行っている。銭湯の入り口に近い1戸は既に倉庫としての改修も重ねられており、地域のコミュニティスペースとして機能するようにサロンとして改修。もう1戸の住居としての様子を良く残していた住戸は、住まわれていた当時の姿へ修復することにしたのである。
当時の姿は玄関から入ったところに3畳間、その隣に6畳間があり、6畳間に面して押入れ、縁側、3畳間の奥に台所というもの。トイレは縁側の奥にあった。
奥の部屋は台所が大きな床の間的な空間に、押入れが隣戸との通路になり、トイレが物置になった以外は以前の姿を取り戻しており、2間続きの和室に。サロン側から見ると小上がりのような空間に見えている。ここにはちゃぶ台、座布団が置かれ、座って寛ぐ空間である。
銭湯の可能性、必要性を考えていきたい
サロンとして改修された住戸は玄関を入った正面にあった3畳がキッチンになっており、かつての6畳はテーブルのある憩いの場に。週末金曜日、土曜日、日曜日には開かれており、土曜日にはちょっとした料理も出て入浴後に一杯が実現している。湯屋の2階とまではいかないものの、銭湯を中心にした地域コミュニティ再生への場が誕生したのである。
また、旧中山道沿いにある1907(明治40)年創業の亀の子束子の商品や地元の大正大学の学生たちが地域をリサーチして作ったカードが置かれているなど、地元を知るきっかけとなりそうなものが売られていたりもする。
オープンからまだ半年ほどだが、改修中からご近所の人たちには気にかけてもらい、新しくなってからは若い家族連れ、マンション住民などの来訪も増えていると栗生さん。
「とはいえ、まだまだこれから。今は私たちせんとうとまちが場を借りて運営をしていますが、いずれは地域で運営ができるようにと考えており、学生さんたちに手伝ってもらっているのも将来を考えてのこと。コミュニティサロンも地元の人たちが自ら企画して使うようになっていけばと思います。今回の助成は稲荷湯に出されたものではありますが、銭湯全体を視野に入れ、その再生を期待されていると感じており、実際、全国の銭湯から相談に乗ってほしいという問合せが寄せられています」
東京くらしWEBによると銭湯の利用者は総数としては減っているものの、一浴場一日当たりの平均入浴人員は2013年を底に少しずつ増えている。多少持ち直しているといえそうだが、現実的には成功しているところ、そうでないところの二極化が進んでいる。首都圏など地価が高い地域では相続が発生、継ぐ人がいないとあっという間に住宅用地となってしまうし、燃料費が高騰している現在は銭湯廃業が続いてもおかしくないタイミングである。
「関西ではお客さまのために誰でもいいから継いで欲しいという意識が強いように感じますが、ビジネスだから仕方ない、地域のことまで考えている余裕がないという銭湯も多く、それをどう支援していくか。ノスタルジーで語られることの多い銭湯ですが、地域社会における必要性、可能性という、これまでとは違う言葉でこれからの銭湯を語れるよう、事例を積み上げていければと考えています」
一般社団法人せんとうとまち
(代表理事:栗生はるか、副理事:牧野徹、理事:サム・ホールデン、江口晋太朗、三文字昌也)
https://www.sento-to-machi.org/
稲荷湯
https://www.sento-to-machi.org/inari-yu
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