江戸時代の火災対策~江戸の火災対策・大坂の火災対策

災害大国日本。なかでも地震・風水害・火事は、人々を苦しめてきた。
火災は人災がほとんどであり、対策することによってある程度は防げるものだ。だから、特に木造家屋が密集する都会では、さまざまな防火対策が施されてきた。それでも記録に残る江戸時代の火災は800以上。
有名な江戸時代の火事を挙げると、振袖火事と呼ばれた明暦の大火(明暦3年)、目黒行人坂の火災(明和9年)、丙寅の火災(文化3年)この3つは「江戸の三大火災」とよばれている。

放水車のなかった時代では、水による消火では追いつかないので、火事の風下にある家を先んじて壊し火の手を止める「破壊消防」が主な消火方法だったから、火災がおこるたび、人々は大いに苦しめられた。

武家による大名火消や、定火消は、武家地、町地にかかわらず消火作業を行うものだが、時代劇などでも活躍する町人による町火消しのほうがよく知られているだろう。
享保3(1718)年、南町奉行の大岡忠相は、名主らから防火方法を聴き取り、それをまとめて「町火消設置令」を公布して、身体能力の高いとび職たちを火消しに選んだ。現代人にもおなじみの、いろは48組(当初は47組)が編成されたわけだ。

櫓が組まれた番屋が各地域に設置され、火事が起こると半鐘を鳴らして火消しを集める。火事の際は、当該地域だけでなく、風上、左右それぞれ2町から火消しが30名ずつ出動した。
江戸では火災予防の知識も町人たちに共有されており、火災が発生すると町人たちも消火活動に協力した。さらに町内で協力して住人を救出したり貴重品を持ち出したりするだけでなく、火災が鎮まったあとは「火事見舞い」で被災者を助けるなど、助け合いの精神で火災に対処していたようだ。

火消しが火災現場で用いる標具となった纏火消しが火災現場で用いる標具となった纏

一方、商家の多い都会であった大坂では、毎年「火之元念入れ申す可く候」の御触れを出し、くわえ煙管の禁止や大型花火の打ち上げ規制などを定めていた。

消火活動は町人の義務で、受け持ちの地域で火事がおきれば、それぞれが手桶を持って火元に集まらなければならない。井戸がどこにあるか周知され、用水桶の設置も義務付けられていたというから、大坂では、破壊消防だけでなく、水による消防も行われていたのだろう。
さらに、屋根を板葺きから瓦葺きに替えたり、漆喰を塗りこめて延焼しづらくしたり、隣家との間に防火用の袖壁を設置したりするなど、家屋の防火対策も、他の都市に先んじていたようだ。

火消しが火災現場で用いる標具となった纏商人のまち大坂では用水桶の設置も義務付けられていた

江戸時代の地震対策

地震や風水害といった天災は、防ぐのが難しい。
特に地震は予知もできないし、防ぐこともできないから、タケミカヅチなどの神が地震を起こすナマズを鎮めようとする「鯰絵」をお守りにするなどして、鎮めようとした。さらに家屋建築の際は、柱を固定し、壁や床にはゆとりを持たせて耐震性を向上する工夫もしている。

幕末の安政期には畿内や江戸、東海地方で大地震が相次ぎ、その様子が『安政見聞録』に残されている。
いったんは家屋から逃げた嫁が、姑を助けに戻って命を落とした話や、大きな家屋は倒壊がなく逃げ遅れた人は助かったが、家族を見捨てて逃げた娘が倒れてきた土蔵の下敷きになって死んだという事例があり、人間の運命の機微は今も昔も変わらないのだと思わされる。
また「天気が朦朧として空が近く見え、星がいつもの倍に見えて暖かいとき、また鳶が舞い、烏が騒ぎ立って、雉が声を合わせるとき」は地震の兆しだと知っていた老夫が地震を予言した話などもあり、興味深い。
現代でも地震を予知する雲が取り沙汰されたりするが、科学的な裏付けはとれないようだ。

江戸のまちはたびたびの火災や地震にみまわれた江戸のまちはたびたびの火災や地震にみまわれた

また、江戸時代には地震がおきると船に逃げる人々が多かったらしい。地震は地面の上で起きるものだから、水の上は安全だと考えたのだろう。
しかしこれは、有効ではなかったようだ。災害の記録『災変温古録』にも、津波から逃れるために船に逃げようとしたが、波が乗り上げたため、川へ転落して亡くなった女性がいたと記録されている。さらに、安政元(1854)年に大坂で起きた安政南海地震では、市中では2名が命を落としただけなのに対し、船に逃げた人々は341名もが亡くなった。川に流れ込んだ津波で船が転覆したのだ。

津波から船を守るには、船で沖に出る「沖出し」が有効な場合もある。江戸時代の哲学者である菅江真澄は、蝦夷での遊覧記のなかで、「五十二年前なるつなみに、沖なるふねはことなかりしと、ふるき翁のをしへたるをまもりて」と書いており、江戸時代には、沖にある船は津波に破壊されないことが知られていたらしいとわかる。

現代でも、地震の予知は難しいが、家屋の耐震性能をあげたり、持ち出し用袋を備えたりして、防災対策の意識は進んできている。

江戸時代の風害対策、水害対策

風害・水害は大凶作の原因ともなる。
天保四年から十年(1833~1839)におきた天保の大飢饉は、20~30万人もの餓死者を出したとされる。大坂でも毎年200人前後の餓死者があり、大塩平八郎の乱の引き金となっている。原因は大雨による冷害と、洪水。米作りを推奨して、他の農作物があまりつくられていなかった仙台藩では、特に被害が大きかったという。
それでも、それまでに寛永の大飢饉・享保の大飢饉・天明の大飢饉を経験していた幕府が、凶作対策を施したため、死者の数は比較的少なかったとされるから、飢饉の恐ろしさがわかるだろう。

古来、台風に苦しめられてきた日本では、さまざまな対策が考えられてきた。
川の氾濫を防ぐための堤防、流水量を調整して排水を行う水門(樋門)を設置するほか、河川の流れを変える付け替え工事が、山形県の日向川、千葉県の荒川、長野県の千曲川などで行われている。

特に有名な、奈良県から大阪府へ流れる川の大和川の付け替えが着手されたのは宝永元(1704)年のこと。大和川はと石川の合流地点から、何本もの川に分かれており、この付近は低湿地となっていた。だから、大雨が降るたびに河川が氾濫し、水害による死者が出るだけでなく、飢饉による死者が出てしまう。そのため、住人たちは、付け替えの嘆願書をたびたび出していた。しかし、新たに川が流れる予定の地域に住む人々は付け替え工事に反対し、計画はなかなか前に進まなかったようだ。江戸幕府が大和川の付け替えを決定したのは、寛永十六1639)年だから、着工までに65年もの時間がかかったことになる。
工事にかかわったのは延べ250万人とされ、期間は224日。大坂の代官や手代、大名家が工事を担当したが、実際に作業をしたのは地元の有力農民たちで、なかでも今米村(現在の東大阪市今米)庄屋の三男坊だった中甚兵衛は、熱心な治水嘆願や、工事を立派に指揮したことで知られる。

筆者は、百年に一度の豪雨にならなければ安全だとされつつも、近年の集中豪雨では洪水警報が何度か発令され、万一洪水がおきれば6mも浸水する地域に、初代神武天皇の隠し廟とさえ噂される重要な神社が鎮座することがずっと不思議だった。しかし、このあたりは付け替え工事のために大和川に近接してしまった地域だとわかり、なるほどと納得したものだ。神社が建立された時代には、洪水の心配がなかったのだろう。危険のなかった地域が危険な場所になってしまうわけだから、新たな川流域の人々が、大和川の付け替えに反対した気持ちもわからなくはない。

永元(1704)年に付け替えされた大和川永元(1704)年に付け替えされた大和川

各時代の庶民による防災対策

水の豊かな日本においては、水害との戦いには長い歴史がある。
たとえば弥生時代の八尾南遺跡からは、洪水に襲われたらしい住居跡が発掘されている。建物が砂で一気に埋められた痕跡があるのだが、土器などの家財道具は見つかっていない。つまり、ここに住んでいた家族は、洪水がくることを事前に察知して、家財道具一式を持って高台に逃げたのだろうと考えられる。

水害から身を守るために、高台や河川から遠い場所を選んで家を建てるほか、基礎を高くし、高床式家屋にするなどして、浸水被害を減らす対策もとられていた。切石の石垣を積み上げた上に蔵を建てる「段蔵」は、大阪の淀川下流域に多く見られるが、これも、洪水の浸水から家財道具を守るための工夫だ。
地域住民たちは、共同で定期的に河川を掃除し、堤防にゆるみがないかなどを点検した。さらに食料や水を備蓄し、災害に備えてもいたのだ。

日本人は、さまざまな災害に対抗すべく、知恵と工夫をこらしてきた。
昔からの取り組みを知りつつも、現代らしい防災に取り組みたい。

佐賀県の吉野ヶ里歴史公園にある高床式住居佐賀県の吉野ヶ里歴史公園にある高床式住居

■参考
朝日新聞出版『日本人は大災害をどおう乗り越えたのか 遺跡に刻まれた復興の歴史』文化庁編 2017年6月発行
吉川弘文館『江戸時代の災害・飢饉・疫病 列島社会と地域社会のなかで』菊池勇夫著 2023年3月発行

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