掛け軸は古くは「掛け物」からはじまった
掛け軸とは一般的に、絵画や書を裂(きれ)などに貼り付け、その上下に竹や木の軸を取り付けて、紐で壁などに掛けられるようにしたものを指す。絵画は日本画や水墨画など、東洋の絵画が使用される。額縁に入れた絵画などとは違い、巻いてコンパクトに収納できるのも特長だろう。
現代では床の間に掛けられるが、床の間が造られる南北朝時代以前は、長押などに掛けられていた。長押とは和室の鴨居上部にある化粧部材だ。
掛け軸の前身ともいえる「掛け物」は、中国から、仏教と同時に伝来したとされるが、明確に記録された資料はなく、あくまでも推測でしかない。ただ、『日本書紀』の推古天皇条、十四年四月八日に「銅・繍(ぬいもの)の丈六の仏像がそれぞれ完成した」との記事がある。繍(ぬいもの)の仏像とは仏の姿が刺繍されたり織り込まれたりした布だから、掛け物の一種といえるだろう。丈六とは一丈六尺の略で、約4.85mで、当時の仏像は、この高さが標準だった。それを布として完成させた、という記載である。
寺院に掛けられるものといえば、「曼荼羅」もある。曼荼羅とは、密教の経典に基づいて仏の世界を絵で表現したものだ。
たとえば奈良県にある當麻寺の本尊は、観無量寿経浄土変相図(古曼陀羅)である。
伝説では天平宝字七(763)年に完成したとされる。藤原豊成の娘で、観音様のご加護により誕生した中将姫が、継母に殺されそうになったものの一命をとりとめて尼となり、蓮の糸で曼荼羅を織り上げたのちに極楽往生したという伝説が伝わる。
現在、この古曼陀羅は、損傷が激しく公開されていない。古曼陀羅と同じ技法で作られた綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)が、例年11月初旬に公開されていといる。
掛け物を掛ける習慣が生まれた平安時代
文武天皇元(701)年に発布された『大宝律令』に「図書寮を設け(中略)校写、装潢、筆墨のことを掌らしむ」とある。装は料紙を裁断したり貼り合わせたりすること、潢は料紙を染めることで、装潢は書画の表装を意味する。このことから、奈良時代には、書画を表装する習慣があったとわかるのだ。しかし、表装したものを掛けていたかどうかはわからない。
平安時代には掛け物を長押に掛ける習慣が生まれたらしい。
東京国立博物館所蔵で、国宝の「餓鬼草紙」は12世紀のもので、貴族の宴の様子を描いているが、描き込まれた掛け軸らしきものの絵画部分は白紙だから、簡素な書画であったと推測できる。
比丘尼や聖が曼荼羅や仏教絵画の掛け物を携えて全国を行脚し、聴衆に見せながら絵解きをしたのも、平安時代から始まったようだ。
鎌倉時代になると、僧の栄西が宋から茶を持ち帰り、禅院における供茶、飲茶の形式が確立され、掛け物も使われた。14世紀半ばに書かれたとされる西本願寺所蔵の『慕帰絵詞』には、南龍院における覚如上人と浄珍の会食風景が描かれており、壁には三幅の絵が掛けられている。中央は柿本人麻呂像、左に梅図、右に竹図、柿本人麻呂像の下には香炉、そしてその左右には花が飾られている。このように掛け物の前に香炉や花などを飾ったのが、床の間の起源とされる。
茶道と掛け軸の関係
室町時代に書院造が完成し、床の間に掛け物を飾るようになると、仲廻しに高価な布(裂)が使用されるようになる。そして茶道と結びつき、真・行・草の形式に分類されるようになり、現代に近い「掛け軸」が使用されるようになった。
偽書説はあるものの、千利休の秘伝書とされる『南方録』には「掛物ほど第一の道具はなし」と書かれているように、茶道にとって掛け軸は、なくてはならないものだ。「茶禅一味」は、茶道と禅修行の本質は同じであるという意味で、茶道に使われる「茶掛」には、禅の教えが書かれることが多い。
利休好みの掛け軸は、布の代わりに紙が使われるものもある。たとえば「椿の文」の中廻しは泥絵の具を塗られた茶鼠色の紙で、何度も巻き開きした皺がついており、質実な印象だ。
各季節やお正月にふさわしい掛け軸
茶掛はその頃に咲く花の画など、季節を題材にしたものが使われる。
冬ならば雪景色、夏ならば水のある風景などだ。書も季節にふさわしいもの、たとえば春であれば「松樹千年翠」などが使われる。
松の樹は千年も美しい緑色を保ち続けるの意味で、禅史伝書の『続伝灯録』にある言葉だ。千利休の弟子が著した『山上宗二記』にある「一期に一度の会」から生まれた「一期一会」や、「日々是好日」などは季節を問わずに使用できる。
禅語だけでなく、漢詩の掛け軸が掛けられることも多い。たとえば「歳月不待人」は陶淵明の『雑詩』の一節で、歳月は人を待ってくれないから稽古に励むべしという意味。季節を問わずに掛けられる。
お盆やお彼岸、弔事には仏様が描かれた仏画の掛け軸を使用する。
特に家族が集まったり、お客様をむかえる機会の多いお正月は、床の間もふさわしく整えたい。
