丸の内のオフィス街でひときわ目を引くレトロな赤レンガの建物

JR『東京』駅丸の内口からオフィス街の中を5分ほど歩くと、美しい赤レンガの建物が見えてくる。近代的な高層ビルが林立する丸の内エリアにおいて、地上3階建てのレトロモダンな外観はひときわ目を引く存在だ。

この建物は『三菱一号館美術館』。“丸の内の大家さん”と呼ばれている三菱地所が2010年に開設した美術館で、一見したところ「周辺の再開発から唯一取り残された伝統的建造物」のようにも見える。しかし、実はまだ築10年を迎えたばかりの建物だという。

東京屈指のビジネスタウン・丸の内の一等地に、なぜこのような建物が存在しているのか?
『三菱一号館美術館』誕生の経緯について、広報担当の福士さんにお話を聞いた。

▲雑誌やドラマの撮影スポットとしてもお馴染みの『三菱一号館美術館』。<br />この建物の存在は知っていても、ここが美術館だということを知らない人が意外に多いという▲雑誌やドラマの撮影スポットとしてもお馴染みの『三菱一号館美術館』。
この建物の存在は知っていても、ここが美術館だということを知らない人が意外に多いという

取り壊しから復元へ、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの名建築

▲三菱一号館美術館広報担当の福士さん。「もともとオフィスとして設計された建物なので、小さな部屋が並んでおり、大型作品の展示はできません。これも『三菱一号館美術館』の個性になっており、学芸員もその条件を考慮に入れながら展覧会を企画しています。建物のサイズ感が小さいぶん、来場者の方からは“作品との距離感が近くに感じられる”とのお声をいただくこともあります」▲三菱一号館美術館広報担当の福士さん。「もともとオフィスとして設計された建物なので、小さな部屋が並んでおり、大型作品の展示はできません。これも『三菱一号館美術館』の個性になっており、学芸員もその条件を考慮に入れながら展覧会を企画しています。建物のサイズ感が小さいぶん、来場者の方からは“作品との距離感が近くに感じられる”とのお声をいただくこともあります」

「この『三菱一号館美術館』は、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルの設計で明治27(1894)年に建てられた丸の内初のオフィスビル『三菱一号館』を復元した建物です。

戦後の高度経済成長期の昭和43(1968)年、老朽化のため三菱一号館は取り壊されてしまったのですが、その後約40年が経過し『丸の内再構築計画』の中でもとの建物の復元計画が持ち上がったのです」(以下「」内は福士さん談)

大通り側から眺めるとわかりにくいが、美術館の正面入口へまわってみると広々とした庭園が広がっている。美しい緑の植栽に囲まれ、彫刻作品が立ち並ぶ風景は、ここが丸の内であることを忘れてしまうほどの優雅さだ。

こうした“都心のオアシス”とも呼ぶべき公共スペースをつくることにより、三菱地所としては隣接する複合ビル『丸の内パークビル』を増床することができたわけだが、本来ならばこの『三菱一号館美術館』の敷地にもっと収益性の高いオフィスビルを建てることは可能だったはず。そう考えるとあまりにも贅沢な設計といえる。

「復元計画はいろいろな要素や環境がうまく重なって実現しました。そもそも明治当初に描かれたコンドルの設計図が戦火を免れ、現代まで保管されていたことも奇跡だったかもしれません」

パリのルーブルやニューヨークのMoMA同様に、丸の内に文化施設をつくる

しかしなぜ丸の内のこの場所で、オフィスでもホテルでもレストランでもなく『美術館』として建物を復元することになったのか?

「復元計画当時のメンバー間で課題に挙がったのは、『どの程度まで復元するのか?』ということと『復元できたとしてもここに何をつくるのか?』ということでした。中にはホテルをつくるという案も出たそうですが、社員へのアンケートなどで“丸の内には文化施設が足りない“ “パリにはルーブルがあり、ニューヨークにはMoMAがあるのだから、丸の内にも地域の核となるような文化施設がほしい”といった声が多く聞かれたそうです。様々な議論の結果、建物を復元して美術館をつくることが決まったのです。

しかし、美術館の場合は一般の建物と違って、作品を守るための温湿度調整や、作品を搬入するための導線確保、そして、館内を観覧移動する人たちの動線についても配慮しなくてはいけません。開設準備室では“コンドルが設計した明治27年の三菱一号館の初期の状態に戻す(復元する)”ことを目標としていましたが、忠実に復元しようとすると、美術館としての機能が成り立ちにくくなる…そうした課題との調整に大変苦労したと聞いています」

▲三菱一号館美術館の中庭。スレート屋根や尖塔の鋳物もコンドル設計を忠実に復元している。美しい風合いの外観のレンガは、中国の長興市で作られ船便で運んできたもの。当時すでに国内のレンガ職人の数は少なくなっており、全国の職人たちに声をかけ、約100名が集められたという。「外壁のレンガ積みを行う化粧煉瓦職人には選抜技量試験も実施しました」▲三菱一号館美術館の中庭。スレート屋根や尖塔の鋳物もコンドル設計を忠実に復元している。美しい風合いの外観のレンガは、中国の長興市で作られ船便で運んできたもの。当時すでに国内のレンガ職人の数は少なくなっており、全国の職人たちに声をかけ、約100名が集められたという。「外壁のレンガ積みを行う化粧煉瓦職人には選抜技量試験も実施しました」

倉庫の中に残されていた当時の建物パーツを基に、コンドル設計を忠実に復元

「コンドルの意匠」と「美術館としての機能」の双方を、どのように調和させながら復元していくのか?そんな苦労の跡が館内随所にみられるため、近年は美術ファンだけでなく、建築ファンも多く訪れているという。

「例えば、階段の手すり。これは“解体される前の建物の手すりの一部”が倉庫の中に保存されており、それを使って復元させたものです。コンドルの設計図では伊豆青石が使われていましたが、復元では質感や色合いがよく似た中国の雲石を使いました。よくよく見てみると当時の手すりの部分だけ色味が少し違っているので、コンドル設計のファンの方々の撮影スポットになっています。

昭和の解体当時、“いつかまたこの建物のことを調べる時が来るかもしれない”と考えて残しておいてくれたのでしょう。手すりの他にも様々な部材が倉庫の中に眠っていたそうです。また、照明器具については、昭和期に蛍光灯に変えられてしまったので、もともとのデザインがわからなくなっていたのですが、同じくコンドルが設計した『旧岩崎邸(台東区池之端)』の照明デザインなども参考にして復元しました」

もともとの三菱一号館自体は、事務所として設計された建物であるため、各部屋が縦割りのメゾネットタイプに分かれていた。しかし、美術館としての機能を考えると横移動の動線確保が必須だったため、コンドルの設計には無かった通路を新たに設けたそうだ。

「復元の際に設けた通路は“コンドルの設計とはまったくの別モノ”ということがわかるように、あえて近代的なガラス張りのデザインになっています。コンドルが設計した部分とそうでない箇所が明確にわかるようになっています」

また、現在の『三菱一号館美術館』は免震構造になっているが、当初のコンドルの設計図でも“地震大国、日本”を意識してもともと耐震建物として設計されていたという点にも驚かされる。

「コンドルは日本政府からの要請で明治10(1877)年に来日したのですが、明治24(1891)年に濃尾地震が発生し現地調査に入りました。その経験をもとに、三菱一号館の設計にも『耐震煉瓦造』を採用していたようですね。昭和の解体時には地中から建物を支えるための9000本近い松杭が出てきて皆が驚いたそうです。その構造のおかげもあって、大正12(1923)年の関東大震災の際にもこの建物は耐え、残りました」

▲左上:倉庫の中に残されていたパーツを使った石材の階段手すりは一部だけ色が違っている。右上:コンドルの設計図通り、建物はレンガ構造の上に木造建築を乗せた構造に。現在の建築基準法では、この規模の木造建築は本来建てられないルールになっているが、耐火性の実証実験を行った上で“復元”が許された。木造建築部分はガラス張りになっており、下階の展示室から中の様子を確認できるようになっている。雨どいは銅製、照明金具のネジのプラス・マイナスまで当時の設計に合わせたというから、復元への徹底したこだわりが窺える▲左上:倉庫の中に残されていたパーツを使った石材の階段手すりは一部だけ色が違っている。右上:コンドルの設計図通り、建物はレンガ構造の上に木造建築を乗せた構造に。現在の建築基準法では、この規模の木造建築は本来建てられないルールになっているが、耐火性の実証実験を行った上で“復元”が許された。木造建築部分はガラス張りになっており、下階の展示室から中の様子を確認できるようになっている。雨どいは銅製、照明金具のネジのプラス・マイナスまで当時の設計に合わせたというから、復元への徹底したこだわりが窺える

人々に愛され、100年後にも在り続けることができるような建物にしたい

「100年以上前のコンドルの設計図を見直し、改めて復元にチャレンジし、丸の内の原点を再び蘇らせたことは、とても意義のあることだと感じています。

せっかく“丸の内の文化発信施設”としてつくられた美術館ですから、今後は近隣のビジネスワーカーの方々にももっと親しんでいただきたいですね。この建物の成り立ちを知ってもらい、実際に利用してもらって、地域のみなさんに愛される存在になれたらいいなと考えています。人々に愛されてこそ建物を未来へ継承することができますから、100年後にもこの場所に在り続けることができる建物を目指していきたいですね」

丸の内エリアには、ジョサイア・コンドルの教え子であった辰野金吾設計の東京駅駅舎をはじめ、大正モダン建築の日本工業倶楽部会館、マッカーサー記念室が残るDNタワー21、戦後GHQに接収された明治生命館など、日本の近代史に名を残す名建築が多数現存している。

復元された『三菱一号館美術館』はこれらの建築物と比べるとまだとても若い建物ではあるが、築10年を経てそろそろ1回目の大規模修繕を計画する時期に入った。今後も長く良好に建物を維持しながら、ジョサイア・コンドルが思い描いた丸の内の風景を後世へと継承してほしいものだ。

■取材協力/三菱一号館美術館
https://mimt.jp/

▲1階にあるカフェ・バー『Café 1894』は、当時銀行営業室として利用されていた空間。床のタイルは洋食器ブランドでおなじみのミントン社のものが使われていたそう。「三菱一号館が建っていたときに、わたし、ここで職業婦人として働いていたの」と懐かしそうにカフェを訪れる女性もいたという▲1階にあるカフェ・バー『Café 1894』は、当時銀行営業室として利用されていた空間。床のタイルは洋食器ブランドでおなじみのミントン社のものが使われていたそう。「三菱一号館が建っていたときに、わたし、ここで職業婦人として働いていたの」と懐かしそうにカフェを訪れる女性もいたという

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