大田区南千束は、歴史的資源、坂道、緑、変化に富んだ景観
私ごとだがちょうど40年前に洗足池近くに住んでいた。
駅は東急目黒線(当時は目蒲線)と東急大井町線が交わる大岡山駅を使ったが、大井町線・北千束池、東急池上線・洗足池駅も近かった。住所は大田区南千束2丁目だった。
本稿を書くにあたってよく見ると洗足池付近は風致地区の中である。ただし、池を見下ろすマンションだったらよいが、当時住んでいたのは何の変哲もない木造アパートの1階だった。池の北側の川沿いの低地、野球場のあるところのさらに北側で、今は戸建て住宅が並んでいる。
アパートの東西は台地であり、高級住宅地であるが、当時はまだそういうものに関心がなかった。そもそも早朝に家を出て深夜に帰宅する毎日だったので、街を歩いたことはあまりなかったのである。
とはいえ、たまには池のまわりを散策した。ボートに乗ったり、夏にはお化け屋敷に入ったこともある。今回あらためて池周辺をめぐってみると、当時よりかなり整備されて、住民の憩いの場としてさらに充実してきたようである。
大田区では「洗足池公園を含む一体の区域は都市計画の重点課題地区である」とし「洗足池公園を中心とした緑豊かな自然環境と低層住宅が調和した閑静な住宅地が広がる」「洗足池公園内及びその周辺に旧清明文庫(鳳凰閣)や妙福寺祖師堂などの歴史的資源が点在している」「坂道などが見られるように地形に起伏があり、曲線のある道路が多く、変化に富んだ景観が見られる」「幹線道路などの道路沿道の集合住宅が立ち並ぶ景観が見られる」ことを特長とすることから「洗足池公園と一体となった緑豊かな住環境の維持・保全を図ること」を目標としている。
区の資料では「一部建築物の外壁の色彩が黒、暖色、寒色となっていて、周辺の建築物や敷地内の緑と調和していないものが見られる 」というように細かく分析されているが、たしかに歩いていると最近建てられたプレハブ住宅は白・ベージュと黒・茶色を組み合わせた流行の住宅が多く、庭が狭まり、庭木も減ったため、従来の落ち着いた住宅地とは異なる新興住宅地的なイメージになっているのはちょっと寂しいところである。
また洗足池南の中原街道には歩道橋があったが、公益社団法人洗足風致協会を中心とした地元町会・商店街等により、洗足池駅から洗足池方面への眺望を阻害しているとして歩道橋撤去を求める運動が行われ、撤去されている。
墓所や別荘など勝海舟ゆかりの地が点在する洗足池
戦前、池上電鐵沿線案内に描かれた洗足池。自然の公園、理想的住宅地、幽邃(ゆうすい)の本門寺、水清き洗足池と書かれている。幽邃とは奥深くてもの静かなことを意味し、風致地区を表現するのによく使われた言葉である明治期には洗足池畔に勝海舟が住んだ。
幕末、鳥羽・伏見の戦いで敗れた江戸幕府側は官軍の西郷隆盛と交渉するため勝海舟を官軍本部の池上本門寺へ出向かせた。勝は途中洗足池の景色にひかれ、1891年に別邸「洗足軒」を建てた(戦後焼失。跡地は大田区立大森第六中学校)。1899年海舟が死去。洗足池湖畔に墓がある。
海舟没後、海舟の墓所や別荘「洗足軒」の保存、海舟に関する図書の収集・閲覧、講義の開催等を目的として、財団法人清明会が1933年に開館。2000年に国登録有形文化財に登録され、2012年に大田区の所有となったものであり、その後旧清明文庫を増築し、2019年、勝海舟記念館として開館した。
洗足池はもともと武蔵野台地の湧き水をせき止めた池で、かつては「千束郷の大池」と呼ばれ、灌漑用水としても利用されていた。千束とは稲の量を量る単位である。
「洗足池」と呼ばれるようになったのは、1282年、日蓮聖人が病気療養のため身延から常陸に向かう途中に立ち寄った際に、池で足を洗ったことが由来である。
江戸時代には、洗足池は風光明媚な地として有名になり、庶民の行楽地にもなった。
洗足池には戦前ジャズが流れていた
1923年、関東大震災もあり、その前後から洗足池周辺では市街化が進行した。同年、池上電鉄の洗足池駅が開設され、荏原土地株式会社による池畔住宅地経営が洗足池周辺の市街化展開の大きな核になったという。
池上電鉄によるボート場、遊覧地開発を示した事業構想、荏原土地株式会社による料亭「水光亭」の経営により、行楽地としても発展していく。
1929年の「国民新聞」によると、夏は納涼客がウンカのごとく押し寄せ、茶店を見ながら歩き、ボートには男女が乗り、モーターボートもあり、ジャズが流れ、アーク灯によって明るく毎夜11時まで不夜城の賑わいだったという。
1930 年、洗足池を中心とした 30ha の地域が洗足風致地区に指定された。当時の目標は、景勝地や休養地、名所等の公的な要素と、住宅地という私的要素を相互に調和融合させることだったという。
1933年には洗足風致地区協会が設立された。協会は、来遊者の増加を図ることをかなり重視しており、そのため弁天橋の整備、弁天島厳島神社建立、大相撲観覧大会、コイとフナの放流、逍遙道路整備(今風に言えばプロムナード)、児童の遠足・修学地としての市内各小学校へのPRなどを行っている。
だが急速な宅地化のために下水が大量に洗足池に流れ込み、1937年度には池の浄化のために風致地区改善費によって下水工事が行われたほどである。
洗足池駅の南東の三井信託の開発した住宅地は、昭和初期・中期の中流住宅地の典型
洗足池の南の中原街道を渡り、洗足池駅のすぐ南東は三井信託の開発した住宅地だそうで、そこから坂を下ると小池がある。洗足池の同じ流域にある、まあ妹分である。周辺は典型的な昭和初期・中期の中流住宅地である。
大田区の資料によると、1924年から29年にかけて洗足駅近くの千束地域で、また1925年から37年にかけて洗足池近くの池上西部において、それぞれ耕地整理が行われているので、おそらく上池台の開発はその後に行われたものと思われる。
そこから南はまた急な坂を上った高台に、同潤会の勤め人向け分譲住宅地があった。1931年に25戸が分譲された「洗足台第一分譲住宅地」であるが、すでにすべて建て替わったようである。
そこからさらに西に向かった雪が谷には「洗足台第二分譲住宅地」がある。1932年分譲、36戸であり、最寄り駅は石川台である。
風致地区と同潤会の立地には直接的なつながりはないそうだが、洗足についてはなんらかの相関関係はありそうである。
●参考文献
洗足風致協会『洗足池』1995
古賀史朗「風致の聖と俗ーー東京の風致地区を中心に」原田勝正・塩崎文雄編著『東京・関東大震災前夜』日本経済評論社、1997
西村裕美「市街地における池空間の成立過程と利用形態の多様性に関する研究——大田区洗足池を事例として」大田区ホームページ
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