「金妻シリーズ」の舞台だったことも
私が中央林間に行ったのは随分昔だ。1980年代に大人気を誇ったTBSのテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」シリーズの第4弾として、1986年に「金曜日には花を買って」というドラマが放送され、その舞台が中央林間だったのだ。それで一度見に行ったはずだが、詳しくは覚えていない。
そもそも中央林間まで東急田園都市線が延伸したのは84年であり、渋谷から随分遠いイメージがあった。
若い読者のために書いておくと、「金曜日の妻たちへ」シリーズは1983年が最初で、舞台は多摩ニュータウンの鶴巻のタウンハウス。だが、なぜか駅は田園都市線のたまプラーザが舞台だった。そのほうがおしゃれだったからだろうし、TBSのスタジオが緑山にあったから、田園都市線のほうが近かったのだ。
結婚し、子どもができ、郊外に家を買った35歳くらいの団塊世代の惑いがテーマだった。
84年の第2弾はあまり話題にならず、第3弾の「恋におちて」が大人気となった。これは田園都市線つくし野の一戸建てが舞台。庭にパティオ(中庭)があり、そこで主人公と友人達が食事をしながら歓談するのがおしゃれだった。ここでも主人公の夫婦の夫は妻とは別の女性と学生時代に同棲していたが、あるとき彼女と再会し……というストーリー。気になったらDVDで見てください。
小田急による都市開発
中央林間駅のある大和市に初めて鉄道駅ができたのは、1926(大正15)年の神中(じんちゅう)鉄道(相鉄線)の大和駅である。
それから29(昭和4)年に小田急江ノ島線が開通し、中央林間都市駅、南林間都市駅、鶴間駅、西大和駅(現 大和駅)、高座渋谷駅の5駅が開業した。
そして小田急電鉄の創始者・利光鶴松(としみつ・つるまつ)がぶち上げたのが中央林間を中心とする「林間都市計画」だったのである。
だがこのことはあまり知られていないのではないか。なぜなら、その開発がとてもうまくいったわけではないからだ。うまくいっていれば、東急の五島慶太や田園調布の渋沢栄一のように誰もが知っているはずだ。
だがそうはならなかった。
中央林間を東京の中心にする
利光は、みずから「誇大妄想狂」と名乗るほど大風呂敷を広げる男だった。最初は弁護士だったが、その後東京市会議員や衆議院議員を歴任。市会議員時代に東京市街鉄道(のちの東京市電、つまり路面電車である)の設立にたずさわり、鉄道経営に関心を持った。
そして現在の大和市を中心とする、当時の大和村、大野村、座間村の沿線区域330ヘクタールを買収し、住宅地、工業地、遊園地を開発して「林間都市」と呼ばれる一大田園都市を建設しようとしたのが「林間都市計画」だった。
林間というのは、この地にカラマツの林が多かったからだという。
江ノ島線にできる3つの駅は、中和田駅、公所(ぐぞ)駅、相模ヶ丘駅の予定だったが、開業直前になって東林間都市、中央林間都市、南林間都市と改名したものだ。利光が田園都市建設に力を入れていたことが想像される。
利光はさらに林間都市に首都を移転するという「相模野遷都論」構想すら持っていた。新宿と小田原の中間に都心を持ってくるというのだ。
それが実現したら中央林間が東京の中心だったかもしれないのだから驚きだ。渋谷から遠いなどと言ったら叱られる。
たしかにここは田園都市の雰囲気
住宅地の周辺には公園、ゴルフ場、野球場、ラグビー場、テニスコートなどを設け、スポーツ施設が集中する中央林間都市駅と南林間都市駅の間の東地区はスポーツ都市と銘打って分譲されたという。
当時の関係者は林間都市を「神奈川の軽井沢」と呼んでいた。小田急のキャッチフレーズは「Your House on Your Land」(あなたの家をあなたの土地に)だったそうで、このキャッチフレーズは大いに受けたという。
第1回目の分譲は南林間都市駅の西地区だったが、今回歩いてみると、たしかに駅前は放射状の街路であり、住宅も素敵な住宅が多い。キリスト教系の幼稚園や立派な病院もあり、なるほど田園都市らしい風景なのだ。
教育的な風土があった
南林間都市の西地区には、教育施設として大和学園(現・聖セシリア学園)が、利光の娘である伊東静江によって1929年に開校された。
彼女は東京聖心女学院時代に、キリスト教(カソリック)に入信し、敬虔なクリスチャンとして生涯を過ごした人物だ。
学園は幼稚園から高校まであり、今も緑が豊かで素晴らしい。伊東自身の手で制定された教育方針には、知育偏重を排して徳育・知育・体育の全人教育が掲げられ、卒業後の女子の経済的自立を目指す内容となっているという。
全人教育の理念は、教育学者で成城学園をつくった小原國芳から学んだものであり、小原を伊東は大和学園の顧問に迎えていた。
文化人たちもやってきた
文化人達も東京から林間都市に移住してきた。
そのひとり、吉井勇は明治から大正にかけて活躍した有名な歌人で、最初与謝野鉄幹の新詩社に属したが、のちに脱会して北原白秋らと青年文芸・美術家の懇談会である「パンの会」をつくった人物だ(「パン」は食べ物のパンではなく、ギリシア神話に登場する牧神であり、享楽の神である。1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に因む)。
その活動は1908年から1913年頃まで続いた。吉井が南林間都市に親戚の別荘を借りて住んだのは1930年から32年だという。
また唐木順三は、私の高校生時代には(1970年代)大学受験の国語の試験に頻繁に出た有名な哲学者であり、1940年以降に南林間に住んだ。彼の随筆には「付近一帯の櫟(くぬぎ)が紅葉する時節は、ほんとにお伽話の国にいるような思いであった。」と書かれている。
1927年には渋谷村で「本を読む会」が設立されていた。これは地元有志が会員を募り金を出し合って本を共同購入し、回し読みをするという読書サークルであった。大正デモクラシーの時代を経て、多くの社会主義系活動が盛んになった時代だったからか、会員は半年で80人も集まった。
そして32年には村に図書館ができ、本を読む会の活動は図書館に引き継がれた。
戦争による変質から次の時代へ
しかし東京への通勤に時間がかかりすぎたために、林間都市はなかなか成功しなかった。
また松竹蒲田撮影所を林間都市に誘致しようとしたこともあったが、結局松竹は大船に移転した。
31年には大日本相撲協会が力士の養成所を開いたこともあったが、翌年、力士達が待遇改善を求めて協会を脱退するなどの事件が発生し、養成所も消滅した。
こうして1941年には3つの駅名から「都市」を削除し、「中央林間駅」「南林間駅」「東林間駅」と改称した。なかなか都市になれなかったからである。
さらに戦争が、田園都市、文化都市づくりの夢を挫折させた。戦争中、大和市周辺は基地が置かれ、軍需工場が増えた。戦後は米軍が座間や厚木に駐留し、1950〜54年の朝鮮戦争、66〜73年のベトナム戦争(米軍撤退が73年だが戦争終結は75年)まで、江ノ島線沿線は米兵相手の商売が増えて、田園都市とは無縁の喧噪が広がってしまったのだ。
だが、それから50年近くが経ち、平和が続いた現在は、大和市にとってはようやく田園都市文化を育むことができる時代になったといえるかもしれない。
大和駅東側に2016年にできた「文化創造拠点シリウス」は、図書館を中心に、芸術文化ホール、生涯学習センターなどが入っているが、図書館は、開館から3年で累計来館者数1,000万人を超え、来館者数は日本一だという。「本を読む会」からの流れであろうか。
参考文献
『大和市史3 通史 近現代』大和市、2002
『大和市史研究』8号 大和市、1982
『大和市史研究』12号 大和市、1986
越澤明『田園都市と田園郊外』住宅生産振興財団、2015
渡邊行男『明治の気骨 利光鶴松伝』葦書房、2000
公開日:







