「団地」とは
登録有形文化財になった「団地」
東京都北区、UR都市機構(以下、UR)の集合住宅「ヌーヴェル赤羽台」の一角に「登録有形文化財(建造物)」がある。
登録有形文化財(建造物)とは、社会的評価を受けるまもなく消滅の危機に晒されている歴史上・芸術上・学術上価値の高い建造物を、後世に幅広く継承していくために作られた制度で、2019年、ここにあった旧赤羽台団地の建物4件(旧赤羽台団地四一号棟・四二号棟・四三号棟・四四号棟)が新たに登録された。「団地」と呼ばれる建物が登録されるのは、これが初めてのことであった。さらに2023年春には、隣接してURの(仮称)情報発信施設がオープンする予定もあり、近年その価値を評価する動きがある。
そんななか、Webサイト「公団ウォーカー」を運営する照井啓太氏のセミナーを聞く機会を得た。照井氏は、テレビ番組「タモリ倶楽部」「アド街ック天国」などに出演歴があるほか、2018年には「日本懐かし団地大全」を上梓するなど、高校2年生の頃から17年間「団地に青春を注いできた」という団地愛好家だ。本稿では、3日間にわたって開かれた、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房主催のトークセミナー「暮らしの創造 団地文化から考える公・共・私」より、2022年2月13日に開催した照井氏のセミナー「団地概論」を基に、団地の登場から今日に至るまで、人々がその存在をどう捉えてきたのか。また、団地がもたらした価値とは何だったのかを考えたい。
団地の種類
「団地」と聞くと、四角いコンクリートの集合住宅を思い浮かべる人が多いだろう。照井氏によると、今、広く浸透しているそのイメージは、戦後の住宅開発を担った日本住宅公団が、ブランドのように「団地」という呼称を用いるようになったことにはじまるという。
また、四角いコンクリートの建物の団地にもいくつか種類があるために、世代や地域によってさまざまなイメージが混在しているという。まずは、団地の種類を整理しておきたい。
・公営住宅
公営住宅法に基づいて地方公共団体が福祉のために整備する住宅で、都営住宅や県営住宅、市営住宅などのことをいう。基準所得以下の人が入居可能で、市場賃料よりも低廉な賃料で提供されることがほとんどだ。昭和40年頃までは風呂が設置されない住戸もあり、団地周辺の銭湯に通わざるを得なかったという。
・公社住宅
東京都住宅供給公社などの地方住宅供給公社(1966年以前は、住宅協会)が提供する住宅を指す。中堅所得者以上を対象としており、入居には、一定以上の所得、または一定以上の貯蓄があることを証明する必要がある。公社によっては、賃貸住宅のほかに、分譲住宅の建設や管理、土地の譲渡なども行っている。
・公団住宅
かつての日本住宅公団、現在の独立行政法人都市再生機構(UR都市機構:以下、UR)が手がける住宅。照井氏によると、東京都では公営住宅と公社住宅に「団地」という名称は原則用いていないが、URの公団住宅のみ「○○団地」という呼称を使っている。こちらも一定以上の所得、または一定以上の貯蓄が入居条件である。全国にUR賃貸住宅は約75万戸あり、URは「世界最大の大家」とも称される。本稿は、この公団住宅の話が中心となる。
日本住宅公団とは
戦後の住宅難から誕生した日本住宅公団
第二次世界大戦中、空襲や建物疎開によって住宅の数をかなり減らした日本だが、終戦を迎えると、復員や引き揚げ、疎開からの帰郷によって国内の住宅需要が急激に増加。一気に深刻な住宅不足へと陥った。不足する数は約420万戸と試算され、やむなく誰かの家を間借りしたり、親戚で集まって住んだりして凌いでいた。
「当時の公営住宅の多くは木造の平屋住宅でしたが、建てても建てても需要に追い付かず、『焼け石に水』という状況でした。都営高輪アパートなど、鉄筋コンクリートのアパートも徐々に建てられ始めますが、当時の技術力は需要に対して十分な住戸数を供給できるようなものではなく、予算を充てても、その予算を消化しきれない状態でした」(照井氏)
そこで、抜本的解決策として1955年に誕生したのが、日本住宅公団(以下、公団)だ。それまでの自治体単位ではなく、日本全体の住宅不足解消を目指して作られ、戦前に同潤会にいた技術者なども加わった新進気鋭の組織だったという。照井氏が「すごいペースで建てて、バンバン住宅を供給していく」と表現するように、設立翌年には早くも、公団最初の団地である金岡団地(大阪府堺市)を皮切りに、牟礼団地(東京都三鷹市)、志賀団地(名古屋市)など、鉄筋コンクリート造の賃貸住宅および分譲住宅を全国で次々と完成させる。
団地を新しい日本人のふるさとに
とはいえ、公団はただ住宅を大量供給するだけの組織ではなかった。照井氏は、日本住宅公団5周年記念冊子の冒頭に書かれた一文を紹介する。
「冊子には『私たちのまちを美しい国土にふさわしい新しい日本人のふるさとにすること、それを私たちは念頭にしているのです』と書かれています。それまでの住宅政策は、とにかく建てて住めればいいというものでしたが、公団のそれは、『私たちが日本の新しいスタンダードを作っていくんだ』という気概を持ったものでした。自分たちが考えた住戸が、何万戸もできてしまうわけなので、公団の責任感と使命感というのはすごかったわけです」(照井氏)
標準化された住棟設計と、個性あふれる住棟配置
さまざまなタイプの住棟を考案
公団はさまざまな形状の住宅を考案した。照井氏の説明に基づき、初期の住棟をいくつか紹介する。
・板状住棟
長方形の四角い形の住棟のことである。なかでも公団住宅では、階段室を挟んで2つの住戸の玄関が向かい合っている「階段室型」が多く採用された。「階段室型」は共用廊下を持たないため、バルコニーのある側だけでなく、その反対側も開放されており、通風性や採光性に優れている。
・テラスハウス
平屋または2階建てのメゾネットタイプの住居が連なる長屋状の建物で、専用庭が付いている。
・ポイントハウス(スターハウス)
板状住棟だけでうまく敷地が埋まらないときなど、余った土地に建てられた。三角形の階段室を中心に放射状に3軒の住居を有し、上から見ると星のような形をしている。3面採光が可能で人気だったほか、そのユニークな見た目から、団地の入り口にランドマークとして建設されることもあった。最初の公団住宅である金岡団地にも建てられた。
・ポイントハウス(ボックス型)
壁や窓が多く建設費がかさむスターハウスを改良したもので、1961年の高根台団地(千葉県船橋市)で初めて登場。以降、1970年頃まで建設された。
これら住棟や間取りの設計は、「55-4N-2DK」型や「55-TN-2DK」型のように設計年度を付した標準設計として、各地の団地建設で共通的に使用され、コスト削減やスピーディーな住宅供給に寄与した。
支所の個性が表れた住棟配置
標準設計が採用された住棟設計に対して、団地の個性が表れたのは、住棟の配置だった。
「住棟配置には、各担当者の考え方が表れていておもしろいです。公団の支所ごとに特色が見て取れます」と照井氏。
「風土派」
地形に沿った住棟配置で、敷地の個性を活かす設計。高根台団地や、阿佐ヶ谷住宅などが「風土派」と呼ばれ、東京都と千葉県を担当した東京支所の団地で多く見られるという。
「生活派」
草加松原団地(埼玉県草加市)では、敷地をA~Dの街区に分け、街区ごとに必要な施設を計算して商店等を配置した。各街区の商店街はそれぞれ「A商店街」「B商店街」などと、設計理論を忠実に表した名称だったという。こうした生活機能を理論的に考えた住棟配置は、神奈川県と埼玉県を管轄とする関東支所の団地に多い。
「物理機能派」
上野台団地(埼玉県ふじみ野市)の住棟は、徹底的に南向きに配置された。このような日照条件や経済条件などの物理機能を最適化することに特化した住戸配置も、関東支所にみられる特徴だ。
なお、照井氏が紹介した以上3つの流派は、かつて公団の設計課長を務めた杉浦進氏が提唱したものの一部であり、杉浦氏は他に「幾何学派」「自然派」「未来派」「しあわせ派」という分類も行っている。
団地の歴史
照井氏の著書「日本懐かし団地大全」のまえがきには、「昭和40年代前半頃にかけて(中略)団地は庶民の憧れの的となり」「高度経済成長期を経て(中略)団地は一気に『時代遅れ』」に、そして、「ほんの10年ほど前(中略)団地の魅力が再認識され始めた」と書かれており、団地の変遷が伝わるだろう。
憧れの的だった団地
昭和30年代、お茶の間でちゃぶ台を囲んで食事をとり、同じ部屋に布団を敷いて寝るのが普通だった時代に、団地の板張りのダイニングキッチン(DKスタイル)や寝食分離の新しい住様式は人々の憧れの的だった。ステンレス流し台やシリンダー錠など、最新の設備を反映した団地は人気を博し、入居するには、年によって平均50倍をも超えた高倍率の抽選を勝ち抜く必要があったほか、当時の大卒初任給を超える家賃の住戸もあり、誰もが簡単に住めるものではなかった。分譲住宅にしても、「今でいう億ションに匹敵するようなもの」(照井氏)もあったという。
この頃、原宿団地(東京都渋谷区)やうぐいす住宅(同)などの都心に立地する団地のほか、低層住棟で広い棟間隔をもった大規模な団地が郊外に次々と作られていった。
「昭和30年代は、土地にも余裕があったことと、それぞれの担当者ものびのびと個性を発揮していたようで、後に傑作と言われる団地がたくさんできました」(照井氏)
昭和30年代の郊外は、まだインフラが整っておらず、公団が独自に汚水処理場やガス管などを整備したことから、「団地がひとつの独立国家のよう」だったという。団地自治会が農家と契約して独自に仕入れる「自治会牛乳」なるものも生まれ、住民たちは自ら暮らしを整備していった。ここから始まった生活協同組合は、現在首都圏に展開するパルシステムのルーツでもある。
郊外化・マンモス化する団地
「昭和40年代に突入すると、用地も足りなくなるなかで目標の供給戸数を達成するために、公団は郊外化と大型化を進めていきます。テラスハウスやポイントハウスのような、建設費がかさむ住棟を避け、板状住棟がほとんどとなるなど、団地のバリエーションが少なくなり合理化が加速していった時代です。さらに、土地を有効活用するために高層化も進みます」(照井氏)
経済成長とともに肥大化する都市の受け皿として、多摩ニュータウン(東京都稲城市・多摩市・八王子市・町田市)など郊外のニュータウンではこれまでのノウハウを生かし、大量の住戸が供給された。高嶺の花だった団地が大衆化した時代といえる。公団黎明期に晴海高層アパート(東京都中央区)などで試みられていた高層化も、1971年の奈良北団地(横浜市)建設を皮切りに、郊外でも広く用いられるようになっていった。
「エレベーターがない中低層の団地では未就学児の子どもたちが自由に外に出て遊んでいましたが、高層化してエレベーターが付くと、そうはいかなくなりました。そこで考え付いたのが、建物の中に遊び場を作ってしまおうというものでした」(照井氏)
この頃の公団住宅からは、戸数と良質な住環境の両立に苦心しはじめる様子が見てとれるという。
住宅不足の時代が終わり、空室が続出
1973年、ついに住宅数が世帯数を上回り、数値上では日本の住宅不足は解消された。民間のマンション建設も増えていたこの頃には、条件のよい土地は少なくなっており、公団住宅はさらに郊外化していく。
「都心まで2時間以上といった立地にも、高層の団地を建設しました。しかし、当時の家賃の決め方は建設コストを70年で均等割りするというものでしたから、立地のわりに家賃は高く、「高い・遠い・狭い」の三拍子そろった公団住宅は、募集をかけても埋まらない状況が相次ぎました。“日本住宅公団 闇の10年”が始まるわけです」(照井氏)
挑戦する公団住宅で、イメージアップ
昭和60年代から平成初期にかけては、民間マンションの間取りが保守的になっていく一方、公団は、これまでの画一化した標準設計とは打って変わって、有名建築家たちが手がける「金沢シーサイドタウン」など、挑戦的な新築物件で、“闇の時代”を徐々に脱していく。
同時に、最初期の公団住宅は建設から30年程度が経過し老朽化が見られるようになったことから、1986年には昭和30年代団地の建て替え事業を開始。しかし、照井氏は「当初の建て替えは、進め方があまりよくなかった」と分析する。
「建て替えが決まった団地で募集停止を行い、退去が済んだ住棟から順次入り口をベニヤ板で塞ぐなどしました。しかし、人がいなくなった団地は、見る人にゴーストタウンのような印象を与えてしまいました。これは、近年団地の誤ったイメージを広げた一因だと私は考えています」(照井氏)
とはいえ、洋光台団地(横浜市)では建築家・隈研吾氏やクリエイティブディレクター佐藤可士和氏がリニューアルを監修するなど、目に見えて生まれ変わる団地は、人々に団地のよさを再認識させているという。
「リニューアルできれいになり、ゆとりある敷地に緑豊かな住環境という団地のポテンシャルが見直され、『団地って結構いい場所じゃない?』と人々は改めて気がつきました。団地のイメージは着実に向上しており、今は『団地をどう楽しく利用するかを考える時代』だなというふうに私は考えています」(照井氏)
老朽化した団地をリノベーションによって蘇らせるURの取組みは、空き家問題が取りざたされる現代において、ストック活用のひとつの手本となっている。不遇の時を経て、団地は再び日本の住文化を牽引する存在になっているのではないだろうか。
団地の魅力
「団地」に魅了された照井氏は、自身も団地に居住している。最後に、照井氏が暮らしの中で感じている団地の魅力を紹介したい。
・「広場に行けば友達がいっぱい」
「団地内は公園や広場が多くあり、暇なときに外に行けば、必ずといっていいほど知っている顔に会えます。子どもたちも、広場に行くと団地内の子どもたちと遊べるからと、すすんで外に出て行きます」(照井氏)
・「楽しいことがいっぱい」
「団地にもよりますが、自治会活動が比較的盛んで、団地内の祭りや季節のイベントが多く行われています。これがなかなか楽しくて、お祭り好きな人にはおすすめです」(照井氏)
・「みどりがいっぱい」
「私が住む神代団地は容積率が51.4%(建設当時)です。一般的なマンションが約200%、一戸建てでも80%台が多いですから、かなり余裕があることがわかります。また、団地には大量の樹木が植栽されています。それらが月日を経て成長し、今では緑がいっぱいで、とても気持ちがいいです」(照井氏)
・「遊び場がいっぱい」
「神代団地内だけで、球技が可能な遊び場が6ヶ所あります。オートロックの中にあるマンションの遊び場などと異なり、団地の遊び場は外からのアクセスも容易なので、地域の人たちもたくさん遊びに来ています。『勝手に使われたら困る』などと言う人もいないですね」(照井氏)
戦後の住宅不足を救うとともに、日本人の新しい住生活をリードする存在であった団地。現代においてもユニークな暮らしを提案し続ける団地は、日本の住宅の歴史を語るうえで欠かせない存在だと感じた。
登録有形文化財(建造物)となった旧赤羽台団地の建物も、まもなく公開される(2023年春予定)。公開された暁には、偉大な歴史に想いを馳せながら、見学に訪れてはいかがだろうか。
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「暮らしの創造 団地文化から考える公・共・私」(主催:公益財団法人せたがや文化財団 生活工房)
2022年2月、6名の講師とともに多様な視点から団地の歴史と文化を紐解くセミナーを開催。セミナーの記録動画が生活工房のウェブサイトにて公開されている。
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