起こっては消え、消えては起こった「流行り神」
いつの時代も、人々は「縁起が良いこと」が好きで、たとえば現代なら「パワースポット」がもてはやされている。古来、宗教者たちが神仏の加護を得るための修行は、欲を捨てて他者のために尽くし、時には滝に打たれたりする厳しいものだが、庶民にはハードルが高く、「そこに行くだけで良いことがある」といった、手軽な行為が好まれてきたようだ。
パワースポットの定義はさまざまのようだが、要は、行けば運気があがり、良いことがある場所だと考えて良いだろう。本当に運気があがるのか、プラシーボ効果なのかはわからないが、実際に良いことがあったという報告も少なくない。
江戸時代には、「流行り神」が盛んに登場している。「流行り神」とは、突然様々な理由で出現して、ごく短期間に流行し熱狂的な信仰を集める神や仏の総称をいう。
イワシの頭も信心からという言葉もある通り、一途に信じれば、どんなものも神となる。たとえばどこかで人の顔のように見える石が見つかり、誰かが何気なしに拝んだところ、願い事が叶ったというようなときに、噂が噂を呼んで人々がドッと集まる。こういった神を流行り神と呼ぶが、いつまでも願いが叶い続けることは稀で、いずれは忘れられてしまうことも多い。そうなった流行り神は「祭り捨てられた」という。
そこで、江戸時代に起こっては消え、消えては起こった流行り神について見てみよう。
“どんな病気も治してくれる”と評判になった東京都台東区の「太郎稲荷社」
「火事喧嘩、伊勢屋稲荷に犬の糞」とは、江戸の町にあふれていたものを列挙した言葉だが、天保五(1834)年に刊行された『祠曹雑識』に、江戸の有名稲荷が106社、江戸の稲荷番付として記載されている。江戸の町にある有名稲荷だけで106とは驚きではなかろうか。稲荷は武家の屋敷内や、裏長屋ごとにも祭られていたので、小さいものも含めると、四千社以上になったろうともいわれる。
こうした稲荷信仰は、流行り神にも密接に関係してきたようだ。たとえば江戸後期の医者・小川顕道は、その著書『塵塚談』の中で、太郎稲荷の次第について記録している。
東京都台東区にあった柳川藩立花家下屋敷に太郎稲荷社が祭られていたが、あるとき「どんな病気も治してくれる」と評判になり、たちまち、人々が集まった。数年ごとに疫病に悩まされた江戸の人は、熱心に参り、太郎稲荷社の流行は3度あったという。しかし、この稲荷の狐が魚屋に打ち殺されたという噂がたつと、参拝する者はほとんどいなくなったという。霊験あらたかな稲荷の使いである狐が魚屋に殺されてしまうというのは、江戸の人々の気質や考え方を端的に表しているようで面白い。
太郎稲荷の霊験が評判となったのは、祠に無礼をなした鳶職の男に、神が取り憑いたのが発端だったという。太郎稲荷の神が何を言い、何をしたのか詳細はわからないが、詳細にわかる流行り神の例もある。
病身の者が訪れた東京都昭島市「惣十稲荷大明神」は4ヵ月だけ流行に
東京都昭島市の『万覚帳』などに、惣十稲荷についての記述が複数残っている。
このあたりに住む小作人の妻「しま」が病で寝込んでいたが、あるとき稲荷の霊がとりついて、名主と話がしたいと言い出した。名主は来客中だったので代理の者に行かせると、「名主でなければ話はできない」という。
息子が代参しても「名主本人でなければならぬ」と騒ぐので、仕方なく名主が出掛けると、「私は肥後の国の生まれだが、わけあって二百年ほど仙元山(現浅間山)に棲みついている。そこでここに祠を建てて祀ってほしい」と頼んだ。祠を建ててくれればしまの病気を治し、村の安全を守るというのだ。そこで名主は言われた通りに祠を建て、これを「惣十稲荷大明神」と呼んだという。
別の古文書によれば、この話が近隣の村々に伝わると、病身の者が訪れて祈るようになる。しかも、いずれも快方に向かったため、たくさんの人が参詣に訪れるようになり、餅菓子を売る商人が現れるほどになったという。しかしこの神が盛んに拝まれたのはたったの4ヶ月間で、それ以降、賽銭は激減したようだ。
祟り神が救いの神に変化した兵庫県洲本市「五瀬明神」
兵庫県洲本市の鮎屋にある五瀬明神は、祟り神が流行り神となった例だ。
戦国時代、この土地に追われてきた武将が、匿ってくれと頼んだのだが、村人達は断った。すると武将はひどく怒り、「汝七代に祟るべし」と言い残して山に入り、そこで自死してしまった。
その後、村では悪疫が流行し、武将の祟りだと恐れた村人達は五瀬明神を祭ってその怒りを鎮めようとした。このときは村で祭られる小さな祠に過ぎなかったが、時がすぎ、寛政十(1798)年のころ、とある病人の夢で、甲冑を着た武将が「病気を治したいなら五瀬明神に参れ」と告げたという。
その病人はさっそく五瀬明神に参拝し、病気はすっかりと癒えた。この噂が広がると、多くの人が集まるようになったという。
三重県紀北町の宝泉寺で祭り続けられている「権兵衛」
世に知られた人物が関係する流行り神もある。
現在の三重県紀北町あたりに伝わる物語の主人公は、「ごんべが種まきゃ、からすがほじくる」のモデルとなった人物だ。
権兵衛は武士だったが、父が亡くなると、荒地を開墾して農家となった。当初は種を蒔いたそばからカラスに食べられてしまうほど農作業が下手だったが、熱心に働き、道端で拾ったすべすべした石を「ズンベラ石」と呼んで、大切にしていた。
あるとき、馬越峠に大蛇が出て旅人を食べてしまうようになったため、元武士である権兵衛は銃を持って大蛇退治に出掛けた。大蛇の口をめがけて銃を放つと、見事命中したものの、蛇はしつこく権兵衛を襲おうとする。そこでズンベラ石を取り出して投げつけると、大蛇はくたばってしまったという。人々はズンベラ石を大切に祭り、現代でも紀北町の宝泉寺で祭り続けられているから、これは祭り捨てられなかった例と言えるだろう。
ただ「拝めば良いことがある」としてワッと人が集まる流行り神とは違い、ズンベラ石への信仰の根っこには権兵衛への感謝と尊敬がある。それが祭り捨てられない理由かもしれない。
伊勢への「おかげ参り」も一種の流行り参り
江戸時代に爆発的に流行した、伊勢への「おかげ参り」も、一種の流行り神と見ることができる。
伊勢神宮は日本神道の中心地であり、現代では頻繁にお参りする人も少なくないだろうが、江戸時代の人々にとって、伊勢参りは何日もの時間をかけた一大イベントだった。それなのに、全国の人々が伊勢を目指したのは、伊勢神宮の札が降るといわれた「お札降り」という奇瑞が原因とされる。
伊勢神宮の札が降るといっても、朝起きたら屋根に札が乗っかっていたといった具合で、実際に降るところを見た人がいたわけではない。比較的裕福な家の屋根で見つかるのがほとんどで、人為的に仕組まれたものだとも言われている。
流行り神を創り出すもの
民俗学者の宮田登氏によれば、流行り神の発生は、奇跡や奇瑞に端を発するものなのだという。
たとえば惣十稲荷や五瀬明神のように、夢の中で神託があったり、土の中から神像や仏像が掘り出されたりといった、神仏からのメッセージをきっかけとするもの、反対に祟りを発端とするものだ。
また、天空から飛来する流行り神もある。たとえば、伊勢まいりの「お札降り」などだ。
江戸では、常陸国に鎮座する大杉明神(あんば大杉)が飛来したと騒ぎになり、3月の疱瘡神の祭日には、「あんば大杉大明神、悪魔をはらってヨイヤサ」とあんばばやしを踊り、人々は夢中で踊ったのだという。この流行は各地に伝播したが、福島県ではあんば大杉を豊漁の神としている。
佛教大学講師の村田典生氏は、現代における流行り神についても言及している。
たとえば近年金運あらたかとして参拝者が殺到する神社は、2006年の旅番組がきっかけで人が集まるようになった。しかしその放映時点でその神社の神は、公式には「金属」「鉱山」の業者守護の神とされていたのだという。
「民衆の信仰」とは、深い信仰心を根っこに持つものではなく、現世利益を求めて、なかば娯楽的に行われるものではなかろうか。
これからも、その時代の人々の思い、希望などが反映されたさまざまな流行り神が登場するのだろうが、人々がどのようなものをありがたがったのか、時代ごとの違いを比べて見ると、その時代の特徴が見えてくるかもしれない。
■参考
青幻舎『大江戸カルチャーブックス 江戸の庶民信仰 年中参詣・行事暦・流行神』山路興造著 2008年11月発行
評論社『日本人の行動と思想17 近世の流行神』宮田登著 昭和47年1月発行
佛教大学『流行神 ー民間信仰におけるハヤリ・スタリとそのメカニズムー』村田典生著 2021年3月発行
公開日:







