福袋の始まりは江戸時代。いち早く大儲けをした商売人も

大名の威厳や格式を示す本陣での風景。参勤のための費用は、世の中が平和になるとともに、大名の財政を徐々に圧迫していった大名の威厳や格式を示す本陣での風景。参勤のための費用は、世の中が平和になるとともに、大名の財政を徐々に圧迫していった

江戸時代の中期に、いちはやく現金商売を行い、また福袋などの新しいアイデアで大儲けをした商売人がいた。ちょうど経済の中心が、武による統制経済から、民による自由経済へと移行した頃のことである。

商人たちは生き残るため、またより大きな富を得るために、こぞって知恵を絞り、新しいアイデアを出し、後世に語り継がれるような商戦を展開した。

その中には、季節の風物詩として今の時代にまで綿々と続いているものもある。例えば、利益還元祭のような大売り出し、そして福袋もそうである。

今回は、民間経済を活況へと導いた江戸時代の商売事情や、商人たちの知恵の結晶である福袋のはじまりと歴史、超ブラックな就業環境の奉公人が莫大な富を掴む江戸ドリームをご紹介しよう。

江戸市民の度肝を抜いた新商売。大人気を博した現金商売と福袋

正月の風物詩となった福袋。始まった当初は旧暦神無月の20日にえびす講のイベントの一環として行われていた正月の風物詩となった福袋。始まった当初は旧暦神無月の20日にえびす講のイベントの一環として行われていた

福袋の始まりは江戸時代の延宝元年(1673年)、日本橋に創業した越後屋(現在の三越)が始めた「恵比寿袋」とされる。

新興の呉服屋だった越後屋は、当時の商習慣をことごとく覆す、全く新しい商業形態を次々と展開し、江戸市民の度肝を抜いた。

江戸時代の前期であるこの頃は、「米」「塩」「布」など、生活必需品を「物品通貨」とした交換経済が中心に営まれていた。もちろん貨幣も通貨として存在はしていたが、主に出回っているのはわずかばかりの銭貨であり、未だに経済の基盤となりうるほどの社会的地位は確立されていなかった。

戦国の世が終わったとはいえ、農業生産性は低く、銭を幾ら持っていたとしても誰も米を売ってくれなければ飢え死にするしかない。しかし米・塩・布さえ持っていれば、生きていけるし、他の必需品との交換も容易にできる。

この時代の商習慣は、武家による統制経済が中心だったこともあり、年貢米の収納期に合わせて年に1度、まとめて清算する「掛売り」が主流であった。店先で商品と現金を交換する「店前現銀売り(たなさきげんぎんうり)」は行われることはほとんどなく、それだけ貨幣に対する信用性が低かったのである。

この店前現銀売りを呉服商として初めて江戸で行ったのが、1673年創業の越後屋である。新興の越後屋は競争を勝ち抜くために、江戸という街で、現金商売というイノベーションが通用するかどうかを慎重に見極め、ここぞというタイミングで創業。結果、市民たちに熱狂的に受け入れられることとなったのである。

また越後屋はえびす講の時期に、呉服を仕立てた際に出る絹地の端切れを袋に詰め、「恵比寿袋」と銘打って売り出し、江戸中で大評判になった。これが福袋の起源とされている。

恵比寿袋には色とりどりの絹の端切れが詰められていて、値段は1分。当時、蕎麦が1杯16文の時代であるから、およそ63杯分である。そう聞くと結構な金額のようだが、当時の絹の反物はその数十倍はしたようで、また多くの江戸市民は綿の着物でも古着が当たり前の時代であったため、小さくても絹の端切れが詰め込まれた恵比寿袋は大人気となった。

それまで、誰も商品化できると思いもしなかった不用物である「端切れ」に注目し、綿密なマーケティングを行って新たな需要を喚起したことで爆発的なヒット商品を生み出したのである。商売人にとって1番大事な素養とされる「商機を読む」力が、越後屋の主人に備わっていたということだろう。

恵比寿袋の人気は絶大で、他の有名呉服商、大丸、白木屋、伊豆蔵、大黒屋たちも後追いで販売を開始したことでも分かる。

他にも1反売りだけでなく、半反売りや端切れ売りといった安価な商品も取り揃え、江戸市民たちの人気をさらった。この頃には農業生産力も上がり、供給が増加したことで物価も安定、貨幣に対する信用が確立していた。江戸市民たちも貨幣経済を謳歌し、それなりに高額な買い物をするようになっていたのである。

正月の風物詩となった福袋。始まった当初は旧暦神無月の20日にえびす講のイベントの一環として行われていた葛飾北斎画による三井越後屋の店構え。看板には呉服、現金の文字が見える

寺子屋が教えた商売往来。超ブラックな店の奉公人も将来は分家筋として独立も

越後屋の起こしたイノベーションは江戸の商売を劇的に変革した。「生馬の目を抜く」と言わしめる商売戦争の勃興である。

商習慣は過剰なまでに営利主義に走り、お店は年中無休に近く、休日は基本的には元旦と藪入りの合計3日間だけ。江戸時代の商人たちは多忙を極め、大晦日も深夜まで「掛取り」という集金業務に忙殺されるため、元日の営業は体力的に困難だから本当に休んでいただけということも少なくなかったという。

年間休日が3日間とは、超がいくつも付きそうなブラックな話であるが、お店の奉公人たちはごく当たり前のように日々働いていた。そうまでして修業を積まなければ、一人前の商人として生き残れなかったこともあるだろう。

といっても、基本は住み込みで、衣食住はすべてお店持ち。給金は手持ちの小遣い以外は管理してもらい、一定の年齢になると独立資金として渡され開業することができた。また開業後も、分家筋として何くれとなく本家が面倒をみてくれるといったこともあったようである。

葛飾北斎画の五百羅漢での町人たちの様子。江戸経済が円熟期に入ってくると町人たちもレジャーを楽しむ余裕が生まれてきた葛飾北斎画の五百羅漢での町人たちの様子。江戸経済が円熟期に入ってくると町人たちもレジャーを楽しむ余裕が生まれてきた

奉公人としてお店に採用される条件は、同郷の一族や知り合いの子弟など身元保証がされた人であることが原則で、親は自分の子どもを少しでも大きなお店に採用して貰うためにさまざまな伝手を探し、かつ子どもに立派な奉公人になるための教育を施した。

当時の寺子屋(民間教育機関)には、「商売往来」という教科書があり、各種商習慣や広範な商品知識が盛り込まれ、卒業すると大抵の商売の基礎知識が身についていたという。ちなみに、商人の子どもには商売往来、職人の子どもには番匠往来、農民の子どもには百姓往来という教科書があり、それぞれ専門的な個別教育がなされたようである。

葛飾北斎画の五百羅漢での町人たちの様子。江戸経済が円熟期に入ってくると町人たちもレジャーを楽しむ余裕が生まれてきた商人の子どもたちは、日々の暮らしの中で将来に向けて勉学に励んでいた。読み書き算盤は言うに及ばず、各種商品知識や商習慣、接客のための言葉使いなど多岐に及んだ

江戸の商売双六、上がりは大店の店主を目指して

もちろんすべての人が寺子屋に通えたわけではない。江戸時代の平均識字率は70%で、武家は100%であるから、町民は60%くらいの人が通っていたのではないかと推察される。

未就学家庭の子弟は、当時の社会習慣では商店に雇用されることができず、早朝に河口や堀でシジミなどを獲り、近隣の朝食に間に合う時間に売り歩いたり、街角に出て辻占を売り歩いたりといったように、日々の糊口を凌ぎつつ、振売商売の実地を学んでいったようである。

他にも、元手がなくてもできる商売に「灰買い」や「古傘買い」などがあった。灰は染色業が必要とし、古傘は油紙を張り替えて再利用するためのものである。

江戸という街は現在では考えられないほどのリサイクル都市であり、すべての生活が再生品によって支えられていたため、古着屋や損料屋と呼ばれるレンタル業はもちろん、アイデア勝負の珍商売も少なくなかった。

広重画の日本橋早朝之図。大名行列の前を棒手振りたちが商売に出かけて行く姿が描かれている。参勤行列に出会うと町人は、土下座するイメージがあるが、実際には道を譲るだけでよかった広重画の日本橋早朝之図。大名行列の前を棒手振りたちが商売に出かけて行く姿が描かれている。参勤行列に出会うと町人は、土下座するイメージがあるが、実際には道を譲るだけでよかった

江戸に出てきた多くの人々は担ぎ商いから身を起こし、裏店に小さな店を構え、知恵を絞り、さまざまなアイデアを出し、切磋琢磨をし、将来は表通りに大店を構えることを夢見て仕事に励んでいたのである。

ちなみに当時の分限者の筆頭は、なんと言っても札差しであった。札差しとは、武家の収入源である年貢米を換金する商売で、米俵に札をさして、自店の取り扱いを表明したことに由来する。江戸時代の代表的な大金持ちグループの「十八大通」のメンバーを見ても、札差しの数が圧倒的であり、次いで吉原遊女屋の主人であった。

札差しは営業権が定められているため新規参入はできないが、奉公人から頭角を現し婿養子に入ったり、優秀さが認められて親戚筋から後継ぎ養子になったりすることで、憧れの札差しまでたどり着いたケースがあったようである。

広重画の日本橋早朝之図。大名行列の前を棒手振りたちが商売に出かけて行く姿が描かれている。参勤行列に出会うと町人は、土下座するイメージがあるが、実際には道を譲るだけでよかった葛飾北斎画の品川御殿山の富士見の花見図。当時の品川宿御殿山付近は大店の寮や隠居所が建てられた景勝地だった。現代のヒルズ族的なステータスが御殿山にあったのである

アイデア勝負の珍商売、猫のノミ取りや一人相撲、親孝行をネタにしたものも

江戸で見られた珍商売をいくつかご紹介しよう。

筆頭はなんと言っても「猫のノミ取り屋」であろう。江戸中期元禄の頃になると町人文化が花開き、経済界も円熟期を迎えた。未曾有の好景気に浮かれた町人の間にペットブームが巻き起こり、それに便乗して生まれたのがノミ取り屋である。しかし、ノミ取りのノウハウがあっという間に世間に広まり直ぐに廃れてしまった。

「一人相撲」という商売もあった。現代社会では無駄な努力といった意味の比喩表現になってしまったが、元はれっきとした商売である。呼び出しに始まり行事の掛け声を真似、力士の特徴をデフォルメした取り組みをひとりでこなす大道芸の一種でモノマネ芸の相撲版である。

「親孝行」という商売は、老いた親を背負って「親孝行でござーい」と言いながら銭を乞うというもので、実際に一定の身入りがあったというから何とも長閑な時代であった。

これは江戸市民たちの共通感覚である「功徳は自分に返る」というものを利用した商売で、日頃食べていた鰻や魚、亀などを逃して命を救い、功徳を施すという「放生会」が、大々的に行われていたのと同じ図式である。ちなみに背負っている親はハリボテで作ったものもあったと史料中にあるのが、まさに「功徳を施す」ことこそが主眼であり、施す相手方はどうでもよかったようだ。

食いつなぐため、そして将来の夢のため、アイデア勝負のさまざまな珍商売が存在したのである。

歌川国貞画の黒岩重太郎と小柳常吉の取組図。江戸の娯楽といえば、女は芝居見物、男は相撲見物と相場が決まっていた。大道芸人も相撲や芝居のモノマネが人気を博した歌川国貞画の黒岩重太郎と小柳常吉の取組図。江戸の娯楽といえば、女は芝居見物、男は相撲見物と相場が決まっていた。大道芸人も相撲や芝居のモノマネが人気を博した

職業も身分も家名も商売の対象に。莫大な富を掴む可能性がある江戸ドリーム

江戸時代の庶民が普段買い物をするのは床見世や葦簀張(よしずばり)と呼ばれる簡易商店であった江戸時代の庶民が普段買い物をするのは床見世や葦簀張(よしずばり)と呼ばれる簡易商店であった

江戸商売の極め付けは、身分さえ売買の対象にしてしまったことだろう。江戸時代後期になると、社会構造の基本である武士優位の身分制度が崩壊し始める。

貧乏御家人、不良御家人などという言葉が生まれるほど、武家の困窮は顕著となった。年貢米を札差しに換金してもらうなどという婉曲な経済構造では、町民の貨幣経済に対抗すべくもなく、武家は借金まみれにされ、遂には家名さえも借金のカタに売り払うまでに落ちぶれてしまうのである。

当時の武士の雇用形態は仕事への対価ではなく、身分に所得が付いているのが原則で、身分によって領地米、扶持米、切米という具合に米で給金が支払われる。役に就くと別途お役料が支給されるが、概ね持出しであったようである。これが武家の衰退の原因のひとつとなった。

農業生産力の向上は、供給量が増えたことで米価の下落を招き、収入が激減する結果を引き起こした。それ故、役に就いた者はせっせと袖の下(そでのした)を取り込み、金主に便宜を図る事で不足分を補うといったことが構造的に行われていた。

また無役の武家は札差しから前借りという名の借金をし続け、結果、俸給では利息分の支払いもできなくなり、デフォルトを起こし家名を投げ出すこともあったのである。

幕末の有名人の中には、このような形で家名を引き継いだ人たちも多く存在する。幕末の官吏である川路聖謨も、父親の吉兵衛が江戸に出てきて御家人株を入手し、官僚への切符を手に入れた人物である。

勝海舟の曽祖父は新潟の農民の子で、視覚障害を持っていたため江戸に出て鍼医になり、努力して米山検校となった人物である。そして自分の子どもに男谷家から取り上げた旗本の身分を継がせた。

江戸幕府は徹底した小さい政府を貫いた政権で、各種事業者に株仲間という自治組織を組ませ、管理運営を任せた。社会福祉や障害者政策も町別に自治組織を作り、そこで暮らす市民にすべてを丸投げして、社会秩序を形成させていた。

そんな中でうまく立ち回れた者は莫大な富を掴み、できなかった者は貧困にあえいだ。江戸の街は本当の意味での自由競争社会であった。元手が無くても、寺子屋に行かなくても、ブラックな店の奉公人でも、才覚次第で莫大な富を掴める可能性がある、江戸ドリームが実現できる社会だったのである。

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