2008年、国の登録有形文化財に

愛知県岡崎市。かつて江戸(東京)と京都を結んだ東海道に面したところに「岡崎信用金庫資料館」がある。現在、市内で多くの車が行き交うメイン道路となっている国道1号線からは、北へ側道に入って向かう。そのためか、住宅街に突然のように現れるレンガと御影石(花崗岩)でできた重厚な建物に、驚きと今まで残されていることへの感動を覚える。

重厚な雰囲気というのは、ここが金融機関の建物として造られたためでもある。現在の所有は岡崎信用金庫であるが、もともとは1890(明治23)年に設立された岡崎銀行の本店で、1917(大正6)年に竣工した。

江戸幕府を開いた徳川家康が生まれた岡崎城からほど近く、城下町として発展してきた中心地。その歴史ある町並みのなかに誕生した洋風のビルは、当時の人々に近代化の風を運んだことだろう。

大正期の名建築として評判は高まり、2008(平成20)年に国の登録有形文化財となった。建築ファンに親しまれているほか、今はギャラリーと貨幣の資料館として市民や観光客に開かれている同施設を見学してきた。

住宅街のなかに現れる重厚な建物に心躍る。建物の南側、写真では手前の道路が旧東海道となる。旧東海道に面した側に当時の玄関があるが、現在の資料館としての入り口は西側(写真左手)に設けられている。ちなみに、現在の資料館入り口が面する道路は岡崎城の外堀だった住宅街のなかに現れる重厚な建物に心躍る。建物の南側、写真では手前の道路が旧東海道となる。旧東海道に面した側に当時の玄関があるが、現在の資料館としての入り口は西側(写真左手)に設けられている。ちなみに、現在の資料館入り口が面する道路は岡崎城の外堀だった

辰野金吾に師事した鈴木禎次による設計

岡崎信用金庫資料館を設計したのは、名古屋を拠点に活動し、名古屋の近代的な町並みに寄与したといわれる建築家・鈴木禎次(ていじ)。以前、当サイトでご紹介した愛知県半田市にある旧中埜家住宅を手がけた人物である。

日本近代建築の先覚者とされる辰野金吾に師事した鈴木。辰野といえば、代表作の一つである東京駅でも見られる、外壁に赤いレンガと白い花崗岩を用いた「辰野式」と呼ばれるデザインが特徴的だが、鈴木はこの建物にその様式を取り入れた。赤いレンガと、地元の岡崎産の御影石(花崗岩)でできているという外観は、今なお圧倒的な存在感がある。

建物について、岡崎信用金庫資料館の資料によると「ルネサンス様式を基調にして、中世のゴシック様式の造形要素を加味したフリー・クラシック様式にセセッションを一部に加えた」とある。セセッションとは、「19世紀末ウィーンを中心に起こった芸術革新運動で、過去様式からの分離を目指したもので、虚飾を排し建築に合理思想を導入し、簡明・直截を一つの旨としています」とのこと。

当時の流行に加えて、新しいものを追求したデザインだったのだろう。尖塔屋根や当時の玄関の上に伸びる石柱、2階の窓の上に設けられた半円形のデザインや丸いボール状の飾りなど、細やかな意匠が施されていて、興味が尽きなかった。当時の玄関があった正面から見ると、左右非対称でさまざまなデザインが組み合わされているにもかかわらず、それらが見事なバランスで美しさを出しているのが素晴らしいと思った。

日本銀行本店など数多くの銀行建築を手がけた辰野金吾から学びを受けた建築家・鈴木禎次。静岡県生まれの鈴木は、帝国大学(現・東京大学)の卒業、三井銀行の建築係、欧州留学を経て、1906(明治39)年に名古屋高等工業学校、現在の名古屋工業大学の教授となった日本銀行本店など数多くの銀行建築を手がけた辰野金吾から学びを受けた建築家・鈴木禎次。静岡県生まれの鈴木は、帝国大学(現・東京大学)の卒業、三井銀行の建築係、欧州留学を経て、1906(明治39)年に名古屋高等工業学校、現在の名古屋工業大学の教授となった

空襲による内部焼失から復元までの歴史

2階から3階へ向かう階段。3階に部屋などはないそうで、推察だが尖塔屋根があるため昔は部屋が設けられていたのかもしれない。岡崎信用金庫資料館となるにあたっての改装も詳細は不明なところがあるが、柱や梁など極力、外の雰囲気に合ったものになっているのではないかと思った2階から3階へ向かう階段。3階に部屋などはないそうで、推察だが尖塔屋根があるため昔は部屋が設けられていたのかもしれない。岡崎信用金庫資料館となるにあたっての改装も詳細は不明なところがあるが、柱や梁など極力、外の雰囲気に合ったものになっているのではないかと思った

第二次世界大戦中の1945(昭和20)年7月、岡崎市は空襲を受けた。市の3分の1が被災するという状況のなか、この旧岡崎銀行本店は内部が焼けてしまったものの、外郭は奇跡的に残った。レンガと御影石の丈夫さが不幸中の幸いだった。

同年9月に国策で東海銀行(現・三菱UFJ銀行)と合併したことで、業務はほかの支店で進められることになり、被災したこの建物は終戦後もしばらく放置されていた。

そんなとき同じく空襲で被災した岡崎商工会議所が買取り、補修して1950(昭和25)年から使用を始めた。補修といっても、一時的な間に合わせのようなところがあったため、1959(昭和34)年の伊勢湾台風で屋根が飛び、再び応急処置で使用を続けたという。しかし、やがて老朽化と規模拡張で手狭になったことなどで、岡崎商工会議所は別の場所に新しく施設を建設して移転した。

そこで建物を取り壊す動きも出ていたが、市民から保存を望む声が高まったことで、当時の岡崎商工会議所会頭で、岡崎信用金庫会長を務めていた服部敏郎が「この建物は、旧岡崎銀行の本店として誕生し、当地における金融・経済の歴史そのものである。解体するのは忍びない」と土地・建物を購入する決意をした。

1977(昭和52)年に岡崎信用金庫の所有となると、外観は建築当時の姿に戻すことに。外壁保護のため内側から鉄筋コンクリートで補強し、戦災で無くなっていた角型の尖塔屋根、ルネサンス式の箱型屋根、煙突などを復元した。

一方、内部は戦後に設けられていた間仕切りを撤去するなど改装が行われた。

戦災の影響で残念ながら再現できなかった内部。外観の美しさを見るにつけ、創建当時の内観も見たかったと思った。

貴重な建物を保存し、地域の文化の発展へ

1982(昭和57)年11月、岡崎信用金庫資料館として開館。

歴史を物語る貴重な建物を保存、維持していくと共に、地域の文化の発展に貢献したいという思いで、1階は美術や工芸、文化や歴史などの展示を行うギャラリー、2階は貨幣展示室として無料開放している。

ギャラリーとして活用する1階。写真は、2021年2月に亡くなられた岡崎市在住の漫画家・いしはらいずみさんの追悼特別企画時のもの(写真提供:岡崎信用金庫)ギャラリーとして活用する1階。写真は、2021年2月に亡くなられた岡崎市在住の漫画家・いしはらいずみさんの追悼特別企画時のもの(写真提供:岡崎信用金庫)

貨幣展示室は、地元の子どもたちが社会科見学で訪れたりもするというが、国内外の新旧貨幣や、日本の金融のはじまりである江戸時代の両替商の復元など、大人でも興味深く見学できる。

ギャラリーとして活用する1階。写真は、2021年2月に亡くなられた岡崎市在住の漫画家・いしはらいずみさんの追悼特別企画時のもの(写真提供:岡崎信用金庫)2階の貨幣展示室
ギャラリーとして活用する1階。写真は、2021年2月に亡くなられた岡崎市在住の漫画家・いしはらいずみさんの追悼特別企画時のもの(写真提供:岡崎信用金庫)貨幣展示室には、江戸時代の本物の千両箱を持つことができる体験コーナーも。時代劇では泥棒が肩にかついでいる場面もあるが、小判千両と箱を合わせた実際の重さはなんと約22kg! 筆者も体験してみたが、その重さに驚いた……

免震化工事を行ってリニューアル

1階では免震装置が見られるようになっている1階では免震装置が見られるようになっている

国の登録有形文化財になっているほか、1990(平成2)年には岡崎市都市景観環境賞を受賞し、2017(平成29)年には岡崎市景観重要建造物に指定された。

岡崎市としても、国としても貴重な遺構であるわけだが、この東海地方は大地震の発生が想定されている地域でもある。そんななか、2019年2月から約2年をかけて免震化工事が行われた。

行ったのは、世界遺産に登録されている東京の国立西洋美術館本館でも採用された免震レトロフィット工法。建物の下に設置した免震装置で揺れを受け流すことで、建物自体の揺れを小さくする仕組みとなっている。耐震のための壁や梁などの補強を行わないため、外観や内観のデザインにほとんど影響がない。

安全性も高まり、地域に親しまれながら未来へと受け継がれていくだろう。

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冒頭で東海道に面して立っていたとご紹介したが、岡崎市の東海道は、城下町としてまちの防衛のためや整備などによって、曲がりくねった道となっていて、「東海道岡崎城下二十七曲り」と呼ばれている。この道に沿うようにして、歴史的建造物を巡るウォーキングもできるという。当サイトで過去にご紹介している、旧本多忠次邸、合資会社八丁味噌もそこに含まれる。ぜひ今回の岡崎信用金庫資料館と併せて巡り、歴史の息吹を感じてはいかがだろうか。


岡崎信用金庫資料館 https://www.okashin.co.jp/local/museum/

※参考文献:『岡崎信用金庫資料館(旧岡崎銀行本店)のあゆみ』
      『新編岡崎市史 第18巻 建造物』(出版:岡崎市)

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