大道芸人や門付け芸人。漫才の語源も門付けの「萬歳」が由来?

お正月や秋祭りの日、家々を獅子舞が訪れて舞を踊り、頭を噛んでもらうと病気をしない。そんな風習を知っている人が、今どれだけいるだろう。
このように、家々を訪問して芸をみせ、謝礼をもらう芸人を「門付け芸人」という。彼らは辻に立ち、大人数の前で芸を披露することもあった。この場合は「大道芸人」と呼ばれる。

昭和の中期ごろまでは、お正月や節分などの節目ごと、あるいは日常的に、多種多様な門付け芸人が家々を訪れ、厄を祓ったり、将来に起こるであろう幸いを寿いだりした。
将来に起きる幸いをあらかじめ祝うことを「予祝」といい、日本では伝統的に行われて来た。春の田植え祭も予祝神事のひとつで、田植えのときにあらかじめ豊作を祈れば、それが実現すると人々は信じた。

お正月になると家々をまわった獅子舞お正月になると家々をまわった獅子舞

漫才の語源も門付けの「萬歳」を由来とされる。
その起源は平安時代で、太夫と才蔵のコンビが鼓に合わせてめでたい謡を歌う、予祝芸能の一つだったとされる。18世紀の末には、大阪の生國魂神社に萬歳専用の小屋が開設され、二人一組で軽口を言い合い、笑いにより将来を寿いだ。これが現在の漫才につながっているのだという。

上方落語の「厄払い」では、節分の日に厄払いの文句を言いながら家々を周る門付け芸人が登場する。
厄払いの言葉をよく知らない主人公が、ご隠居の甚兵衛さんに「ちょっとした金儲けの手法」として厄払いの文句を教わるのだが、案の定失敗して、それを見た家の人々は大笑い。この笑いが厄払いになるというストーリーだ。
厄払いの文句は「あぁら目出度や、目出度やな、目出度いことで払うなら。鶴は千年、亀は万年、浦島太郎は三千歳、東方朔は九千歳、三浦の大介百六つ。かかる目出度き折からに、如何なる悪魔が来ようとも、この厄払いが引っ掴み、西の海へさらり、厄払いまひょ」と、長生きの動物や人物を並べて厄を祓う流れだ。
東方朔は紀元前1~2世紀に実在した人物で、仙人になったとする伝説がある。能の『東方朔』の中で、800年生きてきた八百比丘尼に対して「私は九千年生きている」と打ち明けたことから、「東方朔は九千歳」の文句があるのだろう。三浦の大介は、三浦大介義明のこと。源頼朝の挙兵に従い、「源氏再興に居合わせたのは幸い」と言い残して89歳で戦死するのだが、彼の十七回忌に、頼朝公が「私の中で、お前はまだ生きている」と語ったと伝えられ、89+17=106歳まで生きたということになっているらしい。しかし年齢よりも、源氏武士の鑑とも称えられた三浦義明自身がめでたい人物だったのだろう。

ほかにどのような大道芸や門付け芸人がいたのか、調べてみた。

お正月になると家々をまわった獅子舞漫才の語源は門付けの「萬歳」が由来のようだ。(写真イメージ:PIXTA)

西宮神社の札を配った傀儡子(かいらいし)、鹿島明神のお告げをふれて回った「鹿島の事触れ」

神社のお札を売ってまわる門付けの芸人たちも、たくさんいたようだ。
日本各地にあるえびす神社の中で、西宮神社が総本社とされるのは、近くを流れる川のたもとにつどう傀儡子(かいらいし)たちが、芸をしながら西宮神社の札を配り、全国を周ったからだ。

和歌山県の淡島神社が、女性守護の神社として有名なのも、願人坊主たちが、淡島様の功徳を説いてまわったからだとされる。
淡島様は天照大神の第六女で、住吉神に嫁いだものの女性の病になり、うつろ船に乗せられて流されてしまった。そして淡島神社の前の海に浮かぶ友ケ島に流れ着き、「こんな悲しい思いを他の女性がすることのないように」と、女性の守り神になったという。

「願人坊主」というと、僧侶なのかと思ってしまうが、資格などは必要ない。当初は人々の代わりに寺社参詣をしていたが、そのうちに寺社の功徳を説き、軽口や謎かけなどの芸も披露するようになった。

儡子(かいらいし)が芸をしながら西宮神社の札を配り、全国を周った儡子(かいらいし)が芸をしながら西宮神社の札を配り、全国を周った

関東の神にまつわる門付け芸人といえば、「鹿島の事触れ」が有名だろう。
鹿島神宮で占った吉凶の結果を全国に知らせて歩く集団がいたのだ。白い狩衣に烏帽子をつけた装束で、御幣を持っている。御幣の下には円形の紙が貼り合わせてあり、片面には赤地に黒い烏、他面には赤地に白うさぎが描かれていた。烏は太陽を、兎は月を表している。彼らは天災よけのお札を売り歩き、鹿島明神のお告げをするのだが、内容は相当いい加減なものだったらしい。

儡子(かいらいし)が芸をしながら西宮神社の札を配り、全国を周った茨城県鹿嶋市鹿島神宮の楼門 

往来で爪楊枝など家庭用医薬品を売る香具師(やし)

現代では、お祭りの縁日で露店を開く商人を「香具師(やし)」と呼ぶが、江戸時代の香具師は、店舗を持たず、往来で爪楊枝などの家庭医薬品を売る芸人だった。彼らは人を呼ぶために、曲独楽まわしや居合抜きを演じた。

江戸時代中期には、踊りながら飴を売る「飴屋踊り」が多数登場している。「おまんが飴売り」は派手な衣装を着た女性の飴売りで、浄瑠璃の常盤津節を歌いながら飴を売った。上手な売り手は、多くの客が、引き込まれるように飴を買いにきたそうだ。

江戸時代中期には、踊りながら飴を売る「飴屋踊り」が多数登場した江戸時代中期には、踊りながら飴を売る「飴屋踊り」が多数登場した

江戸時代の傷薬「ガマの油」売りの口上

ガマの油売りは落語などのネタにもなっているから、聞いたことがある人も多いのではないだろうか。筑波山麓には前足の指が四本、後ろ足の指が六本あるガマ蛙が住むといい、この蛙が流す汗はどんな切り傷をも治すというのだが、どうやって油をとるのか、ガマの油売りの口上をみてみよう。

「捕らえ来ましたるこの蝦蟇(ガマ)をば、四面に鏡を張り、その下に金網、鉄板を敷く。その鏡張りの箱の中にこの蝦蟇を追い込むと、己の醜い姿が四方の鏡に映るからたまらない、御体から油汗をば、ダラーリ、ダラーリ、ダラーリと流しまする。その流しましたる油汗をば、下の金網からぐぐっと取り集めまして、トロリ、トロリ、トローリと煮炊きしめ」と、ある。現代の私たちには、少々衛生面に疑問を感じてしまう。

ガマの油売りのように傷薬を売る芸人たちは、刀で自分の腕を傷つけるふりをして、あらかじめしこんであった血のりを流し、薬を塗って治してみせたりもしたというから、手品のような一面も持ち合わせていたといえる。

ガマの油売りの口上ガマの油売りの口上

猿回し・一人相撲・一人芝居…ユニークな大道芸人

芸をみせるのを主体として、各地をまわる芸人たちも、もちろんいる。

猿回しはその代表例だろう。猿に芸を仕込んで人々を楽しませるもので、その歴史は平安時代まで遡るとされる。猿は「災いが去る」「病気が去る」と、縁起担ぎの意味もあったが、猿は馬の守り神であると古くから信じられてもきた。鎌倉時代成立の『石山寺縁起絵巻』にも厩に猿がつながれている絵があるので、その起源はそうとう古いと考えられる。しかし、なぜ猿が馬を守るのかはよくわかっていない。

「綾織」と呼ばれる大道芸人は、太鼓に合わせて手鎌や総付きの棒を投げる芸をしたというから、現在のジャグリングとよく似ていただろう。

一人相撲は、その名の通り、恰幅の良い男が一人で相撲をとって見せる芸だ。「東、〇〇山、西、××海」と呼び上げが聞こえると、「あそこで一人相撲が集まるぞ」と、人々が集まって来る。すると一人相撲の芸人は土俵にあがるふりをし、何度か仕切り直すなどして笑いをとる。そして一人二役で勝負を見せるのだが、手に汗握る一戦を演じるような達者な芸人は、大人気だったらしい。

一人相撲と少し似ているが、一人芝居の芸人もいた。顔の右半分は女性、左半分は男性の化粧を施し、着物も右側が女性の着物、左側が男性の着物を縫い合わせたものを着る。そうして女性がしゃべるときは左を向いて右半分を見せ、男性がしゃべるときは右を向いて左半分を見せて、一人二役を演じるのだ。

木枠に紙を貼って墓石に似せたものを作り、自分は血みどろの化粧をし、墓石を前に掲げて隠す「墓所の幽霊」と呼ばれる芸人もいた。人が集まってくると、墓石を前に倒して脅かす芸だ。難しい芸とは言い難いが、家の前にずっといられては縁起が悪い。そこで彼らが訪れた家の人たちは、追い払うためにお金を払わざるを得なかったのだという。

江戸時代には、現代のように便利な道具はなく、人々の暮らしも貧しかった。しかし、暮らしに困れば大道芸をして日銭を稼ぎ、なんとか暮らしていた人たちもいた。そう考えればなんとも呑気で、うらやましい生活にも思える。
現代の大道芸は、ジャグリングやパントマイム、アクロバットと技術性も高く、競技会もあるらしい。イベントなどで芸を披露する大道芸人を見かけたら、じっくり見物してみてはいかがだろう。

今も人気がある猿回し今も人気がある猿回し

■参考資料
遊子館『大江戸復元図鑑〈庶民編〉』笹間良彦著 2003年11月発行

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