「団地」を社会との関わりから紐解く

1950年代半ばから日本全国で誕生していった「団地」。半世紀以上が経ったいま、すでにありふれた街の一部となっている。私たちの暮らしの一部と言っても良い団地だが、これまでに辿ってきた道筋はどのようなものなのだろうか。とりわけ社会との関わりにおいて、どのような関係を築いてきたのか。

人間・環境学会(MERA)は、1982年から環境デザイン、行動科学、建築、社会学など多様な分野の研究者が参加する学際的研究会であり、同学会は年に数回テーマを設けた研究会を開催している。2018年2月17日に「団地が積み重ねてきた経験~時代のパイロットモデルから社会の受け皿へ~」と題して、法政大学市ヶ谷キャンパスにて開催された。

団地がどのようなことを期待されて作られたきたのか、そして、長い年月を経るにつれて、その役割はどのように変わっていったのか。3人の識者からの報告と、2人の研究者を加えたディスカッションの模様をレポートしたい。

「団地」を社会との関わりから紐解く

団地オーナーであるUR都市機構が見る、これまでとこれから

法政大学デザイン工学部岩佐昭彦教授より、全体の趣旨説明とともに、現在「団地再生」に課題として取り組む学生も少なくないことや、「エスニシティ」や「共生」といったキーワードが提示され、研究会がスタート。

最初はUR都市機構の小正茂樹氏が団地を管理する立場から、どのような課題に直面しているかを中心に報告された。

日本住宅公団は1950年代半ばから各地で団地を建設。当時は最先端の住まいであり、当選倍率が300倍にも及んだという。1956年に完成した日本最初の団地と呼ばれる金岡団地の事例を見ても、鉄筋コンクリート造、ダイニング・キッチン、風呂、洋式トイレを備えたものだった(公営住宅標準設計51C型)。

この住宅様式をひな形に、以降大量供給の時代へと入っていく。現在はUR都市機構だけでも74万戸もの住宅ストックを抱えるまでになったが、その結果として既存ストックをどう活用するのかという課題に直面している。決して新しくはない既存ストックも多い中で、UR都市機構は団地の新たな価値を見出すことと、多世代の顧客を引き込んでいく施策が重要だと小正氏は語る。

「団地には豊かな植栽環境と開放性を持つものが少なくない。樹木も大きく育ち、建設時から時間を経たことがプラスに働いている。UR都市機構はBBQガーデンを整備したり、クラフトマーケットを団地内で開催することで、これらに目を向けるような機会作りにつなげている。多世代顧客へのプロモーションとして、生活雑貨を扱う企業や大学との共同プロジェクトや、自由なDIYを可能にした居室を提供することで、新たなニーズへと繋げる試みも行っている。」
小正氏はこれらを単発的な取り組みにはせずに、顧客との対話を通して広げていく体制作りを進めて行きたいと今後の展望を語った。

小正茂樹氏(UR都市機構西日本支社)、モノクロ写真は金岡団地の空撮写真小正茂樹氏(UR都市機構西日本支社)、モノクロ写真は金岡団地の空撮写真

団地が創り出したもの

祐成保志氏(東京大学大学院人文社会系研究科)祐成保志氏(東京大学大学院人文社会系研究科)

次に東京大学の祐成保志氏が登壇し「団地はどのように新しかったのか?」と題した研究報告へと続いた。
祐成氏は団地を生み出した背景や、団地ならではの特徴がなぜ備わるに至ったかを、社会政策や社会調査の面からのアプローチをもとに紐解いていく。例えば団地の立地が駅から遠いものが多いのは潤沢な資金を持たない中間層に良質な住宅を届けるためであったことなど、社会政策によって団地が形作られてきた経緯を知ることができた。一方で住宅難の解消に対して「団地を作ること」以外の解決策が採られてこなかったことにも触れ、住宅補助などの支援策が回避されてきた歴史でもあることも認識したいと述べた。

続く報告で興味深かったのは、リビングもダイニング・キッチンも団地をゆりかごにして生まれてきたことだ。団地居室の基準となった「公営住宅標準設計51C型」は東京大学建築学科の吉武泰水研究室によって1951年に提案されたが、ここに初のダイニング・キッチン=DKが盛り込まれている。その経緯が面白い。事前に研究室が行った「部屋2つ+台所のみ(現代的にいえば2K)」の住宅に対する住み方調査で、ほんの少数ながら台所を改造して食事室と兼用する家庭があった。ここに先進的な住まい方を見た研究室は、台所を拡張したダイニング・キッチンを生み出すに至るのである。調査をきっかけとした間取りの進化は続く。1960年に住宅公団が実施した調査で、今度は居住者が自宅内を公的領域と私的領域に分けて使い始めている姿が見えてきた。公的領域=すなわちリビングの形成である。結果として1963年に公団の標準設計には「LDK型」の間取りとして形になっていく。私たちにとって馴染み深い「LDK」は、団地を舞台に研究者と居住者、住まいの供給者(住宅公団)の3者の相互作用から形作られてきたものなのだ。

団地は社会政策として中間層をターゲットに構想され、実際に新たな社会形成に寄与することになった。かつての日本は「一億総中流」を自認したが、団地はそれを映し出す鏡のような存在であったと祐成氏は語る。団地特有の均質な空間は居住者同士の「暮らしの違い」を感じさせたが、それは格差として受け取られたわけではない。ちょっとした違いを意識し合うことが、逆に「同じ社会を生きている」感覚を強く呼び起こしていたのだ。戦後経済を担う中間層を生み出そうとした政策と、住宅の規格化・標準化を進めてきた研究者と供給者、そして実際の居住者が互いに接近していた団地は、「総中流」意識をつなぎとめる一種の連結器であったと締めくくった。

団地族はどのように変化していったのか

小池高史氏(九州産業大学国際文化学部)小池高史氏(九州産業大学国際文化学部)

最後の報告は九州産業大学の小池高史氏による「公団住宅入居者の変化」として、団地入居者の特徴とその移り変わり、そして高島平二丁目団地での事例が紹介された。

小池氏は、2017年5月に『「団地族」のいま―高齢化・孤立・自治会』(書肆クラルテ)を上梓。同書は団地住人の人間関係、自治会活動、団地内新聞などのローカルメディアなど、今まさに団地で起きている事象を丁寧に拾い上げている。「団地族」とは1950年代の後半から流行した言葉で、団地に住まいを求めたのは若く所得水準も近い世帯ばかりであった。その後、1970年代~80年代を通して団地族の集団としての存在感は薄れて、2000年代以降は外国人居住者の増加も見られて、多様な暮らしの場へと変化していく。かつて団地族として入居した世帯だけではなく、新たに団地に流入してきた世帯も合わせて、全体としては高齢化が進行している。

団地におけるアクチュアルな事例として、小池氏は高島平二丁目団地で自治会が主導する「助け合いの会」という互助活動を取り上げた。この会は日常のちょっとした頼み事を住人同士で解決し合うもの。2000年の介護保険制度の誕生によって、従来の制度では対応できなくなった部分を補完するために組織された。すでに15年以上の活動歴を持つが、2011年からは利用者が急激に増えてきているという。このような取り組みに人が集まっていること自体は、コミュニティによる自発的な連帯としてポジティブに評価できるのだが、小池氏によれば、利用者の増加の原因は2011年と2014年に行われた家賃の値上げにあると推測されることから、そこにはシビアな背景があることを忘れてはいけないと述べた。

これからの団地を考えていくために

3名からの話題提供を終え、北海道大学の野村理恵氏をモデレーターに、九州大学の南博文氏、名古屋大学の小松尚氏を加えてディスカッションが行われた。

南氏は「団地は時代のモデルから、多様な住民の受け皿へと変容してきたことがよくわかった。個人的には団地を多様性という言葉だけではくくりきれないと感じる。多様性から何を見出し、どう発信するのか。そこを考えることでより確かな特徴を捉えることができるのではないか。」という意見や、小松氏からは「祐成氏の指摘のように社会学でやるべきことを建築計画学が担ってきた歴史がある。そして団地の大量供給以外の施策がとられなかったことは大変興味深い。現状を分析する社会学と、未来を紡いでいく計画学がタッグを組めば、もっと建設的な解決策を提示できるのではないか」などの未来を見据えた提言がなされた。

実務者として団地を管理する側である小正氏、住宅政策や過去の調査記録を元に俯瞰的に見つめる祐成氏、研究者として団地の中に入り、自治会や住民の生の声を拾いながら描き出していく小池氏、3者それぞれがまったくちがう見地からのアプローチではあったが、それらが研究会でひとつになって議論されたことは、いままでにない試みだったのではないだろうか。

これからも団地をめぐるさまざまな研究や議論に注目していきたい。

写真左・南博文氏(九州大学人間環境学研究院)、写真右・小松尚氏(名古屋大学環境学研究科)
写真左・南博文氏(九州大学人間環境学研究院)、写真右・小松尚氏(名古屋大学環境学研究科)

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