新しい時代を感じさせる「街」
JR中央線・立川駅周辺は、新しいビル、マンションが建ち並び、その間をモノレールが走る未来的な風景の街だ。1990年代初頭から再開発が進み、30年かけて今の都市形態ができあがった。
駅ビル、百貨店、映画館などが集積し、中央線沿線でも学生などの若者が多い街である。1980年代までの立川を知っている私のような世代から見るとまさに隔世の感がある。だが現在の若者にとっては、この未来的で、マンガやアニメの舞台にもなる立川が原風景なのだろう。
その立川に2020年、また新しい場所ができた。「街」ができたといってもよい。単なるビル、再開発というよりは、街の創造である。
それはGREEN SPRINGS(グリーンスプリングス)という商業、文化、オフィスが複合した街である。従来のショッピングモールなどの商業施設とは一線を画す、これからの時代の方向性を示す開発である。
軍都・立川の誕生
GREEN SPRINGSについて触れる前に立川の現代史を簡単に見ておく。
立川は明治時代までは農村であり、横浜開港とともに絹製品の輸出が盛んになると、立川でも砂川村を中心に養蚕業が発展し、全国各地の養蚕地帯に対して桑の苗を供給した。
立川村では多摩川での鮎漁が盛んであり、鵜飼いも行われていたという。
1889年、甲武鉄道(現在の中央線)で新宿―立川間が開通し、以後、八王子まで鉄道が延伸したほか、青梅鉄道で立川―青梅間が結ばれると、立川駅北口は生糸・桑苗や青梅の石灰の集積地となり、旅館、運送店、材木店などもたくさんできた。そのため立川には東京府蚕種検査所など養蚕関係の施設もできた。
1922年には、立川村北方の150万m2に及ぶ山林・原野・畑が買収されて立川飛行場が開設し、陸軍航空第五大隊が駐留した。これにより立川村の人口が増え、立川町となった。
飛行場は1931年まで軍用としてだけでなく民間飛行場としても利用される「東京国際空港」でもあった。1929年には日本航空輸送株式会社が日本初の定期便である立川−大阪便を就航させていた。だがその後、民間飛行機は羽田に移り、立川は軍専用となり、所沢から陸軍航空本部補給部が移転してくるなど、航空技術研究所など多くの航空関係施設が集積し、立川は本格的に軍都となった。
米軍相手の「夜の街」へ
戦後は米軍が進駐し、日本軍の施設はそのまま米軍施設に替わった。立川周辺の米軍基地群で働く日本人は約2万人。うち立川基地だけでも1万2千人であり、市内の全従業員数を上回った。
日本軍の貯蔵していた物資や米軍からの横流し品が街頭に現われ、駅北口の広場から高松通りにかけてずらっと露店が並び、闇市が形成され、米兵相手の女性が増え、いわゆる「基地の街」「夜の街」としての立川が形成された。
女性が200人くらいいる大規模なキャバレーが多数開店した。富士見町にモナコ、高松町にVFW、シビリアンクラブ、その他、ゴールデンドラゴン、セントラル、グランド立川、サンフラワーなど。競輪場通りには「娘ビヤホール」という大きなビアホールもあった。
立川の「夜の市長」という異名を持つ地元の有力者・中野喜介が曙町の旧陸軍将校宿舎を借りてつくったキャバレー「立川パラダイス」は特に有名だ。中野は全国から370人の女性を集めた。兵隊ではなく将校が行く高級な店であった。ダンサーだけで100名ほどいたという。ジャズバンドが入るクラブもあり、ジョージ川口、小野満、松本英彦、江利チエミ、フランキー堺ら、戦後日本を代表する多くのミュージシャンが演奏した。
第四の消費社会にふさわしい場所
アメリカがベトナム戦争で敗北し(1973年)、在日米軍も撤退が始まると、立川の街は次第にさびれていった。基地の街時代の繁栄を懐かしむ声もあるが、客が減れば街が廃れるのは道理である。
また1970年代後半の米軍の撤退時期は、女性の権利が世界的に拡大していく時代でもあり、米兵相手の水商売の街という立川のイメージが払拭されねばならない時代になっていたとも考えられる。
女性は男性にサービスをする存在ではなく、高い教育を受け、自己実現のために職業を選択し、経済力を身につけ、自立し、消費する時代がきていた。
また消費社会論的にいえば、GREEN SPRINGSは「第四の消費社会」にふさわしい場所をつくっているといえる。
第四の消費社会とは私の造語であり、簡単にいうと以下のようになる。
第一の消費社会 大正から昭和にかけて中流社会が登場した時代
