岐阜県高山市。四方を山に囲まれたまちで閉校した小学校を蒸留所に再生
乗鞍岳と御嶽山の狭間にある高根地域は、一級河川・飛騨川の水源地としても知られ、豊富な水量を誇るエリア。そんな自然豊かな地にあった旧高根小学校が、良質な水と澄んだ空気に恵まれたウイスキー蒸留所として新たな道を歩んでいる北に乗鞍岳、南に御嶽山を望む、岐阜県高山市の高根町。
緑に包まれた自然豊かなこのまちに、かつて子どもたちの元気な声が響いていた場所がある。人口減のため2007年に閉校した旧高根小学校だ。
子どもたちが去って約15年を経ても静かに佇んでいたが、その間も地域の人々が清掃や草刈りを定期的に行い、校舎や空気感は朽ちることなく保たれていた。
閉校時に当時の児童が黒板に書き寄せたメッセージ、使い込まれた木製の棚、教室に差し込むやわらかな光──まるで時間が止まったかのようにそこにあり続け、長く愛された学び舎は、荒んだ廃墟となることなく、”地域の記憶”として大切に守られてきたのである。
そんな旧高根小学校が、新たな役割を担って再生したのは2023年5月のこと。
岐阜県初のウイスキー蒸留所「飛騨高山蒸溜所」として新たな命を吹き込まれた。
元小学校を利活用してウイスキー蒸留所にするという、世界でも類をみないプロジェクトを進めたのは、200年以上の歴史を持つ飛騨高山の蔵元「舩坂酒造店」。
飛騨高山の城下町風情漂う「古い町並」に母屋を構え、観光と酒造を掛け合わせた経営でも注目される造り酒屋が、ウイスキー事業に乗り出した背景には地域創生への想いもあったという。
飛騨高山蒸溜所を訪ね、プロジェクトの中心人物である舩坂酒造店代表取締役社長の有巣弘城さんに話を伺った。
飛騨高山の造り酒屋が手がける、岐阜県初のウイスキー蒸留所
有巣さんの家業のルーツは曾祖父母が営んでいた高山の洋食店。その後ブライダル業や旅館業なども展開して事業を拡大。そのグループ力を期待され、300年以上の歴史がある高山の酒蔵「舩坂酒造店」を引き継ぐことになったという。
「いずれ会社を継ぐことは承知していましたが、当時の私は東京のコンサルティング会社で働いていました。経営コンサルの仕事に打ち込んでいたところに、実家から『造り酒屋を引き継ぐから帰ってこい』と連絡が。想定していたよりも早く高山に戻ることになりました。
最初は戸惑いもありましたし、正直なところ日本酒もそんなに得意ではなく・・・。ですが、あるとき杜氏に搾りたての新酒を勧められて口にしたところ、『日本酒ってこんなに美味しいのか!』と驚きまして。背中にバーッと電気が走ったような衝撃を受けたんです」(有巣さん)
日本酒が得意ではない自分がこれほど感動するのなら、お客様も感動させられるに違いない、とスイッチが入り、酒造りに本気で向き合い始めた有巣さん。立ち呑みスタイルを取り入れた直販など、観光と掛け合わせた体験型の日本酒の楽しみ方を打ち出し、日本酒の魅力を幅広い世代にも届けるために積極的に動く。
飛騨高山は古くから盛んな酒造り文化がユネスコ無形文化遺産にも登録されているが、その文化を尊重しつつも現代のやり方で新たな風を吹き込み、舩坂酒造店は大きく発展した。
そのまま順調に進むかと思われたが、世は未曽有のコロナ禍に。
観光業と掛け合わせた事業展開は影響も大きく、経営状況は低迷。打破すべく、まずは他地域の酒蔵との連携を模索したという。
転機となったのは2021年に富山県の若鶴酒造を訪れたこと。
「酒蔵を見せていただいているときに、若鶴酒造の稲垣さんに『実はウイスキーもやっている』と聞きまして。せっかくならと運営していらっしゃる三郎丸蒸留所の様子を見せてもらったんです。そのときにも背中に電気が走るような感覚がありました」と有巣さん。
若鶴酒造が運営する三郎丸蒸留所は、昭和初期の建物をリノベーションし、地域と歴史を大切にしながらウイスキーを生み出している蒸留所。
蒸留設備や発酵槽が稼働する様子を目の当たりにし、「ここまで古いものを活かせるのか!面白い」と直感的に惹かれたうえに、稲垣さんから「祖父が50年前に仕込んだウイスキーを飲んだときに感動した」というエピソードを聞き、時を超える酒であることに心を打たれたそうだ。
「ウイスキーも古い文化や人の想いを受け継ぐ酒なんだなぁと。昔ながらのものを大事に受け継いできた飛騨高山だからこそ、相性が良い酒だと感じた」と有巣さんは振り返る。
高山に戻ると早速さまざまに働きかけ、賛同を得るとともに、コロナ禍の経済支援による補助金や無利子融資等も活用してウイスキー蒸留所構想を具体化させていった。
ウイスキーづくりに適した旧高根小学校。そこに地域の想いが加わり再生が決まる
こうして動き出したウイスキー蒸留所づくり。
大前提として、ウイスキーを作るためには、広大な土地、清らかな水、静かな環境が求められる。
候補地の検討を重ねた末に、十数年前に閉校した旧高根小学校をリノベーションして蒸留所にすることを決めた。
「酒造りに適した良質な水が豊富で、小学校の広い敷地もある。自然豊かな高根の環境は条件を備えていました。高山市街地から車で40分程とアクセスも問題なく人も呼べる。それに、地域の方に守られ、時を止めたままここにある小学校が、なんだか自分たちが来るのを待っていてくれたような気がしたんです。これは『ここでやるしかない!』と」(有巣さん)
ウイスキーづくりに適した立地条件に加え、決め手となったのは、地域の人たちが大切に守り受け継いできた学校への想いだ。
そんな想いも乗せてクラウドファンディングも実施し、廃校した小学校をウイスキー蒸留所として再生するという前代未聞のプロジェクトには全国の約930人から計3,760万円が集まった。
地元だけでなく地域外からも寄せられた数多くの共感も大きな後押しになったのだった。
地域の人々の思い出や、学び舎の姿をできるだけ残してリノベーション
廃校をリノベーションするにあたり、大事にしたのは「過去の記憶をできる限り消さない」こと。
「廃校活用の事例は色々ありますが、大きく生まれ変わるのではなく、“そこにあった記憶”を薄れさせないようにしようと。
構造上変えないといけない部分や、蒸留所の仕様にする部分は手を加えても、全体の雰囲気は壊さないようにしました」(有巣さん)
小学校建設時の手書き図面には詳細がなく、思いがけない場所に柱が出現したり、整備されていなかった上下水への対応が必要だったりと大変なこともあった。だが、ウイスキー樽や設備機器が入るようにするためドアの拡張や耐震補強など、必要不可欠な部分のみ改築し、地域の思い出が染み込んでいる旧高根小学校の、当時の空気感はできる限りそのまま生かされた。
教室をはじめ、校章の入った重厚な机が置かれた校長室や、学校行事を記した黒板がある職員室は、樽詰めされたウイスキーを熟成する貯蔵庫になっている。かつて児童の通学用玄関だった場所には、麦芽を挽くモルトミルが設置された。そして、蒸溜所の本丸となるのは体育館。小学校だった頃はさまざまな催しや式典が行われたステージには今、ウイスキーづくりに欠かせないポットスチル(蒸留器)が鎮座している。
今も教室には“小学校最後の日”に当時の児童たちが黒板に寄せたメッセージが残る。
子どもたちが元気に行き交い、ときには走って怒られたであろう廊下も、並んで手を洗った水場もそのままだ。
学び舎で使われていたチャイムは今も時を告げ、記憶の中の学校生活を呼び覚ますような郷愁を誘う音を聞き思わず涙ぐむ地元の年配者もいたという。
ウイスキー蒸留所に生まれ変わりながらも、小学校の記憶が深く息づく、二つの顔を持つエモーショナルな場所として新たな役割を担っているようにも感じる。
近い将来は、オール岐阜県産のジャパニーズウイスキーを。高山の誇りとなる蒸留所を目指す
飛騨高山蒸溜所として生まれ変わったいま、有巣さんや5人のスタッフが年間300樽ほどの原酒を仕込んでいる。
日本でも珍しい銅と錫の合金製の蒸留器を使って作られており、蒸留段階から丸みを帯びた香り高くリッチな味わいが特徴だとか。
蒸留をスタートして1年後の2024年には、独自配合のブレンデッドウイスキーも2種リリース。長年ウイスキー業界で経験を積んだブレンダーが顧問を務め、その品質にも高い注目が集まった。
一方で2026年秋に初リリースを予定しているのが、この蒸留所で仕込んだ原酒のみを使用したシングルモルトのジャパニーズウイスキー。
日本洋酒酒造組合が定めた「ジャパニーズウイスキー」の自主基準では、国内での製造・蒸留・熟成を3年以上行うこと、日本の水を用いること、日本国内で瓶詰めされることなどが要件となっているが、飛騨高山蒸溜所もこれに則った製造体制を整えることになる。
さらに見据えるのは、ウイスキーづくりの材料となる麦や樽材などのすべてを岐阜県産で揃える「オール岐阜県産ウイスキー」だ。
伝統的な木工技術と豊かな森林資源が息づく地域ゆえの試みは既に行われており、飛騨地域の職人が作る国産樽「HIDA BARREL」(ジャパニーズオーク・アメリカンオークの2種類)も実現。飛騨のミズナラを用いた樽製造も進行中で、現在はスコットランドから直輸入している原料の大麦麦芽についても、一部岐阜県内での栽培実験を開始しているという。
「目指しているのは、地元の素材で、地元で作って、地元の誇りになるようなウイスキーです。地域の皆さんに、『おらが村に蒸溜所がある』という誇りを持ってもらえるようになれたら嬉しいですね。今や300人を切った人口を急に増やすことは難しいですが、この町を好きになってくれる“関係人口”は増やせるはずです。観光のフックも強めて、そんな人を少しずつ増やしていけたら・・・それが本当の意味で地域の宝になると信じているんです」と有巣さん。
ウイスキーづくりを通じて、先人が大切にしてきた文化や記憶という”地域の宝”を守り、未来へと繋いでいきたい――そんな想いとともに、新たな価値を育んでいる飛騨高山蒸溜所。
時を超える”地域の味”が生み出されることで、木と清流の国・飛騨高山の魅力がさらに増えそうだ。
■飛騨高山蒸溜所 https://www.whisky-hida.com/
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