恵方は陰陽師の秘術、恵方を向いて何かをする習慣は昔からあった
年が明けると「恵方巻き」のシーズンがやってくる。節分の日に「恵方」を向いて海苔巻きを一気喰いするという行事である。
恵方巻きの由来には諸説あり、商業主義の産物と片付ける向きもあるが、恵方そのものは陰陽師が活躍していた時代から長きにわたり、神の恩恵を最大に生かせる吉方位として大切にされてきたものである。
今回は、恵方とは何なのか、恵方を向くとどんな良いことがあるのか、またその年の恵方はどのように決まるのかなど、恵方について考察してみよう。
それにしても人類は不思議と、皆で揃って同じ日に同じものを食べるのが好きなようである。サンクス・ギビングデーにはターキーの丸焼き、春節には水餃子、クリスマスにはケーキなど、実に多くの行事食の習慣が世界各地に残されている。
日本では、正月の餅、お節に始まり、七草粥、恵方巻き、バレンタインデー、ホワイトデー、菱餅、雛霰、おはぎ、ぼた餅、桜餅、柏餅、鰻、素麺、月見団子、亥の子餅、千歳飴、冬至粥、年越しそばとざっと挙げてもこれだけの数の行事食がある。
これら行事食の本質は、特定の日に特定の食材を食べることに意味がある。例えば七草粥は1年の無病息災を祈願し、新年の初節句である1月7日に春の七草を入れた粥を食べるという行事食である。
その起源は古代中国の風習にあり、正月1日を鶏、2日を狗、3日を羊、4日を猪、5日を牛、6日を馬、7日を人、8日を殻の日として、その日の天候で1年の運勢を占っていた。
そしてその際には、当日に関連した食物を食べることで開運祈願を行ったのだが、7日の人日に人を食べるわけにはいかず、その代わりに7という数字にちなんで7種類の野菜を入れた粥を食することで代わりとしたとされる。
このように歴史ある行事食は、食べる食材に意味があることが多いのだが、恵方巻きは食材自体の意味は希薄で、その食べ方が本義となっている珍しい例である。実は、この恵方を向いて何かをするという習慣は、恵方巻き以外にも古くから数多く存在し、例えば、恵方参り、産湯の水取りなどもそうである。
恵方は吉神である「歳徳神」が御座する方位。年ごとに所在が変わる
恵方とは、吉神である歳徳神(としとくしん)が御座する方位のことをいう。そしてその方位は年ごとに変わる。
恵方という言葉と概念は、平安の時代には既に存在していて、陰陽師が毎年編纂していた占いの手引書「具注暦(ぐちゅうれき)」という史料の中に登場する。現存する最古の「具注暦」は、正倉院に保管されている西暦746年のものである。
「具注暦」には、年ごとに所在が変わる吉神である「歳徳神」と、凶神である「八将神(はっしょうしん)」が御座する方位と、その意味するところが記載されていて、それをもとにさまざまな占いが行われていた。
各神様が御座する方位にどんな意味があり、何が起きるとされていたのか、簡単にご紹介しよう。
神様が御座する方位と意味
<歳徳神>
吉神。その年の恵方にいる。その御座する方位は万事に大吉。牛頭天王(ごずてんのう)の妃の頗梨采女(はりさいじょ)という女神様といわれる。
<八将神>
凶神。神様が嫌うことを避ければ良しとも。
1.太歳(たいさい)
大凶神。太歳の御座する方位で訴訟、葬儀、解体、草刈り、伐採は凶。しかし貯蓄や家屋の建築や増改築、移転、商取引、結婚、就職などは大吉。
2.大将軍(だいしょうぐん)
「三年塞がり」の別名を持ち、特徴は3年ごとに居を変え、その方位は万事に凶。特に土を動かすことが大凶。
3.太陰(だいおん)
太歳の妃。女神ゆえか女性の陰の性質に嫉妬するとされ、その方位で女性に関することを行うのは大凶。しかし学問芸術に関することは吉。
4.歳刑(さいけい)
殺罰、刑殺を司る武神。御座する方位に向かって開店、移転は凶。理にかなった訴訟は吉。理に外れた争い事は大凶。
5.歳破(さいは)
凶神。絶えず太歳の反対に位置し、御座する方位への、動土、舟乗、旅行、移転は大凶。
6.歳殺(さいさつ)
陰気の極みで殺気を司り万物を滅する神。御座する方位への移転、旅行、結婚、訴訟は凶。
7.黄幡(おうばん)
万物の墓の方、兵乱の神。御座する方向への動土は凶。しかし武芸は吉。
8.豹尾(ひょうび)
不浄を嫌う気性の激しい神。この方位から家畜を買うこと、婿取り、嫁取り、その方向に向かって大小便をすることは大凶。
このように恵方をはじめとした方角神は年ごとに所在を変えつつ、その方位の吉凶を支配するものとされてきた。そしてこれらはさまざまな占いに取り入れられ、あらゆるものの吉凶判断や、災害予知など「天啓」を得る手段として利用されてきたのである。
その年の恵方は十干、凶神は十二支によって方位が決まる
次に恵方はどのように決まるのかを見ていこう。
陰陽師の覚書である「陰陽雑書」によると、「歳徳 甲・己歳東宮(甲、寅・卯間在)、乙・庚歳西宮(庚、申・酉間)、丙・辛歳南宮(丙、巳・午間)、丁・壬歳北宮(壬、亥・子間)、戊・癸歳中宮(戊、巳・午間也)。」とある。
つまりその年の恵方は干支の十干(じっかん)によって決まり、それぞれ甲(木の兄)・丙(火の兄)・庚(金の兄)・壬(水の兄)4方向であることが分かる。
これを分かりやすく現代の方位で言うと、十干が「甲」と「己」の年は東北東、「乙」と「庚」の年は西南西、「丙」と「辛」の年は南南東、「丁」と「壬」の年は北北西、「戊」と「癸」の年は南南東となる。
例えば2022年の場合は、干支は「壬寅」なので十干は「壬」、恵方は北北西ということになる。同じように、2023年は「癸卯」なので南南東、2024年は「甲辰」で東北東、2025年は「乙巳」で西南西となる。
なぜこう決まったのかについては、知りうる限りの史料を漁っても分からず、これらの占いの原型を作った安倍晴明にでも聞くしかないだろうと思っている。
ちなみに、凶神である八将神が御座する方位は干支の十二支によって決まる。その年の十二支の方向に太歳が御座し、他の七神は太歳に応対してそれぞれが独自のルールで位置を決める。各方位を知りたい方は、書店で販売されている「運勢暦」に載っているのでそれをご覧いただければと思う。
カレンダーと暦は違う? カレンダーは自然科学の記録の蓄積、暦は未来を知るための占い
さて、このような恵方を始めとした各方位神の概念は、「暦」の中に存在するものである。ここでいう「暦」とは、いわゆるカレンダーとは異なるもので、「具注暦」に代表される日本古来の占い的な要素が強いものを指す。
カレンダーは自然科学の記録の蓄積であり、農耕を効率よく行うために生み出されたものである。「暦」は神の意志を計り、未来を知るために生み出された、東洋の神秘主義といえるものである。
太古、ホモ・サピエンスは森の木の実や動物などを狩猟して生活していた。完全なる自然界との共生である。この時代、ホモ・サピエンスの個体数は、自然界に存在する食糧分しか増えることはなかった。しかしその後、農耕によって食糧を自給することを考え出すことで、個体数は増加していく。
神の恩恵である自然の恵みだけで生活する野生動物から、人為的に食糧を作り出す「考える葦」へと進化したのである。この農耕を効率よく行うための「一太陽年」の自然現象の日記がカレンダーである。
この世界最古のカレンダーはシュメール人によって作られたと考えられている。紀元前5000年頃には農耕カレンダーとして昼の世界を記録した「太陽暦」と、潮の干満カレンダーとして夜の世界を記録した「太陰暦」が存在し、しかも「太陽暦」と「太陰暦」には11日もの誤差があることまで分かっていたという。
そこで古代シュメール人はその2つのカレンダーを統合。紀元前3000年代には「太陰太陽暦」を使っていた。この「太陰太陽暦」がエジプト以外のユーラシア大陸全土に広がり、さまざまな地域のカレンダーのもとになった。
なぜエジプトだけが「太陽暦」を使ったのかについては、古代エジプト文明は民族移動の経路から外れた独立地域にあり、比較的安定した社会を営み、かつ砂漠化する土地の限られた農耕地を持った故だろうと考えられている。
そしてこのエジプトの「太陽暦」をベースにして、古代ローマでカエサルがユリウス暦を作り、ヨーロッパ全土へと広がっていった。これにより西洋では「太陽暦」が主流となり、1582年に時のローマ法王グレゴリウス13世によって、グレゴリオ暦が作られるまでの1600年間もの長きにわたりユリウス暦が使われ続けた。
東洋では太陰太陽暦、民衆を支配コントロールする手段としての暦
中国では、甲骨文字の解読により、紀元前1500年頃には十干・十二支で数える「太陰暦」が使われていたことが分かっている。
その後いつの時代かにシュメール人の「太陰太陽暦」が伝わり、紀元頃、後漢の時代には二十四節気などを考案し、より精度の高いカレンダーを作り上げた。これはそれまでの西洋のカレンダーとは異なり、占い的な要素、つまり「暦」としての性質も持ち合わせていた。
東洋で「太陰太陽暦」が広まった背景には、漁民などの海洋民族が多く存在したことに起因すると考えられている。月の満ち欠けは潮の干満や潮流に影響を及ぼし、大河流域での洪水予測に利用されるなど、災害対策にも役立っていた。
東洋思想では未来は既に定まっているとされる。災害は起こるべくして起こる神の御業であり、それを予測することは神の領域へと踏み込むことであった。「暦」は、ただ自然を利用するカレンダーではなく、神の意志を知るためのものとして存在したのである。
日本では、554年に百済から伝来した「元嘉暦(げんかれき)」を始め、さまざまな暦法が中国から伝えられた。しかしこれら最新情報が詰まった中国の暦法は、朝廷によって公には秘匿され続けた。
そしてそれらの中国暦を礎にして、日本の陰陽師の手によって作られたのが、より占い色が強い「具注暦」であった。
正倉院にある「具注暦」は手書きで作られていて、半年分ずつ年に2回、全国の有力者に配布されていたという。朝廷は、農耕や神事を司る「暦」を独占し、コントロールすることで威信を示し、心理的な全国支配を行っていたのである。
この朝廷独占に終止符が打たれたのは、渋川春海によって編纂された貞享暦(じょうきょうれき)が使われるようになった1685年のことである。貞享暦は中国の暦法をもとにして、観測により日本との経度差を加味し、独自に作られたものである。
この背景には、心理面での朝廷支配を薄めたい幕府の思惑があった。以後、日本の暦法は陰陽師vs.幕府天文方がしのぎを削り、東洋の神秘主義的な暦と、西洋天文学のカレンダー合戦が繰り広げられたのである。
暦は神の領域へ近付くための試み、恵方は暦の中の重要なエッセンス
このように日本古来の「暦」は、食糧確保の効率化の目的のため、洪水や海難の被害の回避のため、そして大自然の摂理をひも解き、神の領域へと近付くための試みであった。
太陽暦は、自然の恵みである作物の成長と気象の関係を観察し、記録し、積み重ねた経験をカレンダーとして大成した。太陰暦は、月の引力が及ぼす自然現象を観察し、記録し、積み重ねた経験から天変地異を予測するカレンダーであった。
しかし、カレンダーだけでは災害の予測は難しい。予測を超えた災難は絶えず人類に降りかかる。現代社会においてさえ台風の進路を正確に知る術は無いし、地震の予知もできない。これら天変地異を予知するためのものが「暦」であったのである。
古の「暦」の研究は、八百万の神々との対話そのものであり、神々の意志を探る重要な指針であろうとした。それ故、歳徳や八将神、易経、九星、十二直、二十八宿といった占いの要素をふんだんに取り込み、より複雑に、詳細に、神々の意志を測ろうとしたのである。
中でも「恵方」は、幸運を呼び込む民衆の心の拠り所として、暦の中で重要なエッセンスとして、現代に至るまで生き続けてきたのである。
現代に生きる恵方の風習、災いを避け幸せを得るために
「具注暦」には、その年の恵方・吉方が記され、日々の占いに関する注釈が細かく書き込まれている。
これらをもとにした風俗や習慣は日本各地に存在し、長きにわたって地域に根ざし、継承されている。いくつか事例をご紹介しよう。
継承されている恵方の事例
●恵方・吉方に向かって動く:献燈・奉幣、恵方参り、行き始めなど
●恵方・吉方で採取する:若水、産湯の流水、産剃り用の水など
●恵方・吉方に向いて祈る:四方拝、餅鏡、腹帯、書初めなど
●恵方・吉方に物を埋める:胞衣、50日・100日の乳児に含ませ残った餅、移徒の五菓など
これら習慣の多くは子どもに関したものである。死産にならぬよう、生まれた赤子が夭折せぬようにと、恵方を司る歳徳神の加護を願ったのだろう。古来より、出産や育児とは神頼みしたくなる程の難事業だったことがうかがえる。
日本では古くから、暦を単なるカレンダーとしてだけでなく、災いを避け、幸せを得るために活用してきた。また、為政者によって民衆をコントロールする手段としても使われてきた。
節分に豆を撒き、恵方に向かって一口で海苔巻きを食べることをことさら推奨するつもりもないが、恵方に向かって1年の息災を祈る事くらいはしてみるのもいいかもしれない。ちなみに筆者は1度も恵方巻きを食べた経験はないのだが、今年は細巻きくらいは食べようかなと思っている。
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