第二の消費社会 戦後の高度成長期。大量生産大量消費の時代
第三の消費社会 1973年のオイルショック後からバブル崩壊までの時代
第四の消費社会 バブル崩壊後から現在。下流社会化が進むと同時に物質的ではない豊かさが追求された時代
この消費社会の4段階は、経済、政治、消費、生活、文化の変遷とほぼ対応している。
たとえば商業についていえば、以下のように整理できる。
第一の消費社会 百貨店の増大
第二の消費社会 主として郊外におけるスーパーマーケットの急増
第三の消費社会 都心におけるファッションビルの登場と普及、その結果としての1980年代以降の大都市圏郊外と地方郊外における駅ビルの増大、90年代以降のショッピングモールの増大。および消費の個人化に対応したコンビニの急増
第四の消費社会 物の消費についてはネット通販の拡大。また物の消費よりもコト消費・時間消費を重視し、かつ環境、癒やし、人間関係を重視するパブリックスペースやプレイスメイキングの重要性の拡大
GREEN SPRINGSを見るとまさにこの第四の消費社会の価値観に対応した新しい場所づくりがついに登場したという感覚があり、私はとても感慨深い。
ウェルビーイングタウン
GREEN SPRINGSは「空と大地と人がつながるウェルビーイングタウン」をコンセプトにつくられた商業、文化、オフィスなどからなる複合再開発である。だが、いわゆる再開発とはかなり違う。
都市再開発をするときデベロッパーは「都市をつくる、街をつくる」と意気込むが、実際は高層ビルが建っただけで人気(ひとけ)がないものができることも多い。どの街にも同じような再開発がされてまるで個性がないのが現実だ。それに比べるとGREEN SPRINGSはかなり個性的であり、かつ次代のテーマをよく包含している。
「ウェルビーイング」(well-being)とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的にすべてが満たされた状態(well-being)にあることをいうとされ、「瞬間的な」幸せを表す「ハッピネスHappiness」とは異なり、「持続的な」幸せを意味すると一般的にいわれている。
この「ハッピネスからウェルビーイング」への変化は私が拙著『第四の消費』で提起した「楽しいからうれしいへ」の変化に近いと思う。
楽しい場所、楽しい映画などをつくる場合、ある程度法則があって、それにのっとれば楽しい場所や映画はつくれる。だが、そこに行くとうれしくなる場所、それを見るとうれしくなる映画を意図的につくるのは簡単ではない。
たとえばディズニーランドに行って楽しかったというのと、うれしかったというのでは少しニュアンスが違う。
楽しかったというときはディズニーランドの各種のアトラクションが楽しかったのであり、うれしかったと言うときは、たとえば好きな人を誘ったら一緒に来てくれたとか、その人がいつもは見せない笑顔を見せてくれたとか、いつもは聞けない話が聞けたとか、これを機会に悩みを話したら共感してもらえたとか、そういう場合である。そこには何らかの人の介在がある。人から承認されたとか、受け入れられたとか、理解してもらえたといった感覚である。
きらきらした飾り付けをして楽しい場所をつくるというだけでは必ずしもうれしさは生み出せない。楽しさは外部からの刺激でつくれるが、うれしさは内発的である。内側からこみ上げてくるものである。
だから、うれしさが内発的に生まれるためには、人間のより本質的な欲求に応える必要がある。それは心地よい光だったり、風だったり、緑だったり、言葉だったり、静けさだったりする。それらによって心が軽くなる感覚。それが重要だ。
再開発というと、古い街並みを壊してタワーマンションを建てて、マンションの足下にチェーン店の入居する商業施設を設けるという金太郎飴的なパターンが今は主流であり、それによって客が集まれば賑わいや楽しさが創造できたと判断する。だがそれだけでいいのだろうか。だめでしょ、それだけじゃという疑問への回答がGREEN SPRINGSにはあるという気がする。
GREEN SPRINGSについての具体的な魅力については次回の記事で詳述する。
参考文献
立川市『新編 立川市史 資料編 地図・絵図』2019年
中野隆右『立川〜昭和二十年から三十年代』
三浦展『第四の消費 つながりを生み出す社会へ』朝日新書、2012年
公開日:










