国登録有形文化財の所有者の会によるイベント開催
文化庁の公式ホームページによると、建造物の登録有形文化財は2019(令和元)年7月1日現在で12,121件。登録の基準は、原則として建設後50年を経過したもので、①国土の歴史的景観に寄与しているもの②造形の規範となっているもの③再現することが容易でないもの、のいずれかに該当するものが対象になる。
これによって、全国各地で役所庁舎などの公共建築、民家、橋梁、灯台など、実にさまざまな歴史的価値のある建造物が保護されている。そのうち、有形文化財は重要文化財よりも制限がゆるやかなため、文化財として守りつつ、商業施設や地域活性化の拠点などとして活用されているところもある。
その登録有形文化財の所有者が参加する「国登録有形文化財建造物所有者の会」(登文会)がある。現在は大阪、愛知、東京など都府県単位で9つあり、それぞれの会の交流の場として、2019年6月に愛知登文会主催で「全国登文会フェスタ」が2日間にわたって開催された。
情報交換や意見交換を行う全体会や懇親会が行われたほか、愛知県内の登録文化財を巡る見学会を実施。今回、全4コースのうち、一宮市にある2つの登録有形文化財を見学するコースに参加させてもらった。
日本を代表する建築家・丹下健三の初期の特徴が見られる墨会館
最初に訪れたのは、一宮駅から車で約10分の場所にある「墨会館」。日本の建築家としていち早く海外でも活躍した巨匠・丹下健三が設計した。愛知県では唯一の丹下作品である。
もとは、染色整理加工業である艶金興業株式会社の本社屋だった。1952(昭和27)年に3代目の社長が旧東京都庁のコンペに丹下が応募したことを知り、依頼を決意。すでに海外でも知られるようになって多忙だったこともあり断られたが、熱意をもって何度も依頼し、承諾を得た。しかし、丹下がカリフォルニア大学の教授に招かれたことで中断となったが、偶然3代目社長が電車で出会ったときに、あらためて設計を依頼。1957(昭和32)年に建物が完成した。
台形の敷地の北側に2階建ての事務棟、南側に集会室(ホール)を備えた平屋があり、その間を玄関車寄せと中庭がつなぐというスタイル。当時の名古屋近隣ではまだ珍しかったコンクリート打ち放し、ダブルビームの大梁(柱面と梁面をそろえるための合わせ梁のこと)など、初期の丹下作品の特徴がみられることから、2008(平成20)年に有形文化財に登録された。
なお、2010(平成22)年に一宮市が建物を取得し、現在は小信中島公民館として活用されている。
外観も実に特徴のあるものになっている。毛織物業で栄えていた当時のまちは、ガチャンガチャンと織物工場の機械の音や、工場に出入りするトラックの音が響いていた。その喧騒を遮断するため、コンクリートの高い壁で囲った。
「そうするとどういうことが起きるかというと、倉庫のように暗くなってしまうんです。丹下さんは、建物内の明かり取りに苦労されました」と教えてくださったのは、案内を務められた小信中島公民館の館長。
中庭に面しているところは明るさがあるが、面していない部屋は、上部に配された窓や天窓などによって、光が届くように工夫されている。
外観は洋風だが、建物内部の造りは和が取り入れられている
外観は、防音を兼ねた外壁で要塞のようにも感じられる。「丹下さんはヨーロッパの影響をかなり受けているので外観は洋風です。だけど、中は欄間に構想を得た窓だったり、和の寸法で設計されていたりと、和をあちこちに取り入れています」と館長。
和のテイストは事務棟の2階でも見られる。会長室および社長室に設えてある、床の間風の作りつけ家具のほか、テラスの匂欄風の手すりなどだ。
ちなみに、2階は公民館としては使われておらず、通常は非公開エリア(見学希望の場合は公民館に問合せ)となっている。もし、不特定多数が訪れる公民館として2階も活用する場合は、阪神大震災後に改正された建築基準法と消防法が適用され、手すりの作り替えや、木彫りの天井を不燃材にしなければならなかったり、避難経路確保のための階段やスプリンクラーの設置などが必要になる。しかし、文化財保護の観点から、プライベートゾーンということで、一部の改修のみで、約60年前の貴重な姿をとどめているのだという。
事務棟2階以外は、耐震補強や、公民館としての機能のためにパーティションを新設されたりもしているが、発注者の意向を汲み取りつつ、初期の丹下の工夫を感じられる見どころが盛りだくさんだった。丹下が設計したイスと机のレプリカもあった。
明治24年の濃尾地震にも耐えた貴重な建物、旧湊屋文右衛門邸
墨会館から、繊維のまち・一宮市を象徴する風景でもある、のこぎり屋根の建物などを見ながら歩くこと約10分。明治時代前期に建てられたとされる「旧湊屋」の趣あふれる建物が現れる。東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ脇街道であった美濃路沿いにあり、すぐ近くを流れる木曽川を利用した舟運で栄えた商人、湊屋文右衛門の屋敷だ。
有形文化財に登録された店舗兼主屋は、正確な建築年は不明だが、江戸時代末期の屋敷構成を受け継いでつくられた明治時代前期のものといわれている。
この建物は、当初の持ち主の一家が東京に移ったことで、明治時代からしばらく空き家となっていた。1952(昭和27)年から所有者が変わり、2009(平成21)年までは住まわれていた。転居するにあたり、「壊すには忍びない」と建物を残す相談が一宮市尾西歴史民俗資料館に持ち込まれ、あらたに設立された市民団体「湊屋倶楽部」が管理・活用するに至った。
1891(明治24)年に発生した濃尾地震で、付近の多くの建物が倒壊したなかで耐え抜いたと伝わり、かつての宿場町の風情を残す貴重な建物として、2010(平成22)年に有形文化財に登録された。
2011(平成23)年に、旧湊屋は、玄関・居間・台所を改造し、「茶店湊屋」をオープン。湊屋倶楽部の代表を務めている大島八重子さんは、もともと市内で洋菓子店を営んでいた。その腕前をいかしたケーキやおはぎなどとともに歴史ある建物を楽しめるカフェとして、毎週水・土・日曜のみの営業だが人気を博している。
今回は、建物を見学したあと、建物の維持・管理について、大島さんがお話をしてくださった。
カフェとして活用しながら、古い建物を維持する
湊屋倶楽部が旧湊屋を借りた当初は、2年ほど住んでいなかったため、荒れ放題。そこを湊屋倶楽部のメンバーで建物内を片づけ、庭の草木の手入れをした。建物そのものの修繕については、市内の宮大工に依頼しているという。
「時のたった建物というのは壊れやすいものですから、2018年の台風21号によって、屋根の破風(はふ)の部分が壊れてしまいました。修理には150万円かかりました。このためというわけではないですか、コツコツと茶店の売り上げから積立をしていたもので、それで支払うことができました。
湊屋は飲食の事業で、自立できるような状態になってきたんです。売り上げが積み重なって、維持管理がやれるわけです。10年間でやっと建物の保存の糸口がつかめたという感じで、おかげさまと年々売り上げが上がっております」。
主屋以外に2棟のはなれも活用しながら、コンサートや文化講座などのイベントを開催し、地域の人々の交流の場になっている。
湊屋倶楽部として活動を始めたことについて、「ただ古い建物が大好き、佇まいが大好き。たったそれだけの理由です」と大島さん。その思いが支える活動は、他県からも多くの客が訪れるほどに確かな実績をあげており、愛知登文会では2018年に表彰して讃えている。
また、大島さんは「夢としては、この美濃路街道が昔の街道の姿を取り戻してくれるといいなと思っています。それには行政のバックアップが必要となりますが、そんなことを夢見ながら、日々、湊屋の維持・管理に努めています」と語った。
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今回開催された「全国登文会フェスタ」では、全国組織「国登録有形文化財全国所有者の会」(全国登文会)の設立総会も行われた。地元に組織がない所有者への加入も呼びかけ、ネットワークを広げながら、全国的な保存活用を推進していくそうだ。
壊れてしまえばそれまでとなってしまう歴史ある建物。所有者、または管理する団体等の地道な努力、活動によって、未来へと大切に残されていく。
取材協力:愛知県国登録有形文化財建造物所有者の会(愛知登文会)
http://www.aichi-tobunkai.org/
墨会館 http://sumikaikan.jp/
旧湊屋 http://minojiminatoya.com/shop.html
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