お正月には吉祥文と呼ばれる縁起の良い絵柄が好まれる。もともと吉祥は中国から伝わった外来の意匠であったが、年月を経ていくごとに日本の美意識の中で固有にも育ってきた。
吉祥図には、植物では松・竹・梅などがよく好まれ、動物では鶴・亀・海老などが描かれる。物では、扇・小槌・ひょうたん、想像上の生き物もあり龍や鳳凰・麒麟などがある。また、富士山や初日の出、「福」や「寿」などの福文字のお軸もあるようだ。
初夢に見ると縁起が良いといわれる「一富士二鷹三茄子(いちふじ・にたか・さんなすび)」は、 富士は「不死」もしくは「無事」、鷹は「高い・貴い」で出世を、茄子(なす)は「物事を成す」「実が良くなる」という意味をかけられているのだそう。2023年の干支は卯(う)なので、うさぎの絵柄もよいかもしれない。
いずれもお正月には、おめでたい絵柄がふさわしい。
「喫茶去」「堪忍」「花筏」、亭主の思いを込めた掛け軸
しかし、掛け軸に詳しいルールはなく、客との関係性や時節によって相応しい掛け軸を選ぶのが、亭主の腕だといえるだろう。
それだけでは手がかりがなさすぎるので一例をあげれば、茶掛によく使われる禅語に「喫茶去」がある。中国の趙州禅師の言葉で、『趙州録』によれば、訪れた二人の禅僧に「以前にも訪れたことがあるか」と尋ね、「いいえ」と答えた僧にも「はい」と答えた僧にも、「喫茶去」と言ったとある。
禅問答は難解で、生半可では理解できないが、直訳の「茶を喫みに去れ」ではなく、「下がってお茶でも飲みなさい」と解釈されることが多い。だからたとえば初めての客に対して、「気を楽にしてお茶を楽しんでください」の思いを籠めて「喫茶去」の掛け軸をかける。
また、買い手よし、売り手よし、世間よし「三方よし」の精神で知られる近江商人の、小杉五郎右衛門が所有した松居遊見の「堪忍」の掛け軸は、代々大切に伝えられているという。
五郎右衛門は金沢で広く商売をしていたが、金沢藩で賃借をすべて棄却する命令が出されたため、売掛金を回収できなくなった。しかし「いま、金沢で商売をしようとする商人はいないだろう。金沢の人々は困っているに違いない」と金沢で商売を続け、大きな利益をあげたのだという。商売についてアドバイスをしたという松居遊見の筆による「堪忍」の二文字に、それだけの物語が籠められているわけだ。
筆者にも、掛け軸にまつわる思い出がある。
昭和天皇が崩御され、自粛ムードにあふれていたときのお茶席で、山盛りの花が描かれた掛け軸が使われていた。このようなときになぜ花なのだろうかと首をかしげたが、御道具拝見の際に謂れを問うと、亭主は「これは花筏です」と言葉少なに微笑んだ。
家で調べたところ、茶器の意匠としての花筏は、筏の上のご遺体に花を山とのせ、川に流す水葬の意味があるとわかった。亭主なりの追悼の表現だったのだろうと、印象に残っている。
掛け軸の部位の名前と正しい掛け方
次に、掛け軸の部材名称を詳しくみてみよう。
書や絵画が描かれた作品部分は「本紙」といい、その上下に「一文字(いちもんじ)」と呼ばれる金襴や銀襴の細長い裂地がつけられている。そのさらに上下部分を「中廻し(ちゅうまわし)」、左右を「柱」と呼び、一文字に次いで質の良い裂地が使われる。「中廻し」のさらに上部を「天」、下部は「地」と呼ぶ。
掛け軸上部に通された棒は「八宗(双)」あるいは「表木(ひょうもく)」といい、断面が半円の木(竹)材だ。下部の棒は「軸棒」で、掛け軸を巻くときには芯になる。掛け物上部から「天」部分に垂らされた細長い二本の飾りは「風帯」といい、「一文字」と同じ裂地が使われる。
掛け軸を掛ける際はまず巻紐をほどき、床などに置いた状態で掛け軸を一文字のところまで広げたら、風帯を伸ばす。つぎに掛け緒(掛け紐)を矢筈という道具に掛けて、矢筈に利き手を、途中まで巻かれた状態の軸棒部分に他方の手を添えて、床の間の軸掛けに掛ける。その後ゆっくりと掛け軸を開き、下ろそう。巻き癖がついていたら、軸棒を逆に巻き上げて癖をなおす。最後に正面に立ち、歪んでいないか確認しよう。しまうときはこの逆だ。
花瓶に活けた花などと一緒に飾ることも多いが、掛け軸に影がかかるのはルール違反。時刻や季節によって光源の位置が変わるので、来客のある時間帯に、太陽がどこにあるのか考えよう。
お祝い事などで掛け軸を贈るなら、まずは床の間の寸法を確認しよう。床の間の約三分の一が、バランスの良い掛け軸の幅とされている。また同じ題材がかぶらないよう、可能ならば、すでに持っている絵柄を聞いてみると良いだろう。
■参考
求龍堂『掛物歳時記』古賀健藏著 平成9年4月発行
日本放送出版協会『美の壺 表具』NHK「美の壺」制作班編 2007年1月発行
オルク『表装入門』荒川達監修 2017年1月発行
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