多摩ニュータウンに古着屋ができた
多摩ニュータウンの落合商店街に古着屋ができた。これは画期的な事件だ。
もちろん昔からリサイクルショップはあった。ロードサイドには大手チェーンの古着屋はある。しかしURのニュータウンに開発当初から計画されていた団地の近隣商店街に本格的な古着屋ができたのは、もしかすると日本初ではないか。
考えてみるとなぜニュータウンに古着屋がなかったのか。ここには結構大きな問題が潜んでいる。
団地開発当初、近隣商店街にあったのは八百屋、魚屋などの生鮮品の店と、肌着などの衣料品店、台所用品などの日用雑貨店、あとはお茶の店、定食屋、床屋など、生活必需の店に限られていた。
しかしニュータウン内外にスーパーやショッピングセンターができると商店街は廃れていき、空き店舗が目立つようになった。空き店舗に入居するのは福祉系が中心という時代が長く続いている。
落合商店街もそのひとつ。そこに2017年の秋に建築事務所と自宅を構えたのが横溝惇さん。以来、「住み開き」を実践し、カフェ、食堂、物販、イベント、コワーキングスペースなどを事務所の一角で開いてきた。現在は多摩ニュータウン在住のデザイナーなどの作品を販売する「STOA」を営業している。
また横溝さんは、多摩ニュータウンのまちづくりにも積極的に参画し、お隣の豊ヶ丘商店街で2021年10月に「ニューヨイチ」というイベントを仕掛け1万人を動員した(三浦展編著『ニュータウンに住み続ける』参照)。
そういう横溝さんの最新の一手が古着屋SAJIである。もともと聖蹟桜ヶ丘駅近くで21年間人気古着屋を経営してきた大和直子さんが、1年間ほどお店を休んだあと、心機一転ふたたび古着屋を再開するにあたり、多摩市内で物件を探し、最終的に落合商店街を選んだのだった。
多摩ニュータウン入居開始年からの「純粋多摩ニュー第1世代」
そもそも横溝さんのパートナー祐子さんが聖蹟桜ヶ丘時代のSAJIの客だった。SAJIには男子美大生の山下さんがアルバイトしており、横溝さんの事務所に遊びに行き、結果、同事務所でインターンをし、就職することになった。
そのため新しい店を出す物件を探すときも横溝さんに相談した。落合商店街の横溝さんの事務所の目の前の店も空いていた。他の商店街もいくつか見た。
落合商店街への出店を決めたのは、横溝さんが単なる建築家ではなく、まちづくりをしているからであり、自分も一緒に古着屋をとおしてまちづくりができないかと考えたからだった。
大和さんはそもそも「純粋多摩ニュー第1世代」である。1971年、多摩ニュータウン入居開始年、お母さんのお腹の中にいるときに多摩ニュータウン諏訪地区に引っ越してきて、そのままほとんどずっと多摩ニュータウンか多摩市に住んできた。
お母さんはファッションが好きで、大和さんが子ども時代に商店街にリサイクルショップによく連れて行かれた。大和さんもファッション関係が好きで、美容師になった。だが手荒れがひどく、美容師を辞めて、古着屋を始めたのだった。そういう意味で大和さんが落合商店街で新店舗を出すのは、Uターンというか、原点回帰というか。
大和さんがまちづくりに目覚めた理由
そういう大和さんがまちづくりに関心を抱いた一因は、聖蹟桜ヶ丘の店を閉じたあと、障がい者施設で働いたことにある。そこで気づいたのは、車椅子ではどこにも行けないということだった。
だからSAJIをつくるにあたって大和さんが横溝さんに示した条件は「車椅子でも店内に入れて古着を見られること」だった。
大和さんが障がい者施設で働いたきっかけは、リサイクルショップで物品を販売するスタイルの施設の施設長が知人だったことにある。その施設長から、大和さんには「衣類を見る目がある」ということで声がかかったのだという。
そこで働いたことにより、障がい者が社会とつながることの難しさがわかり、問題意識が芽生えた。同時に、自分は古着がとても好きだということを再認識したので「古着を通して何かできないか」と考えたのだという。
たとえば「高齢の方がもう着なくなった服を委託販売という形で手放すことで社会とつながるのをお手伝いできればいいな」と大和さんは言う。
幸い、ニュータウンの商店街はどこも歩道から段差なしに入れる。店内も広いので、什器などをあまり置かなければ余裕がある。実は障がい者・要介護者が車椅子で買い物や飲食に来やすいつくりになっているのだ。これはニュータウンの開発当初からオールドタウン化を予想してそのように設計したわけではないだろうが今となっては都合が良い。
ニュータウン全体も隅々まで歩道が整備され、車道と分離しているから、暮らしやすい。だからもしかすると、仕事があるうちは都心に住んでいた人たちも、車椅子暮らしになったらニュータウンが楽かもしれない。車椅子とまで行かなくても、自動車の免許返上、駅前まで買い物に行く元気はないとなれば、近隣商店街の再構築が必須になるだろう。
古着ブームが起きた1990年からの30年
ところで古着屋というものは江戸時代からあり、ある意味では大都市を象徴する業種である。
もちろん昔は、経済的にゆとりのない人が否応もなく利用するものだったので、今のようなおしゃれな古着のイメージとは違う。だから古着を拒否する時代は長く続いた。
古着をファッションとして着るようになったのはいつからか、私は正確に知らないが、1980年代にはロックや演劇をしている人であれば古着を着ることは普通となった。しかし、そのころも一般の人はあまり古着は着なかった。古着屋も原宿などにあるくらいだっただろう。
それが1990年代になると、古着はかなり大衆化した。90年代後半には高円寺や下北沢が古着の街になり、高校生が店に集まった。当時、高校生の頃、その古着屋にあつまったのが横溝夫妻である。
古着・古着屋の魅力とは、①一点物を掘り出す、②ストーリー性、③コスパ だろう。
コスパだけならファストファッションのお店で良いが、量産品ですら年月を経て色合いや風合いが変わり、その一着の服にしかない味が出るのが魅力であり、そうなるまでのストーリー性も魅力になる。祖父母(世代)から受け継いだ服を着るのも今の若者にとっては楽しいことらしく、丁寧な縫製、味わいのある糸や生地、あるいはおばあさんが自分で手編みしたセーターなど、今の時代ではあまり味わうことのできない価値を感じられるのである。
古着屋の新店舗の設計施工は突貫工事だった。資金もなかったのでクラウドファンディングで集めたという。それでも普通の施工はできず、ホームセンターで資材を集め、多摩市のリサイクルセンターで家具の端材などを集め、工事は横溝さんと山下さん、先述の豊ヶ丘商店街のイベントで知り合った工学院大学の建築学生数名で行った。
できあがったお店は「もう最高、思ったとおりです」と大和さん。リサイクル品を使ったのはかえって古着屋らしいし、今後は展覧会や古道具市などのイベントなどをするためのスペースも用意してある。
サステイナブルな暮らしができる「サステイナブルタウン」へ
映画評論家でもある川本三郎は、良い街には良い居酒屋と良い銭湯と良い古本屋があるという。
だが私はこの川本さんの説に、良い街には良い古着屋と良い中古レコード屋と良い中古家具屋も加えたいと本連載・菊川の回でもすでに書いた。
これらのものは不要不急のものである。生活必需ではない。
だが新品だけを消費したり使い捨てたりするだけの暮らしより、中古品を愛着を持って長く使う暮らしのほうが豊かであり、多様な生き方が実現できるという価値観が広まっているのではないだろうか。
ニュータウンは極めて近代主義的な未来指向的な価値観で1960年代に構想され、その世界観のままつくられ続けてきた人工的な都市である。そこでの暮らしは次々と産み出される新製品を消費することで豊かになると信じる暮らしだった。
だがそれから60年。明らかに時代は変わっている。ニュータウンがオールドタウンになったとよくいわれるが、お腹の中の子どもから100歳の老人、そして障がい者、要介護者までが一緒に住める街はよい街だ。
もちろんSDGsの観点からも、新製品を少しも買わずに暮らせるニュータウンというものがあるなら、それこそが今後目指すべき、いわば「サステイナブルタウン」というべき新しい姿である。
公開日:










