江戸時代の都市区域の状況

金沢長町の武家屋敷跡野村家の外観。人間の尺度に沿った道と塀の先に、樹木と建物外観が伺える金沢長町の武家屋敷跡野村家の外観。人間の尺度に沿った道と塀の先に、樹木と建物外観が伺える

江戸時代、都市区域(1725年)は、69.93km2。そのうち、武家地66.6%、町人地12.5%、寺社地15.4%だった。

いっぽう武家人口は約45万人、町人55万人、寺社人口5万人(1721年)。一人当たり面積に換算して、武家103m2、町人16m2、寺社人215m2、になる。さて、2016年現在、東京都区部では面積626.7km2、人口926万人、一人当たり面積67.7m2。目黒区を例にとると面積15.6km2、人口27.8万人、一人当たり面積に換算して56.1m2。江戸時代は職住一体、いまの東京は職住分離なので、住まいの面積で比較すると今の東京は少し割り引いた面積になると思うが、今の東京都区部や目黒区の平均は、江戸時代の町人と武家の間くらいの密度だと言える。

江戸時代は、武家には武家屋敷、高密度で暮らす町人には町屋、身分と居住密度に応じて異なっていた。
この密度に応じた住宅タイプの使い分けは、武家屋敷や一戸建てに、町屋や貸し長屋に、と置き換えられて戦前まで踏襲されていた。近代化で東京に人口が集中すると、地主や家主、そして財を成した商工業者やサラリーマンが、長屋形式の小規模な貸家経営を行う。夏目漱石もずっと借家暮らしだった。そして1941年の建て方別住宅ストックの統計では、一戸建て48.6%、長屋建て43.3%、共同住宅8.1%(東京都区部)、という割合になっている。ところが、戦後になると、1963年は、一戸建て48.9%、長屋建て10.7%、共同住宅32.8%。そして2008年は、一戸建て23.1%、長屋建て1.7%、共同住宅74.7%と長屋建てが一掃されて、共同住宅が増えていた。

一戸建ての原型は武家屋敷だった

この一戸建ては、武家屋敷から進化している。

明治時代には、麻布や松濤、広尾、高輪、白金、五反田の島津山や池田山といった大名屋敷跡が、住宅として格子状の街路で区画分譲された。池田山にあった旧正田邸が典型的だが、武家屋敷から洋風の近代邸宅が建てられ、こうした街は今でも一区画数百坪もの風格ある屋敷町として人気がある。昭和初期には、阪急電鉄の小林一三氏が運賃収入を増やそうと沿線の先に宅地開発をして、これが当たる。東京でも東急電鉄等が「田園都市構想」を掲げて、田園調布、成城、常盤台、馬込などが開発された。当時の給与所得者向けの住宅であった。

元々の武家屋敷は居心地が良い。
建築自体は、江戸東京たてもの園や金沢の長町などを訪れると実感できるが、典型的な何百年もの工夫と暮らし方という文化が成熟させた結晶だ。広い敷地の真ん中に建物が建てられ、境界には生垣や塀、そして立派な門が構えられる。そして門から玄関までは前庭があり、敷石や飛び石が敷かれて奥行きを与えられる。その続きには南向きに主庭が広がり、四季折々の茶花で季節を感じる。

武家屋敷や池田山、田園調布の時代までは、そんな住まいが実現できる位に敷地面積は広くとられ、成城学園が原野を開発した昭和初期では一戸当たり3~400坪であったと言われる。成城などではこうした広めの敷地に、武家屋敷の半戸外・戸外の環境を引き継ぎながら、洋風の趣きの住宅が建ち並び、風格のある街並みを形成していた。

金沢長町の武家屋敷跡野村家。庭園に沿って縁側が配置され、室内が解放される。外と内が緩やかにつながる金沢長町の武家屋敷跡野村家。庭園に沿って縁側が配置され、室内が解放される。外と内が緩やかにつながる

敷地細分化と劣化バージョン

成城の住宅。生垣と庭木を挟んで、街と住宅がほどよい距離感で連続する。木軸と漆喰壁で構成される端正な外観が映える成城の住宅。生垣と庭木を挟んで、街と住宅がほどよい距離感で連続する。木軸と漆喰壁で構成される端正な外観が映える

東京大空襲(1945年)により都心部159km2が被災した。
そして100万人もの被災者が被災地縁辺部に避難し、最小限の敷地を確保して自力で仮設住宅を建設して居住した。仮設住宅が建てられた場所は被災地のすぐ外側、縁辺部から300m圏内というごく狭い地域に相当し、現在の木造密集市街地の50.1%がこの圏内に集中している。こうした仮設住宅群が、戦後、もっぱら木造一戸建てに建替えられた。このようにして都市部においても、基本の住宅モデルとして木造戸建てが選択された訳である。

1970年代には、第二次ベビーブームが到来し、金融緩和による民間住宅金融の大幅拡充がなされた。これらによる旺盛な住宅需要に応じ、二項道路の先であっても位置指定道路を開設し、敷地を細分化して建売分譲する事業が広範に出現し、現在に至っている。また完了検査を受けずに、建築確認申請時には長屋だったものを、戸建てに分割する手法も横行した。
こうした結果、所有者一人当たりの宅地面積は1975年には平均433m2だったところが、2013年には平均180m2にまで細分化された。そして個人宅地所有者のうち50.1%の人たちが100m2未満の宅地を所有しているのが現状である。ちなみに、100m2未満の宅地が全体に占める割合は、17.9%である。

それが、いまは20~30坪ほどが大多数。
昔と違って玄関前には駐車スペースもいる。敷地面積のない分、切り詰められるのは、まず主庭になった。庭木を植える余裕はなくなる。こうして子供が遊びまわる場所、周囲にとっても緑が目に心に優しい場所がなくなる。当然、前庭や構えも削られる。そして建物は隣の境界線に対して民法の規定ぎりぎりの50cmにまで迫り、生垣をつくる間もなくなる。ときには積んだだけのブロック塀が隣を隔てて、うす暗い隙間が残る。

武家屋敷に由来するゆとりのある一戸建て住宅は、纏うものを剥ぎとられた裸の住宅に転化されている。元の武家屋敷とは似ても似つかないものになってしまった。家族のプライベートな暮らしのためだけに機能がそぎ落とされて、隣の物音も聞えてくる。こうして、戸外の風や景色を楽しむ、お隣と程良い距離感で付き合う、といった潤いが失われる。

結局、こうした狭小住宅は、「土地付き一戸建て」という記号表現にだけは適うものの、武家屋敷から継承されてきた住環境の質をすっかり失った、まるで別物になった。

戸建て所有への金融面税制面での優遇政策

木造戸建て主体の住宅政策は、1950年に制定された建築基準法、住宅金融公庫法、およびスギ植林奨励策によって形作られた。

戦後の住宅不足に対し、公営集合住宅を建設する財源はない。一方、農地解放や宅地解放(大地主には最高90%もの財産税が課されて維持できなくなり、借家人に払い下げられた)で中小の地主が増大していた。政府としては、こうした中小地主に建設資金を融資して、スギを材料にした衛生的な住宅を建設させる方法を選択した。こうして融資・税制・建築法制等で、木造戸建ては優遇された。

住宅金融公庫は長期低利な資金を供給し、当初は住宅分譲業者向けに、70年からは個人融資が展開された。条件が有利なため、高度成長期には応募が殺到して抽選も行われたほどで、累計で1,940万戸に実行された。この住宅金融効果には、政府が巨額の補助金を拠出し、後期には毎年4,000億円も投入されていた。

税制での優遇措置も手厚い。固定資産税は本来評価額の1.4%、都市計画税は0.3%であるが、専用住宅の敷地で面積200m2までの標準課税が、固定資産税は評価額の6分の1、都市計画税は同3分の1にそれぞれ軽減される。そして評価額自体も実勢価格の7割と抑えられる。例えば土地代3,000万円だったとすると、本来(実勢価格ベース)は30年で固定資産税・都市計画税は通算1,530万円を負担するところが、実際には通算で固定資産税147万円・都市計画税63万円、計210万円で済むという違いである。相続税でも敷地面積330m2までは評価額の80%が減額される。

改正前は、基礎控除は5,000万円+1,000万円×法定相続人数なので、例えば小規模宅地で法定相続人3人の場合は実勢価格5億円でも相続税はゼロになった。敷地を細分化するほど税制面では有利である。また住宅の家屋の評価額についても、新築建物課税標準価格認定基準で木造87千円/m2、RC造132千円/m2、経年減価補正率が50%になる期間は、木造4年、RC造20年。家屋への固定資産税も木造は少なく、防火性・耐震性・耐用性に優れた建て方をした方が(一定期間は1/2になるにしても)固定資産税も高くつく。試しに延床面積100m2、30年通算で家屋部分の固定資産税を比較すると、木造は113万円、RC造は341万円という違いになる。

都市区部における一人当たり宅地面積の推移(図表:上)</br>面積規模別の個人宅地所有状況:区部(図表:下)都市区部における一人当たり宅地面積の推移(図表:上)
面積規模別の個人宅地所有状況:区部(図表:下)

戸建て所有への建築基準法面での優遇

狭小区画と木造一戸建て群。主庭、囲い、庭木、前庭などが省かれた。建物も簡易工法による狭小区画と木造一戸建て群。主庭、囲い、庭木、前庭などが省かれた。建物も簡易工法による

建築基準法でも、木造2階建て住宅等の四号建築には構造計算が義務づけられていない。耐震性などの構造耐力に関わる仕様規定に関する検討書や図面も確認申請時に提出せずに済む。

要するに、耐震性などは公的なチェックはなしで済み、施主や工事業者の手間や費用が省かれた。三井不動産の杭長偽装マンション等が問題になっているが、その一方で木造戸建ての多くは構造計算もされていない事実はあまり知られていない。そもそも完了検査平成10年まではわずか3割に過ぎない。

また延焼の損害賠償も免責とされたままだった。本来、民法の規定(709条)によれば、失火によって他人に損害を与えた場合、故意ないし過失があれば損害賠償責任を負う。しかし1899年に制定された「失火ノ責任ニ関スル法律」は、重過失の場合のみに損害賠償責任を負うものとした。制定当時、木造家屋がほとんどで、大規模な延焼では失火者の責任が過大になる、という事情からだった。

工事費面でも、構造計算不要で延焼責任を負わない分、木造は有利のままだった。木造戸建ての工事費(東京都 2015年住宅着工統計)は、19.1万円/m2。一方、耐震・防火等の目的でRC造にすると、戸建て35.4万円/m2、長屋24.5万円/m2、共同住宅29.9万円/m2に上る。

このような政策誘導によって、細分化された敷地に木造戸建てが建ち並ぶことになった。現在、都区部では、一戸建てのストックのうち木造が21.8%、防火造(ほぼ木造)は64.5%を占めるに至った。

一方、ドイツでも戦後、深刻な住宅不足を招いた。しかしドイツで選択された住宅の基本モデルは社会住宅と呼ばれる低層集合住宅であった。1950年の第一次住宅建設法、1956年の第二次住宅建設法が根拠となって、個人(所得限度内)らから成るグループを事業主体とし、長期低利の住宅建設資金の貸付および経常費の補助を受けて社会住宅が建設される。事業主体は、日本のように公団等に限定はされていない。こうした社会住宅は当初は賃貸、1960年代からは持家取得の手段になった。こうして80年代までに都市の住宅ストックの多くは、ベルリンでは41%、フランクフルトでは32%といったように社会住宅が占めるに至った。

都市部の住宅モデルとして、戦後間もなくから鉄筋コンクリート造の低層集合住宅を東京でも選択できたはずだった。ドイツと同様の選択をしていれば、木造密集地域の地震被害問題もなかった。

次回は、都市における一連の戸建て形成が、どのような社会的影響を与えているのかを検証したい。

2016年 04月20日 11時08分