日本の中のアメリカ「ワシントンハイツ」

都内で4番目に大きな現在の代々木公園。かつてここには「ワシントンハイツ」が建ち並んでいた都内で4番目に大きな現在の代々木公園。かつてここには「ワシントンハイツ」が建ち並んでいた

青々した芝生と広い空、都心とは思えない穏やかな空気に包まれ、四季折々の自然を楽しめる代々木公園。ここですごす人々のなかに、51年前まで「ワシントンハイツ」という米軍の将校用住宅地があったことを知る人は多くないだろう。

第二次世界大戦後、占領軍の日本駐留のために、宿舎の確保が命題だったGHQは、1946年2月に「日本の資材とアメリカの設計で米兵の生活様式を満たす建物」20,000戸の建築命令を出す。

現在の代々木公園一帯は戦前、代々木練兵場という軍事施設だったため終戦後いち早く接収され、終戦から1年後の1946年8月には米兵将校用住宅のDependent Housing(ディペンデント ハウジング:扶養家族住宅・以下DH)が着工。翌年9月、約91万平米の敷地にDH827戸・学校・教会などが竣工し、「東京のなかのアメリカの街=ワシントンハイツ」が形成された。その他にも、練馬のグラントハイツ・霞ヶ関のリンカーンセンターなど都内の主要都市と全国の基地周辺にDHは多く建てられた。

DH=扶養家族住宅はその名の通り、家族で暮らす家。“身一つで”来日して暮らせる家具付き住宅であり、将校クラスの米兵は本国から家族を呼び寄せて暮らしたという。

日本人の住まいに影響を与えた「Dependent Housing」

平屋・瓦屋根が「米軍ハウス」の大きな特長平屋・瓦屋根が「米軍ハウス」の大きな特長

DHの設計の中心となったのが、GHQ技術部デザインブランチの責任者ヒーレン・S・クルーゼ少佐。彼は日本の大工が効率的に建築できるように、インチを尺寸法に書き換え、当時アメリカの主流だった2×4ではなく木造軸組工法で建築できるようにした。入居後のコミュニティにも配慮され、1グループの戸数は偶数、曲線道路に沿って住居を配置し、芝生のある前庭には柵を設置せず境界をオープンにするなどの工夫がなされた。さらに、アメリカの設計で日本の業者がつくった家具が備え付けられた。

突如あらわれた「東京のなかのアメリカ」は、周辺で暮らす日本人にとっては脅威であると同時に憧れでもあったようだ。現在、入間市で60年前のDHを保存し「ジョンソンタウン」を運営する磯野達雄さんに当時の様子を聞いた。
「たしかに、広い芝生に白い家、冷蔵庫・洗濯機をつかい、冷暖房完備で真冬でもTシャツ姿のアメリカ人家族の暮らしは、当時の日本人の憧れもありましたね。ただ、家には大黒柱があって、大きな木でつくるものという当時の日本人の価値観からすると、梁や柱が細くてベニヤに囲まれたハウスは、これを住宅にしていいのかというものでもありました」

暮らしのコミュニティ形成を想定した設計、家具・家電の揃ったDHの暮らしは、結果、今までの日本の住まいとは違う価値観を日本人に印象づけた。
GHQデザインブランチの仕事の記録が書かれた『Dependents Housing』という本の中にクルーゼが寄せた言葉がある。
「本書に示された住宅は連合軍家族の大部分に適合するものと考えられるのであるが、同時に、日本人にとっては新住居・新生活様式の先駆けと見なされ得るものである」。

ここから日本人の暮らしは、電化製品を揃え、畳にちゃぶ台の暮らしからテーブルとソファを置く“洋風”へ変化していく。

オリンピック選手村から福生幻想を経て、文化の発信地へ

現在の福生。国道16号線を境に横田基地と市街に分かれている現在の福生。国道16号線を境に横田基地と市街に分かれている

1961年、ワシントンハイツが建つ土地は日本に返還され、3年後に開催された東京オリンピックの選手村になり、DHは各国選手の宿泊施設として利用された。オリンピックが終了するとDHは取り壊され、ワシントンハイツは消えた。

一方で、米兵家族の家という役割を終え、新しい役割を持って今も残っているDHも日本各地に点在している。
横田基地に隣接する福生のDHもそのひとつ。1950年代の最盛期には2,000戸にのぼった福生のDHだが、朝鮮戦争・ベトナム戦争の終戦で取り壊しが進み、現在残っているのは100戸前後だと言われている。その残ったDHに入居したのが駆け出しのミュージシャンや作家。玄関がなく土足で生活するように設計された住まいは、当時の一般的な日本人の暮らしには合わず人気の無い賃貸物件であったが、広くて安く、アメリカの文化を受け継いでいるDHはミュージシャンや作家を強力に惹きつけ、当時気鋭のクリエイターらがこぞってDHに入居した。後に有名なミュージシャンや作家を輩出したこのムーブメントは「福生幻想」と呼ばれ、これ以降、DHは文化の発信地へと役割を変えていく。

米兵家族用住宅から文化発信地へ

入間市にある「ジョンソンタウン」。広くとられた家間隔に豊かに育った木々が茂る入間市にある「ジョンソンタウン」。広くとられた家間隔に豊かに育った木々が茂る

入間にある「ジョンソンタウン」は、日本では数少ない計画的にDHが残されたエリア。約25,000m2の敷地にDH24棟を含む79棟が配置され、店舗と住居が混在している。

元々が安普請のDH、60年が経ち保存と運用は大変だろう。それでも残していく理由をジョンソンタウン代表の磯野さんに聞いた。
「素敵な住宅街を残したいという思いがあります。空が広く見える背の低い建物、風が通り抜ける家間隔の広さ、その間には豊かな緑がある。かつてあったDHが建ち並ぶ街並みは、今思うととても美しかったんです。そして、そこには塀や高い柵がなく、近隣住人とのコミュニケーションが自然発生的に生まれるように設計されていました。日本も昔は『向こう三軒両隣』の精神がありましたが、現代のマンション暮らしでは難しいですよね。こういう文化は残していくべきだと思っています」

戦争という不幸な事実を出自に持つDHは、世代によって感じ方が様々にあるだろう。ただ、DHが50年前に実現していた近隣同士のコミュニティや、窓から見たときの豊かな緑は、無節操な開発によって美しさが失われつつある現代の街並みが回帰すべき“お手本”になるかもしれない。

※参考文献
秋尾沙戸子『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』2009年/『西多摩新聞』2014年7月11日/アラタ・クールハンド『FLAT HOUSE STYLE01』2010年

2014年 09月26日 11時08分