長崎市中心部に建つアパート。戦後最初期1948年度に設計された「48型」
2021年10月16日、長崎の有志団体「長崎ビンテージビルヂング」が中心となって開催したまち歩き&オンライントークイベント「長崎のビンテージなビルを掘り起こそう!」。ここで取り上げられた一番の目玉の建物が、現存最古級の鉄筋コンクリート造公営住宅「旧魚の町団地」だ。後述するが、長崎生まれのノーベル賞作家、カズオ・イシグロとの関連も推測されている。
「旧魚の町団地」は、終戦から間もない頃に「酒屋町団地」として建設された。鉄筋コンクリート造4階建て、全24戸。団地といっても1棟だけで、有名な「眼鏡橋」にもほど近い、長崎市の中心部にある。つい2年前(2019年)まで県営住宅として使われていたが、現在は廃止されて無人になっている。
戦後の公営住宅の設計で、最も有名なのは「51C」だ。ダイニングキッチンの祖型となった間取りで、当時の建設省が設計図書一式をつくって全国に配布し、これに基づいて各地に県営住宅や市営住宅が建てられた。
「51C」とは、「1951年度」の「C型」を指す。
対して、「旧魚の町団地」は「48型」。つまり、51Cに先立つ1948年度の設計だ。48型には、敗戦後の混乱のなか、早く良質な住宅を庶民に提供するための、試行錯誤の過程が刻まれている。
戦後第1号 RC住宅「47型」は2棟のみ。第2弾「48型」が各地に建てられた
戦後第1号の鉄筋コンクリート(RC)造による公営住宅は、東京都心の高輪に建てられた。それまでの復興住宅は木造平屋で、まだ資材も逼迫するなか、RC造のアパート建設は世論から厳しい反発を受けたらしい。押し切ったのは当時の戦災復興院総裁・阿部美樹志で、若い頃アメリカに留学して鉄筋コンクリート構造の技術を学んだ人物だ。建設資材をGHQから調達し、不燃住宅のお手本を目指した。1947年8月に計画を決定、丸1年後の1948年8月に完成を見ている。この間に、戦災復興院は建設省に名前を変えた。
この47型「東京都営高輪アパート」は、2棟48戸つくられ、構造・材料・設備などの研究者が入居して「高輪アパート研究会」が結成された。実際に住みながらその設計・施工の課題を検討する目的だ。第1号である47型が、その後の住宅供給計画のために、いかに重要視されていたかが分かる。
魚の町団地を含む48型公営住宅は、47型の改良版として設計された。47型の竣工前に着工しているので「高輪アパート研究会」の成果は反映されていないが、RC造公営住宅を全国に建てるための、先行テストのような事業だったようだ。背景には、RC造技術の普及目的があった。長崎大学の安武敦子教授は、次のように解説する。「戦時中は資材統制で長く鉄筋コンクリート造の建物がつくれず、その間に技術が失われてしまいました。48型の事業では、全国の主要都市にRC造アパートを少数ずつ建てることで、各地に技術者を育成しようとしたようです」
48型の供給目標は3万戸だったが、資材不足のため、実際に建てられたのは、全国14都市に、合わせて1700戸余りという。その先行14都市に長崎と広島が加えられたのは、原爆で甚大な被害を受けたことによる。長崎市では戦時中に戦前の約4割の住宅が失われ、1948年時点でも、1人当たりの居住面積は2.64畳と、全国で最低水準に留まっていた。
48型が設計された翌年には、47型・48型の検討を踏まえて本格的な全国展開に向けた標準設計「49型」がつくられ、48型は廃止された。
長崎「魚の町団地」は、現存3棟中でも建設当初の間取り・内装がよく残る
戦後第1号の47型・高輪アパートは解体されてすでにない。14都市に建てられた48型公営住宅も、現存が確認されているのはたった3棟だ。その貴重な1棟が、「旧魚の町団地」というわけだ。「現存する3棟の中でも旧魚の町団地は、建設当時の間取りや内装がよく保存されていることが特徴です」と前出の安武教授。
「48型」は1戸14坪の、今風にいえば「2K」だ。階段室が南側にあり、玄関を入ると正面に洗面、トイレがある。続いて台所、南に8畳・北に6畳の和室があり、玄関からどの部屋にも直接入れるように工夫されている。バルコニーはなく、南北両側に窓、角部屋には東西方向にも窓がある。
台所には床から天井までの棚が造り付けられている。引き出しや引き違い、網入りの戸など、きめ細かな設計だ。棚の右奥には配膳のためのハッチが見える。流し台は更新されているが、シンクの隣にダストシュートが残る「47型」からの改良点として、天井を少し高くし、床の間をなくして押し入れを二間に増やしたことなどが挙げられている。床の間の代わりに、向かい側の壁の一部に幕板を付けて「織部床」とした。台所と和室の間にハッチを設けたのも、このときだったようだ。
屋上に洗濯・物干し場、地下に各戸の倉庫。78年には浴室を増設
上/屋上。今は周囲をビルに囲まれているが、昔はここから約700m先の県庁の時計台が見えたという 下/東側外観。壁の上に大きく「魚の町団地」と書かれている。1階の床下換気口が地面からやや高い位置にあるのが分かる屋上には、共用の水栓と流し場、物干し場が設けられた。各戸の南側の窓にも洗濯物を干せるようになってはいるが、下の階にしずくが落ちることや美観の問題から、屋上に共同の洗濯場を用意したようだ。
また、47型から48型への大きな変更点として、1階を地面から半階高くし、地下室をつくって戸数分の倉庫を設けたことがある。前述の押し入れといい、この物置きといい、収納は、今も昔も生活者にとっての難題のようだ。
建設当時は風呂なしだったが、1978年に、階段室の前に浴室が増設された。お風呂に入るためには、いったん玄関を出て階段を半階分上らなければならないが、銭湯に通うことに比べれば、各戸に一つの浴室は、当時としてはありがたいことだったのではないだろうか。
ちなみに、残る2棟の現存48型は、広島市と下関市にある。おのおの浴室を増設しているが、写真で見る限り、広島の平和アパートは南側和室の前面に、下関の清和園住宅は北側和室の前面に設けているようだ。魚の町団地の場合、北は敷地にゆとりがなく、南も和室前では通路を塞いでしまうため、苦肉の策として階段室前に設けたと思われる。
“カズオ・イシグロの日本”に刻み込まれた、幼少時に見た団地の記憶
最後に、カズオ・イシグロのことに触れておこう。イシグロは1954年、長崎市新中川町に生まれた。当時、隣の中川町には、魚の町団地と同じ48型の「中川町団地」があった(1980年代に解体)。イシグロの幼少期には、築5〜10年ほどの、まだ新しい建物だったはずだ。
イシグロの長編デビュー作『遠い山なみの光』と第2作『浮世の画家』は、終戦後の日本を舞台にしている。イシグロはノーベル文学賞受賞記念講演で、この2つの作品を書くことによって「私の日本を保存できた」と語っている。5歳で家族とともにイギリスに移住し、日本から遠く離れて成長するうちに、イシグロの心の中だけに、「精緻に作られつづけ」た「『私の』日本」だ。
その“イシグロの中の日本”を描いた2つの作品に、ともに団地が登場する。
『遠い山なみの光』では、長崎からイギリスに渡った主人公・悦子の回想。彼女が長崎時代に住んでいたのが、復興のために建てられた「四十世帯くらいを収容できるコンクリート住宅」だった。
いっぽう、『浮世の画家』は、長崎が舞台とは書かれていないが、主人公の画家・小野の末娘・紀子が新婚の夫と「団地の一室」に入居する。時代設定は「1949年11月」。まさに魚の町団地完成の直後だ。小説の中で小野は「比較的裕福な若夫婦」が「好んで住みたがる新しい団地」と語っている。
紀子の新居は「四階の小さな二間の間取り」で、魚の町団地を連想させる。描写ではお風呂が存在しているなど、実際とは異なる部分はあるものの、“イシグロの中の日本”に深く刻み込まれた光景として、魚の町または中川町の、団地の情景があったことは、ほぼ間違いないのではないか。
県営住宅としては廃止され、今は封鎖されている「旧魚の町団地」だが、管理する長崎県は保存活用策を模索している。庭の手入れや清掃を行い、「ながさき県政出前講座」のメニューの一つとして、随時内部見学も受け付ける。今後は住戸のお試し利用や市場調査も検討しているという。日本の戦後住宅史・生活史の重要な生き証人として、次代に引き継いでいってほしい。
ながさき県政出前講座
https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kenseijoho/goiken-gosodanmadoguchi/kocho/demae/index.html
資料提供
長崎県土木部住宅課
長崎大学工学部建築計画・都市計画研究室(安武研究室)
参考文献
鈴木成文『五十一C白書 私の建築計画学戦後史』住まいの図書館出版局
建設省住宅局住宅建設課「公営アパートの設計について-標準設計の背景と展開」建築雑誌1952年1月
カズオ・イシグロ『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー ノーベル文学賞受賞記念講演』『遠い山なみの光』『浮世の画家[新版]』いずれも早川書房
公開日:










