老舗王国日本の、悩ましき後継者問題
日本には創業100年以上の会社が3万3,259社あり、世界の約4割を占めるという。もちろんその数は世界一だ(2018年11月時点 帝国データバンク「『老舗企業』の実態調査(2019年)」)。しかし、その多くを占める中小企業では休廃業・解散が年々増えており、廃業を考える理由では「後継者の確保」が49.3%で最多となっている(複数回答、中小企業庁「2017年版 中小企業白書」)。
このように、経営者の視点から後継者を見つけることの難しさが語られることは多いが、実際に後を継ぐ人はどのような覚悟や思いを抱いているのだろうか。
2021年の休廃業・解散率が2.51%(帝国データバンク「全国企業『休廃業・解散』動向調査(2021年)」)と全国で2番目の低さであった和歌山県に醸造の老舗を継いだ人たちがいると聞き、訪れることとした。
訪れたのは、紀中地区の有田川町。古くから醸造が行われてきた同町は、老舗のほかにも、近年クラフトビールの醸造所ができるなど、醸造分野で盛り上がりを見せている。
8代目杜氏の夫が急逝。170年の歴史が寸断の危機に
有田川町は、その名のとおり、急峻な山々の間を流れる上流から、沖積平野が開けた下流まで、表情豊かな有田川に沿って東西に広大な町域を持つ。同町小川地区は、約1,200年前に弘法大師空海が開創した高野山へ向かう高野街道筋の旧宿場町で、付近の早月渓谷には空海が発見したと伝わる岩清水が湧く。人々はこれを「空海水」と呼んだという。
1840(天保11)年、空海水に魅せられこの地で酒を醸そうと思い立ったのが、高垣酒造の初代杜氏・髙垣又右衛門だった。以来180余年にわたって地元に愛される造り酒屋「高垣酒造」のはじまりである。今回お話を聞いた高垣任世(ひでよ)さんは、8代目杜氏であった高垣淳一さんと結婚し、経理や出荷する酒のラベル貼りなどを手伝いながら、3人の子育てに奔走していた。そんな矢先の2010年夏、淳一さんが外出中に倒れ、急逝。まだ46歳の若さであった。
酒造りを一手に担っていた淳一さん亡き後、任世さんが直面したのは、当時170年続いていた老舗をやめるのかやめないのかという選択だった。
「たまたま酒屋さんと結婚したというだけで、自分は酒造りに関わるつもりはまったくありませんでした。しかし、多くの酒蔵が酒造りを休止した戦時中ですら、一度も休まずに酒を造り続けてきたのが高垣酒造の取り柄。夫もそのことを誇りに思っていたため、『やめるにやめられない』というのが正直な気持ちでした」と当時の心境を明かす。
「私で歴史を絶やすわけにはいかない。後悔しても時間は戻せないから、やるしかない」
任世さんはその年、淳一さんが残した記録を頼りに、見よう見まねで小さなタンクを1つだけ醸してみることに。なんとか伝統をつないだ。
「老舗」になるためには、変わり続けなければならない
「夫は、人に認められても認められなくても、自分が納得のいくお酒をひたすら造っている人でした。誰か外部の人に継いでもらうということも考えたのですが、夫の思いまでも継いでくれる人がなかなか見つからないんですね。それでとりあえずは私が造り続けようと」
最初は機械の使い方など、何から何までわからなかったという。
「機械の調子が悪いとき、メーカーさんに頼んでも来てくれるのは翌日。酒というのはその間に味が変わってしまうんです。そんなときすぐに助けてくれたのが、近所の人々でした」
高垣酒造には「龍神丸」という銘柄の酒がある。製造量の少なさや、特約店限定販売という入手の難しさも相まって幻の酒ともいわれ、多くのファンがついていた。任世さんも、淳一さんが造っていた龍神丸を再現しようするものの、なかなか納得のいくものはできず、苦難の日々が続いた。任世さんは、「これでは龍神丸のラベルは貼れません」と、別の銘柄として販売していたという。
そんなとき特約店の人からかけられた言葉が、任世さんの気持ちを変えた。
「『龍神丸はもういいから、任世さんのお酒を造ったら?』と言われたんです。『え? いいの?』と衝撃を受けるとともに、一気に肩の力が抜けました」
老舗や伝統という重圧から、それを引き継ぐことに必死だった任世さん。以降、徐々に自信も付いてきて、自分なりに楽しく酒造りに向き合えるようになったという。
跡を継いで4年目、任世さんの手でついに「龍神丸」は復活。新しい道を模索した日々、ひたすら走り続けた日々を経て、10年目の2020年には、淳一さんが最後に残した酒と、任世さんが造った酒をセットで販売するクラウドファンディングを実施。クラウドファンディングの発案から実行まですべてを行ったのは、任世さんの蔵入り当時小学生だった次女の侑里さん。東京での大学生活の合間を縫い、幼いころ見てきた母の苦労、そして母の造る酒の素晴らしさを全国に発信した。結果は、目標額の1,220%という大幅達成となった。
「私は、クラウドファンディングで人から支援金をいただくなんて嫌だと思っていました。でもやってみて、昔からのお客さんにも買ってもらえ、新しいお客さんにも出会えました。新しいことへのチャレンジは勇気が要るけれど、とても大切なことだと感じさせられました。和歌山はフルーツ王国でしょう。今は日本酒だけでなく、リキュールの開発にも取組んでいますよ」
9代目任世さんのチャレンジ精神は老舗の新たな伝統となり、これからも脈々と引き継がれていくことだろう。
「継ぐな」と言われた醤油蔵。4代目は異業種を経てさまざまな顔を持つ
同じく小川地区に、もうひとつの醸造の老舗がある。1912(大正元)年の創業以来、本物の醤油づくりにこだわる「カネイワ醤油本店」だ。和歌山県は醤油醸造の発祥の地であり、有田川町に隣接する湯浅町はその舞台として文化庁によって日本遺産に認定されている。
4代目当主の岩本行弘さんは言う。「全国に1,000以上の醬油メーカーがありますが、原料仕入れから瓶詰めまで一貫して造っているところは1割くらいでしょう。木樽を使った昔ながらの製法で、仕込みには2年間かかります。本物を魂込めて造り続けてきました」
料理人などからも取引の依頼があるなど、プロも認める“本物”の味だが、その歴史は決して平坦なものではなかったという。
「本来醤油というのは地域によって違うものでした。地酒をイメージしてもらえばわかりやすいですが、醤油も同じで、その地にある素材でその地の気候に育てられるのです。しかし、流通の発達とともに大手醤油メーカーが大量生産した醤油が安く売られるようになりました。その頃は人々も安くて便利、しかもテレビCMでやっているものがいいものだという価値観が主流で、伝統的価値は重視されていない時代でした。当社の売上もどんどん下がり、父は私に『後は継がずに、手に職をつけろ』と言っていました。それで私は看護学校を卒業し、看護師として和歌山県に就職しました」
この頃、醤油発祥の地湯浅町でも、全盛期は90軒以上あった醤油屋は3、4軒にまで減っていた。とはいえ、看護師として働く傍ら、家に帰ったら父の醤油造りを手伝っていたという。そのなかで徐々に感じるようになったのは「時代がまた戻ってきた」ということ。
「看護師をやりながらも、百貨店の催事などは私が担当していました。ギフト3本セットなどビギナー向けの商品を発案し販売していましたが、ある時、ギフトをもらった人が、『美味しかったから、高くても買いたい』と自ら買いに来てくれたんです。そういった販売の工夫のほか、インターネットの普及も後押しし、地方のものでもいいものであれば見つけてもらえる時代がやってきました。売上も回復してきて、それで父が70歳になるのを機に、継ぐことを決めたんです」
同じ家に住んで、醤油づくりの仕事を見ていたためか、家族の反対もなかったという。
本物を造り続けるという強いこだわり以外にも、顧客を引き付ける理由があった。それは、例え遠方のお客さんであっても、コミュニケーションを怠らないという点だ。
「親父は、一軒一軒のお客さんに手書きで手紙をしたため、送っていました。そうすると、お客さんからも電話をいただけたりして、人間関係がどんどん深くなっていきます。『うちの娘が結婚したから、今度そっちにも醤油を送ってほしい』などと言われるとうれしいですよね。インターネットが広がっても、そういった真心が伝わるコミュニケーションを大事にしています」
地域と持ちつ持たれつ、地域の発展のために挑戦は続く
岩本さんは週に一度、和歌山放送のラジオパーソナリティーもやっている。
「最初は、協賛のお願いの営業に来られたのがきっかけです。よくよく話を聞くと、当社の醤油をずっと買ってくださっていた方の息子さんで、断るわけにはいかず、協賛しました。CMとしてしばらく自身も出演していたのですが、しまいにはパーソナリティーに誘われて…。もちろん断れませんから(笑)」
そう謙遜するものの、紀州弁で繰り広げられる軽妙なトークで、今や名物パーソナリティーだ。
放送を聴き、岩本さん見たさにお店を訪れてくるお客さんもいる。人と人をつなぐのが好きな岩本さんは、有田川町を楽しんでいってほしいという思いから、訪れた人に近隣の店舗をPRしたり、紹介したりするという。
「うちが紹介することもあれば、ご近所に紹介してもらうこともある。お互いさま、持ちつ持たれつですよ」と岩本さん。
そんな岩本さんは2021年6月から有田川町商工会の会長にも就任。
「これまでは自社の醤油をどうにかするのが仕事でしたが、これからは有田川町の産業そのものを発展させる役割になりました。地元・和歌山の素材ばかりを使った醤油づくりなどにも挑戦していますが、町ぐるみで取組めることがあったら面白いですよね。そのためにも、地元の人やお客さんと関わって、いろんな話をして、アイデアをいただいています」
地域の人に愛され、地域を盛り上げてきたカネイワ醬油本店。地域の人々に支えられながらたすきをつないだ高垣酒造。どちらの老舗も、周囲の人々に助けられながら、そして周囲の人々に貢献しながら、その歴史を紡いでいる。
話の途中、岩本さんは蔵で仕事中だった長男の庄平さんを呼び止めてくれた。庄平さんは、奈良の酒蔵で修業したのち、後を継ぐ前提で2021年にカネイワ醬油本店に転職した。
しかし岩本さんは言う。
「自分の経験から、息子には『好きなことをしたらいい』と言っていたんです。30歳くらいまでは人生の一番楽しい時期だし勇気もパワーもあるので。で、『就職はどこに決まったの?』と聞いたら、醤油と同じ醸造分野である『酒蔵だ』と。ズッコケました(笑)」
一方の庄平さんは、背景にあった思いを語ってくれた。
「昔から周囲に『将来お前が継がなあかんで』『お前は家業があっていいなあ』などと言われ続けてきて、本当に嫌でした。でも、学生時代など実家に帰るたびに、『地域に守られながら、真面目に醤油を造り続けてここまで来たんだ』と感じて、これを途絶えさせてはいけないと思うようになったんです。そして僕は継ぐことにしました」
そして庄平さんは続ける。
「でも、必ずしも家族が継がないといけないということはないと思っています。僕は誰が継いでもいいと思うんです。それよりも地域の味を絶やさないことが大事だと思うんです」
カネイワ醬油本店と、高垣酒造。有田川町に綿連と続く2つの醸造の老舗は、後を継いだ経緯や考え方は異なるが、地域の人々との関係があって成り立っているという思い、老舗であり続けるために変革とチャレンジを続けていくという気概は共通していた。
後を継ぐことは、重い歴史を背負うということだが、決してそれは孤独なものではなく、地域の人たちやお客さんとともに、守り、時には革新しながら暖簾を継いでいくということだと感じた。
後継ぎを躊躇している、迷っているというとき、地域の人々の胸を借りるつもりで飛び込んでみるというのもひとつの選択肢かもしれない。そこには必ず、代々老舗を愛してきた地域の人々がいるはずだ。
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