「鮫陵源」(こうりょうげん)とは何か
中央線の立川から八王子に向かうと2番目の駅が豊田駅である。行政的には日野市。この豊田駅から南に向かうと多摩川の支流である浅川が流れている。
平山橋で浅川を渡ると平山城址(ひらやまじょうし)公園に近づく。
平山城址公園は八王子市と日野市にまたがる公園で、古くは武蔵七党の一族である平山氏の居城(平山城)があった場所だ。
1950年11月23日都立多摩丘陵自然公園に指定され、1980年6月1日に開園した。平山周辺には平山季重の居館があり平山城址公園には見張所があったとされていることから公園の名称にもなっている。公園入口付近にある季重神社では平山季重を祀っている。
平山橋の南東部の河岸段丘の上に今は住宅地が広がっている。段丘の下も平山住宅という集合住宅があり、今はちょうど建て替えの最中だ。しかしこの一帯はかつて「鮫陵源」(こうりょうげん)という娯楽施設の跡地だったという。
実業家 鮫島亀之助がつくった養魚場
「鮫陵源」とは何だかいかめしいような名前であるが、娯楽施設である。鮫島亀之助という人物がつくったものだ。平山をさぐる会『平山をさぐる〜鮫陵源とその時代』によると、鮫島氏は鹿児島県出身。元島津家の薩摩藩士の家柄であり、西南戦争で西郷隆盛側についたためにお父さんが処刑されてしまった。
そのためか母親と共に上京。小学校を終える頃にはロサンゼルスに渡り、学校卒業後は貿易商に勤務。大正の半ば頃に帰国して事務機、キャンデー、チョコレートなどを輸入する鮫島商会を銀座に開設し、アメリカ製のタイプライターを注入する総代理店として成功し、京王電鉄の第3位の株主となったのだった。
そういうわけで京王線沿線の平山城址近くに鮫陵源をつくることになったと思われるのだが、もう1つの理由は、鮫島氏が金魚の養殖を趣味にしており、浅川沿いの河岸段丘からの大量の湧き水が養殖に適していたことである。
なるほど日野というのは、水路が有名な土地である。「鮫陵源」跡地近くを歩いてみても、地主さんらしい大きな家に沿って水路が流れており、なかなか良い眺めである(陣内秀信・三浦展『中央線がなかったら〜見えてくる東京の古層』参照)
高級食堂に遊園地
「鮫陵源」は1936(昭和11)年6月に開園した。敷地面積は6万6,000m2(9万9,000m2という説もある)。川沿いに金魚の養殖池が大小60区画もあった。養殖した魚は、アユ、マス、ウナギ、コイ、フナ。金魚等の観賞魚。魚ではないが食用のスッポン。また、ガチョウ、合鴨を1,000羽も飼っていた。
敷地には和風広間、小座敷8室、洋風食堂3室を持った日本館があり、上記の新鮮な魚や鴨を使った料理が食べられた。また新宿の「二幸」(今のスタジオアルタの場所にあった)にも魚が卸されていた。
定食の値段は2円から5円だったらしいが、当時の江戸前寿司の値段が30銭だったというので、7倍から17倍。3,500円から8,500円くらいだろうか。いずれにしろ、かなり高級だったようだ。
子どものための遊園地も
また敷地には、三角屋根の洋風建物も建ち並んでおり、屋根の上には「鮫陵源」のシンボルマークの入った旗がたなびいていた。それが当時はとても洋風で、おとぎの国に来たように感じられたらしい。多摩の山あいにできたのだから、当然だろう。
遊園地もあり、25mプール、釣り堀大小3箇所、鉄棒、ブランコ、シーソーなどの子ども用遊具のある場所、ウッドボールゴルフという「鮫陵源」独自の遊びができる場所があった。
ウッドボールゴルフとは、ゴルフとクリケットの中間のようなスポーツらしく、直径7cmほどの木の球を、柄のついた長さ90cmほどの棒で打ち飛ばし、得点を競うものだったらしい。
段丘の上から平山住宅のある低地のほうに向かっては、「大山滑り台」があり、「鮫陵源」のシンボルだった。大山滑り台は当時の娯楽施設には必ずといってよいほど設けられたものである。また10mくらいの高さを、滑車のついた台に乗って滑り降りる大きな滑り台もあった。
八王子など近隣の子どもたちが遠足に来る場所でもあったようである。
戦後は料亭、そして団地に
このように地域住民にも親しまれた「鮫陵源」も、1941年に鮫島氏が没し、43年には戦争のために経営中止となった。施設は陸軍に接収され、建物は軍服の肩章を作る工場となった。養殖池には東南アジアの占領地から持ち込まれた生ゴムの塊が沈められて保管されたという。
戦争が終わると「鮫陵源」全体は復活しなかったが、「鮫陵源」の土地は税金の代わりに物納され、八王子の医師に転売されて、その後日本館を使って料亭としての「鮫陵源」が復活した。子ども向けの遊園地は荒れたまま放置されたが、近所の子どもたちはそこで勝手に遊んでいたらしい。養殖池にも魚がまだいて、それを獲る子どももいた。昔は今と違って空き地を立ち入り禁止にしたりしなかったからである。
女の子たちにとっては、洋風の建物などの雰囲気がロマンチックな印象を与え、不思議の国のアリスを連想したりすることができる場所だったらしい。
だが料亭は1955年に廃業となり、土地は東京都住宅供給公社に売られ、64年には平山住宅として開発されたのだった。
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