築110年の旧国鉄駅長官舎を一日一組限定の宿にリノベーション

明治42年(1909年)開業、今年110周年を迎えたJR肥薩線。熊本県の八代駅から宮崎県を通って鹿児島県の隼人駅までを結ぶ、全長124.2kmの鉄道路線だ。なかでも山間部を行く人吉〜吉松間は山あり谷ありで、変化に富んだ眺望は「日本三大車窓」の一つに数えられる。沿線には、開業時から使われ続けている昔懐かしい木造駅舎や、蒸気機関車時代の鉄道遺産が数多く残っている。

この肥薩線で最も標高の高い場所にある、矢岳(やたけ)駅の“駅前”に、2019年8月、「秘境オーベルジュ」を標榜する「クラシックレールウェイホテル人吉球磨」がオープンした。国の登録有形文化財にもなっている、元国鉄駅長官舎をリノベーションした一棟貸しの宿だ。

「クラシックレールウェイホテル人吉球磨」の畳のリビング。昔ながらの縁側のある和室の雰囲気はそのままに、襖をガラスの建具に入れ替えた。アイアン作家が製作したロゴをあしらっている「クラシックレールウェイホテル人吉球磨」の畳のリビング。昔ながらの縁側のある和室の雰囲気はそのままに、襖をガラスの建具に入れ替えた。アイアン作家が製作したロゴをあしらっている

矢岳駅に客室、大畑駅にレストラン。つなぐ線路はホテルの廊下

近年、古民家や駅舎を宿やレストランに活用する例は珍しくないが、「クラシックレールウェイホテル」がユニークなのは、複数の駅を結んで、鉄道の旅と地域色を生かした美食、歴史ある建物での宿泊体験を、パッケージで提供している点だ。

宿泊客はまず、山登りの入り口となる人吉駅でスタッフの歓迎を受け、観光列車「特急いさぶろう」に乗り込む。眺望スペースを備えた「いさぶろう」は、車内放送で見どころを解説したり、絶景地点で一時停止したり、乗務員が途中駅で記念撮影をサポートしたりとサービス満点だ。

人吉駅を出た「いさぶろう」は、しばらく「日本三大急流」の一つ、球磨川の流れに沿って走る。山中に差し掛かると急勾配を乗り切るためにスイッチバックし、さらに直径約600mの大きなループを描いて標高536.9mの矢岳駅まで登り切る。

矢岳駅から宿までは、一本道で100mほど。予めスタッフが客室に用意しておいてくれる湯船に浸かって一服したら、再び電車に乗って隣の大畑(おこば)駅に行き、レストラン「囲炉裏キュイジーヌLOOP」で夕食を取る。このレストランもまた、築110年の鉄道施設「旧国鉄保線区詰所」を改装したものだ。提供されるのは、豊かな地場食材を色とりどりに使い、郷土食のエッセンスを採り入れた創作フレンチのフルコース。経験豊かなシェフが宿泊客のためだけに腕を振るう、贅沢な“シェフズテーブル”だ。食後はロンドンタクシーで宿まで送ってもらう。

左上/大畑駅に途中停車する特急いさぶろう 右上/車窓から見る球磨川 左下/緑に包まれた矢岳駅 右下/「囲炉裏キュイジーヌLOOP」。オープンキッチンに立っているのはシェフの中務雅章さん。フランス、東京で修業し、人吉でフレンチレストランを経営した経験を持つ。地域の食材を知り尽くしたベテランシェフだ。背後の窓からは肥薩線の線路と桜並木が見える</br>(右下写真提供:クラシックレールウェイホテル)左上/大畑駅に途中停車する特急いさぶろう 右上/車窓から見る球磨川 左下/緑に包まれた矢岳駅 右下/「囲炉裏キュイジーヌLOOP」。オープンキッチンに立っているのはシェフの中務雅章さん。フランス、東京で修業し、人吉でフレンチレストランを経営した経験を持つ。地域の食材を知り尽くしたベテランシェフだ。背後の窓からは肥薩線の線路と桜並木が見える
(右下写真提供:クラシックレールウェイホテル)

人吉球磨にしかないものは何か。その答えが歴史ある鉄道遺産群だった

「クラシックレールウェイホテル」の仕掛け人の一人、中島秀豊さんが「日本初」を自負する「秘境オーベルジュ」の実現までには、約5年にわたる紆余曲折があった。

かつて兵庫・丹波篠山のNOTEで古民家再生に取り組んでいた中島さんの元に、人吉でまちおこしに取り組む人々が視察に訪れたのが2014年のこと。人吉球磨に残る約500軒の古民家を、観光振興に活かせないかという相談だった。

前職で熊本駐在経験を持ち、熊本出身の縁者もいる中島さんは、はじめボランティアで人吉に足を運び、300軒以上の古民家を見て回ったという。しかし、国を挙げて古民家再生に取り組んでいる今、他地域と同じことをして競争力が保てるとは思えなかった。

頭を悩ます中島さんに、地元の面々が紹介したのが大畑と矢岳、2つの無人駅だった。
「山中の無人駅と聞いて、はじめ想像したのは荒れ果てた廃墟のような風景でした。しかし実際に行ってみると、きれいに草むしりされ、掃除されていて、あきらかに地元の人に大切にされていると分かる、温かな雰囲気の駅舎でした。これならいける、と思いました」と中島さん。

本気で観光事業に取り組むには、任意団体のままではいけない。会社を設立しようとしていた矢先の2016年4月、熊本地震が発生し、プロジェクトは一時中断。約1年後に再開し、2017年5月に、元人吉市議会議員の村口隆さんを代表に立て、まちづくり会社、NOTE人吉球磨を設立した。 

次のハードルは、駅舎や鉄道遺産を所有するJR九州だ。NOTE人吉球磨が意気揚々とプレゼンに訪れたときは、表向きすげない対応だったという。
「うちの資産の使い道を、いったい誰と相談して検討しているんですか、と聞かれて、今日が初めてのご相談ですと答えたら、ひとまずお帰り下さい、と」(中島さん)
しかし、その言葉の裏で、実は熊本支社副支社長・矢古島竜太さんは、中島さんたちのアイデアを買っていた。さらに、話を聞きつけた国鉄OBで、JR九州人吉地区の統括名誉駅長を務める髙木正孝さんも後押ししてくれた。

結果、2017年8月、NOTEとJR九州、さらに人吉市と肥後銀行の間で、「人吉市における歴史的建築物活用に関する連携協定」が結ばれる。中島さんたちがJR九州熊本支社にプレゼンに行ってから、わずか2ヶ月後のことだった。

左上/「囲炉裏キュイジーヌLOOP」の外観。丸い筒状の構造物はかつての給水塔。その奥の切妻屋根の建物がレストランだ 右上/クラシックレールウェイホテル代表取締役の中島秀豊さん 左下/線路側からレストランの建物を見たところ 右下/ランチコースの一部。前菜は彩り豊かな「野菜のパフェ」。中務さんは「ちょっとしたサプライズのある盛り付けを心掛けている」と語る。郷土料理「つぼん汁」をフレンチ風にアレンジしたスープや絶妙な焼き加減のステーキなど、食材はいずれも地場産のもの</br>(右上以外写真提供:クラシックレールウェイホテル)左上/「囲炉裏キュイジーヌLOOP」の外観。丸い筒状の構造物はかつての給水塔。その奥の切妻屋根の建物がレストランだ 右上/クラシックレールウェイホテル代表取締役の中島秀豊さん 左下/線路側からレストランの建物を見たところ 右下/ランチコースの一部。前菜は彩り豊かな「野菜のパフェ」。中務さんは「ちょっとしたサプライズのある盛り付けを心掛けている」と語る。郷土料理「つぼん汁」をフレンチ風にアレンジしたスープや絶妙な焼き加減のステーキなど、食材はいずれも地場産のもの
(右上以外写真提供:クラシックレールウェイホテル)

線路と桜並木を眺めるレストラン、山里の昔懐かしい風情を味わう宿

融資が下りるまでに、また7ヶ月を要したが、連携協定から約1年後の2018年9月、まず大畑駅に「囲炉裏キュイジーヌLOOP」がオープンする。長く使われていなかった「旧国鉄保線区詰所」を、NOTE人吉球磨がJR九州から借り受け、新しく設立した運営会社、クラシックレールウェイホテルにサブリースするというスキームだ。中島さんがクラシックレールウェイホテルの代表を務め、新たに関東で14店舗の飲食店を経営する榊原浩二さん、関西でブランディング会社を経営する星加ルリコさんが参画した。

詰所の道路側にはあまり手を加えず、線路に面した部分を少し増築し、木製サッシの全面開口とデッキを設けた。大畑駅の線路沿いには地元有志が桜並木を植えており、2014年の日経電子版「専門家イチオシ 桜満開で乗って楽しい列車・船15」の鉄道編で、全国第2位に選ばれている。

レストラン開業からホテル開業まで1年空いたのは、中島さんの広報戦略だ。
「そうすれば、2回ニュースにしてもらえるので」と笑う。
この間、関係づくりのためにクラウドファンディングにも挑戦した。300万円の目標金額に対して338万3,000円を調達、117人の支援を得ている。

「宿の改修で大事にしたのは、初めて訪れるのになぜか懐かしい、“おばあちゃんの家”のような雰囲気を残すこと。一方で、お風呂や洗面、トイレなど水回りは最新の設備を入れて、快適に過ごしていただけるようにしました」。
山の中だけに秋冬は冷え込むので、全室に床暖房を敷設。建築当時のままの建具には、隙間風を防ぐコーキングを施した。

家具や什器は地元のアイアン作家・樺山明さんや、球磨伝統の「一勝地曲げ」を継承する木工作家・淋(そそぎ)正司さんに依頼。一木づくりの天板とアイアンの脚を組み合わせたテーブルやヘッドボード、曲げわっぱの風呂桶や風呂椅子を用意している。

左上/クラシックレールウェイホテル人吉球磨の外観。手前の建物は以前の持ち主が建てたもので築15年ほど。現在は宿のバックヤードとして使っている。奥が登録有形文化財の旧国鉄駅長宿舎。文化庁の「国指定文化財等データベース」によれば「全国的にも残存例が少ない明治期の鉄道官舎建築のひとつ」という 右上/畳の部屋から縁側を挟んで庭を望む。少しゆらぎのある古いガラスにノスタルジックな趣がある 左下/元厨房はカウンターキッチンに 右下/ヒノキの香り豊かな浴室。風呂桶などは地元の工芸品である「一勝地曲げ」(右下写真提供:クラシックレールウェイホテル)左上/クラシックレールウェイホテル人吉球磨の外観。手前の建物は以前の持ち主が建てたもので築15年ほど。現在は宿のバックヤードとして使っている。奥が登録有形文化財の旧国鉄駅長宿舎。文化庁の「国指定文化財等データベース」によれば「全国的にも残存例が少ない明治期の鉄道官舎建築のひとつ」という 右上/畳の部屋から縁側を挟んで庭を望む。少しゆらぎのある古いガラスにノスタルジックな趣がある 左下/元厨房はカウンターキッチンに 右下/ヒノキの香り豊かな浴室。風呂桶などは地元の工芸品である「一勝地曲げ」(右下写真提供:クラシックレールウェイホテル)

目標は、2025年までに九州7県に鉄道オーベルジュを設け、周遊を促すこと

ホテルの開業から間もない今は、クラウドファンディングの支援者で予約が埋まっているが、少しずつそれ以外の宿泊客も訪れ始めている。国鉄やJRのOB、その家族が懐かしそうに見に来たこともあれば、台湾のインフルエンサーが写真を撮りに来たこともあるそうだ。

クラシックレールウェイホテルが描くビジョンは、鉄道遺産オーベルジュを九州7県すべてに展開し、ぐるりと一周できるようにすること。目標は、2025年だ。
「そこに行かなければ味わえない、唯一無二の食と景色、体験を提供したい」。

クラシックレールウェイホテル人吉球磨 http://crh1.jp/

昨年行った、貸し切り列車の試験運行。大畑駅の桜並木をライトアップした</br>(写真提供:クラシックレールウェイホテル)昨年行った、貸し切り列車の試験運行。大畑駅の桜並木をライトアップした
(写真提供:クラシックレールウェイホテル)

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