幾度も繰り返すコレラ禍の中、数多くの偉業を成し遂げた渋沢栄一
2021年の大河ドラマは、コロナ禍の影響により麒麟が去るのが2ヶ月ほど遅れ、異例の2月14日のスタートとなった。ドラマタイトルは「青天を衝け」、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一の生涯を描いたものである。
実は栄一は経済面での活躍だけでなく、生涯を掛けて福祉に尽力したという一面も持っている。そしてその時代背景には幾度ものコレラパンデミックがあり、そんな中で、数多くの偉業を成し遂げ、新しい時代を築いた。
「青天を衝け」のタイトルは、栄一が書いた漢詩の一節「勢衝青天攘臂躋、気穿白雲唾手征」が元になっていて、青空をつきさす勢いで肘をまくって登り、白雲をつきぬける気力で手に唾して進むという意味である。
渋沢栄一の事績については大河ドラマで詳しく再現されると思われるが、ここで簡単にご紹介しておくと、農民の子として生まれ、藍玉商人になるも、尊王攘夷の志で横浜焼き討ちを計画。しかし計画は頓挫し、京都へ逃走。そこで一橋慶喜の家臣となってヨーロッパへの視察へ同行する。その後、大政奉還で新政府の役人になるも、官界の限界を感じ退職。日本初の銀行を設立したのをはじめ、全国に500超の企業や、一橋大学ほか多くの大学を設立し、福祉事業、果ては民間外交まで行った立志伝中の人である。
コレラ禍の中で人生のスタートを切った渋沢栄一
有為転変の人生とは、まさにこの人の生涯といえる。栄一が結婚、商人としてスタートを切ったのは、ちょうど日本中でコレラパンデミックが吹き荒れていた頃であった。
栄一は1840年(天保11年)、現在の埼玉県深谷市血洗島の豪農、渋沢市郎右衛門の長男として生まれた。農業のほか、藍玉と呼ばれる染料の製造販売や養蚕も手がける裕福な家庭で育ち、当時の農民としては珍しく漢籍や論語、四書五経を治め、神道無念流の剣術も学んだというから、その豊かさの程がうかがえる。
栄一が満18歳の時、妻帯してこれから独り立ちしようかという1858年(安政5年)は、既に長崎に上陸していた世界的な第3回コレラパンデミックが日本全土で猛威を振るっていた頃であった。江戸だけでも死者は3万人を数え、火葬しきれない棺が山と積まれた光景があちこちに見られたという。
当時の市民はパンデミックで平常心をなくした状態にあり、経済活動も停滞していた。当然、藍玉や養蚕といった贅沢品に繋がる産業は、将来を危ぶむ声もあった。そんなコレラ禍の真っ只中に、栄一は人生のスタートを切ったのである。
栄一が向学心に燃えて上京した矢先、またもやコレラパンデミックが発生
栄一が21歳の時、江戸に遊学し、大儒者海保漁村の門下生となったのは1861年(文久元年)、時代はまさに幕末であった。勉学の傍らお玉ヶ池の千葉道場にも通い、剣術修行をしながら勤皇の志士達とも親交した。同時期に坂本龍馬も小千葉道場に寄宿していたから、接点があったかもしれない。
ところが翌年、純粋に向学に燃えていた栄一を尊王攘夷へと誘う事件が起こる。江戸市内を襲った4回目のコレラパンデミックである。この時の被害は前回の数倍の規模に上ったという。夏に麻疹が流行し、その追い討ちをかけるようにコレラが蔓延したことで未曾有の災害となった。
この死の疫病は外国人と共にやってきた。当時の憂国の知識層は、こぞって外国人の入国を禁じ、排除する攘夷思想に傾斜していった。栄一も義兄や従兄弟を伴い、高崎城を乗っ取り、武器弾薬を奪って横浜外人居留地を焼き討ちした後、長州藩と合流して幕府を倒す計画を立てていた。
ところがいざ決行という前夜、栄一たちを震撼させる情報がもたらされる。京都に情勢の偵察に行っていた仲間の尾高長七郎により、尊王攘夷の要である長州藩が、会津藩、薩摩藩ら公武合体派による政変で破れ、京都から追放されたことを伝えられたのである。「八月十八日の政変」である。
窮鳥敵方の懐に飛び込んで栄達、コレラ禍のヨーロッパで得たもの
長州藩の敗北は、栄一たちの計画の頓挫を意味した。栄一は高崎城攻略の嫌疑を逃れるため、従兄弟と共に勘当の体裁を整えて京都へ逃走。その際に頼ったのが、旧知の公武合体・開国論者である一橋家用人、平岡円四郎であった。
尊王攘夷派の志士として立ち上がろうとしていた者が、敵方の公武合体派に庇護を求めたのは、いささか節操がないように感じられるが、栄一にとっては、大行は細謹を顧みずといったところだろうか、些細なことだったようだ。
京都で一橋家に召し抱えられた栄一は名を篤太夫と変え、強兵と産業奨励に尽力することとなる。そしてその功績が認められ、一橋慶喜が将軍職に着くと、慶喜の異母弟であり後の水戸藩主である徳川昭武のパリ万博参列の随行使節に選ばれたのである。
しかし当時のヨーロッパは大規模なコレラパンデミックの渦中にあった。そんな非常事態とも言える中、栄一は1年半にわたりヨーロッパを歴訪。社会制度や機構、思想、文化など進んだ近代国家の姿を目の当りにし、それを素直に受け入れ、驚くほど素早く吸収していったという。
このフランスで培われた経験や価値観が、今後の栄一の思想や行動に大きく影響を与えていくことになる。また官と民が対等に渡り合う姿を見て人間平等主義に目覚め、近代的で平等な社会の実現、そのための民による商業の発展に尽力するきっかけになったと言われている。
嫌いだった役人になり目覚ましい働きをするも、やっぱり嫌気がさして退官
ところが時代はまた大きな転換を迎えることとなる。栄一が27歳の時、1867年(慶応3年)10月14日に慶喜は大政奉還、明治新政府が誕生した。栄一は翌年の11月に日本へ帰国、慶喜を慕う気持から駿府へと向かった。
そこで栄一は、慶喜の旧恩に報いるため、ヨーロッパで学んできた知識を生かし、現在の銀行と商事会社の業務を兼務したような金融会社を設立した。それが日本で最初の「合本(株式)組織」、静岡商法会所である。資本は静岡藩石高拝借金と地場商人の資本を合同させ、栄一は頭取として経営上の主務を務め、事業成績はすこぶる好結果であった。
ところが栄一が29歳の時、これまでの功績が中央の目に留まり、新政府から招聘されてしまう。実は栄一は元来、役人嫌いで、埼玉の深谷時代から再三役人とぶつかり、困った市郎右衛門の思案により江戸に遊学させられたほどである。かと言って政府の招聘に逆らうこともならず、仕方なく出仕をしたのである。
その働きぶりはというと、持ち前の生真面目さ故か、大望を成すためと悟ったか。あんなに嫌がっていた役人だったのに、大蔵省の機構改革、日本全国測量、度量衡・租税制度・貨幣制度の改革、藩札の処理など、数えきれないほどの目覚ましい功績をあげていく。
これら栄一の功績の中でも大きいのは、日本に初めて欧州の近代会計学を紹介したことであろう。それ故、日本資本主義の父と呼ばれ、栄一が執筆した株式会社の作り方の手引書とも言える「立会略則」の中にも、その会計学の知識が活かされている。
これはフランス滞在中に、日本名誉総領事で銀行家であったフリュリ=エラールから会計などの実務知識を学び,さらにサン=シモン主義(資本主義の根本概念)を知ることができたことが大きかったとされる。
結局、栄一は大蔵少輔事務取扱いまで登りつめながら、やっぱりというかなんというか、官界の硬直した体制に嫌気がさし、1873年(明治6年)に大蔵省を退官してしまう。栄一が満33歳のことである。
個人だけでなく公共も利するものでなければ正しい商売とは言えない
既にここまででもジェットコースターのような目まぐるしさで、さまざまな功績を成し遂げているのだが、ここからが渋沢栄一の本領発揮である。
官界を退いた栄一は水を得た魚の如く日本中を飛び回り、会社設立のために回天の働きを示す。生涯を通じて関係した事業は500以上にのぼると言われていて、業種も多岐にわたる。
大蔵省を辞した後、かねてより思い描いていた「日本の近代化、発展のために商工業の発達を図りたい」という志を実現すべく、初めに手掛けたのは日本初の近代銀行「第一国立銀行」の設立であった。
近代国家に相応しい金融機関の整備が急務であった新政府は、伊藤博文がアメリカで行った調査の報告書(米国紙幣条例)をもとに「国立銀行条例」を制定。これに基づき1873年(明治6年)7月、栄一が総監役となって第一国立銀行が営業を開始した。しかし、それは栄一の思い描いた銀行像とはかけ離れたものであった。
というのも同行の大口出資者が三井組と小野組で、この2社の意向が強く反映された官公金と株主出資金を運用する業務が重視され、資金融資先となる民間の取引先はなかなかできず、また行員は派遣元を通じた又貸しを行い、その際無担保で多額の信用貸しを行うなど「私」の利益誘導を行いがちであった。
その後、1875年の小野組の破綻を受け、栄一が頭取に就任。名実共に経営の実権を握った第一国立銀行がスタートした。この新体制の第一国立銀行は、栄一の持つ「道徳経済合一説」を体現しようとした組織であった。
道徳経済合一説は渋沢式経営学の根幹であり、道徳心と経済活動という一見違反する理念の合一の上に成り立っている。「一個人がいかに富んでいても、社会全体が貧乏であったらその人の幸福は保証されない。その事業が個人を利するだけでなく、多数社会を利してゆくのでなければ、決して正しい商売とはいえない。」との栄一の著書の中にある通り、公共の利益と個人の利益の両立を図ることを念頭において事業展開されたのである。
栄一の信条は論語の「五条(仁義礼智信)」にあり、仁義道徳と生産殖利とは元来共に進むべきものという考えであった。栄一の講演録にこんな一節がある「孔子は義に反した利は之を戒めて居りますが、義に合した利は之を道徳に適ふものとして居る事は、富貴を賤むの言葉は皆不義の場合に限つて居るに見ても明かであります。『不義而富、且貴、於我如浮雲』と云ひ『富与貴是人之所欲也、不以其道得之不処也』と云ふたのは、決して富貴を賤んだのではなく、不義にして之を得ることを戒めたのであります。」(※渋沢栄一伝記資料より)
金儲けが賤しいのではなく、道徳つまり公共の利益をおろそかにして自分だけの利益を追求することは正しいこととは言えない。公共の利益と共に自分の利益を追求することは決して悪いことではないと言っているのである。
社会福祉事業に尽力する中、コレラ禍により妻も命を落とす
東京都板橋区にある東京都健康長寿医療センターは渋沢栄一が創り上げた養育院の後継機関。困窮者、病気の者、孤児、老人、障がい者などの救済を目的にした施設で、病院、乳児院、孤児院、養老院の機能を併せ持っていたそうは言っても徹底したリアリストであった栄一は、現実世界では公共の利益や道徳は後回しにされることも十分に理解していた。市場参加者は不正がない限り、その結果を受け入れざるを得ない。しかし、その結果の中には道徳的に許し難いことも多く含まれている。栄一にとって、大量の貧民の存在がそれであった。
そこで、栄一は、その自己矛盾を解消するかのように社会福祉事業にのめり込んでいく。1874年(明治7年)、現在の福祉事業の原点とも言うべき、困窮者、病気の者、孤児、老人、障がい者の保護施設である「東京養育院」の運営に関わり、1876年(明治9年)には事務長に就任。
養育院が東京市営となった後は養育院長となり、91歳で逝去するまで50年間にわたり、公費私費を駆使し運営に尽力した。また、完全なる民間資金による中央慈善協会も設立、会長を勤め、窮民救済事業を広めていった。
しかしその道のりも決して平易ではなかった。一旦は収束したかに見えたコレラパンデミックは、1877年(明治10年)に再度全国に拡大。死者は8,000人を数え、その2年後には更なる大流行となり死者は11万人となった。
その後も収まるところを知らず、小康状態と大流行を繰り返しながら、1882年(明治15年)には死者5万人、その後数年おきに死者4万人余、死者5万人と被害を出し続けた。栄一の妻も1882年のパンデミックで命を落としている。
そんな中、栄一は50年もの長い時間を窮民救済の慈善事業に奔走し、また数多の事業を起こし成功させたのである。彼がその志を成し遂げることができたのは、「日本全国の公益を謀ることこそ商の主本要義にかなふと云うべし」という理念を貫くために、ひとえに青天を衝き、白雲を穿ち続けたからに他ならないのである。
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