当初はアートプログラムの舞台として使われ始めた「シネマネコ」

JR青梅線の東青梅駅から歩いて7分ほど。石の蔵やレトロな建物の残る一画に水色と白に塗られたかわいい建物がある。昭和初期の1935(昭和10)年に建てられた旧都立繊維試験場をノベーションして作られた映画館、シネマネコである。

オープンしたのは2021年4月。コロナが全世界で猛威を振るっていた時期であり、そのタイミングでの映画館開業は話題になった。いろいろなメディアでも紹介されていたので、見たことがあるという方もいらっしゃるのではなかろうか。

青梅市では約50年ぶりという映画館であり、国登録有形文化財を利用した映画館ということで誕生に至るまでには四半世紀近い時間がかかっている。最初の動きが始まったのは2000年以前だったそうだと2013年から2023年まで青梅市のタウンマネージャーを務め、文化財登録にも奔走した國廣純子さん。

「かつて青梅市内にキャンパスのあった明星大学(*)の造形美術学部と地元のアーティスト、多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京造形大学の学生が参加して行われていたアートプログラム青梅の会場として青梅織物工業協同組合(以下組合)の建物群が使われるようになっていました。現在、映画館になっている建物は廃墟のようになっていましたが、その佇まいがすてきだと関心のある方々にはそれ以前から知られていたようです」。

東青梅駅前にある看板。地元の人達のうれしく思う気持ちが伝わるようだ東青梅駅前にある看板。地元の人達のうれしく思う気持ちが伝わるようだ
東青梅駅前にある看板。地元の人達のうれしく思う気持ちが伝わるようだ登録有形文化財に指定された建物を利用、青梅市に誕生した映画館・シネマネコ

当時の組合理事長、事務局長はともに地域性やアートとの繋がりを大事に考えており、組合の経営立て直しに取り組みながら、組合のあるエリアを文化的な場所にしたいという思いがあった。そのため、明星大学の建築担当の教員に依頼、学生を使って建物の実測をするなど建物保存に向けた取り組みを始めてもいた。

「ただ、その頃、アートを通じて建物に関わっていた人達とまちの人達は繋がっておらず、石蔵を利用したレストラン繭蔵だけは使われていたものの、それ以外は使われず、知られてもいない状態。私がタウンマネージャーに着任後、それをもっと広く知ってもらい、使ってもらえるようにしようと理事会に参加するようになりました」

(*)1992年に開設、2015年にキャンパス移転に伴って閉鎖されている。

東青梅駅前にある看板。地元の人達のうれしく思う気持ちが伝わるようだシネマネコとは道を挟んで反対側にあるレストラン繭蔵。こちらは早くから活用されてきた

マンションにさせないために文化財として登録

参加した理事会では敷地内に4棟ある建物を取り壊してマンションを建設する話を持ち出す理事もいた。

「事務局長の太田健治さんと、集まり始めたアートやクラフトの人材や活動が保全できるよう、文化財として登録しようと話し合い、私が資料を集めることになりました。市でも地域資源としては把握していたようですが、市の景観条例からは外れた地域にあり、かつすでに簡易的な改修が進んでアルミサッシが使われているなどの手が入っており建物として文化財になり得るか、疑問に思っていたようです」。

資料集めには2年かかった。以前、明星大学に依頼して作成した実測図などは手に入ったものの、建物の原図は1年以上探した結果、倉庫の中からようやく出てきた。施工を担当した地元の工務店からは物件そのものの図ではないものの、当時建てた同じような別物件の青図を入手した。組合の会員企業の社史から組合に関する記述を抜き出して資料とした。

青梅織物工業協同組合敷地内にはシネマネコに使われている以外にも4棟が登録有形文化財になっている青梅織物工業協同組合敷地内にはシネマネコに使われている以外にも4棟が登録有形文化財になっている

「断片的ながらも十分な資料が集まったところで理事会には『建物としての価値は高くないようで、審査に落ちるかもしれないがトライしてみたい』と説明、承認を得て申請しました。おかげさまで順調に認定され、2016年11月に映画館になっている建物を含め、4棟全部が登録されました」。

登録を記念したパーティーでは「私たちの歴史が認められた」という声が出た。文化庁の文化遺産オンラインを見ると「青梅の繁栄を今に伝える洋館」「繊維業で栄えた往時の景観を今に伝えている」などという言葉が並んでおり、建物に加えて土地の歴史を伝える存在として評価されたことが分かる。

國廣さんの尽力で以前からアーティストに使われてきた建物以外にも建物内の空室も埋まりつつあった。そんな2017年、青梅を訪れ、街中に映画看板が掲げられている風景に感動し、世界にそれを発信した人がいた。フランスの女性カメラマン、シャンタル・ストマンさんだ。

青梅織物工業協同組合敷地内にはシネマネコに使われている以外にも4棟が登録有形文化財になっている

フランス人写真家との出会いが映画館誕生の契機に

青梅駅周辺では商店街が主体となり、30年以上に渡って映画看板を街中に掲げ、それを売りにしてきた。それを偶然見かけた見かけたストマンさんが写真を撮影、それがフランスの新聞、ル・モンド紙やテレビ番組などで大々的に紹介された。

「パリ在住の青梅市出身者の方がそれを知らせると共に、青梅市で何か一緒にできることはないだろうかと連絡をくださいました。商店街の人達は青梅が世界に知られるせっかくのチャンス、形にしたいと考え、でも、自分たちでは何をして良いか分からないのでと私に声がかかりました。本人は映画を撮りたいとのことで資金集めに協力、市民を集めたイベントを開催するなどしてドキュメントフィルム「OMECITTA(オウメチッタ)」を完成させました」。

彼女はファッションブランド・エルメスと交渉、スポンサードしてもらい、映画は銀座でも上映された。残念ながら青梅市の映画看板は2018年に映画看板を描いていた久保板観さんが亡くなったこと、台風で老朽化した看板が落下、被害が懸念されたことなどから終止符を打つことに。映画はその様子を描くものとなった。

取材時、シネマネコにちょうどドキュメントフィルム「OMECITTA(オウメチッタ)」イベントの告知が。青梅がフランスでそんなに有名な場所になっていたとは!取材時、シネマネコにちょうどドキュメントフィルム「OMECITTA(オウメチッタ)」イベントの告知が。青梅がフランスでそんなに有名な場所になっていたとは!
取材時、シネマネコにちょうどドキュメントフィルム「OMECITTA(オウメチッタ)」イベントの告知が。青梅がフランスでそんなに有名な場所になっていたとは!青梅駅構内に今も一部残る映画看板。市内にもまだ残されているところもあるが、大半は撤去された

「映画が完成したのはちょうど市内の屋外プールの再生を中心市街地活性化協議会のメンバーで検討していた時期で、活用に関心の高そうな人を集めて内覧会をすることになっていました。そこで、内覧会時に映画を上映することにしたのですが、現在シネマネコを経営している菊池康弘さんもお呼びしていました」。

そこでストマンさんは菊池さんに「ここに映画館を作りたい」と話し、菊池さんに自分がプロデュースするからお金を出して欲しいと言った。だが、それだったら、自分でやると菊池さんは答えた。「その後すぐに菊池さんからはいい物件はないですかという相談がきました」

青梅は江戸時代から青梅街道の宿場町として栄えてきたまちで、織物でいえば最盛期の昭和20年代にはふとんに使う生地の全国シェア85%を占めていたほど。その時代には映画館もあったが、50年以上前に無くなっている。

その一方でまちは映画看板を売りにしてきた。若い人達の中には映画看板を掲げながらも映画館のない状況を恥ずかしく思っていた人も少なからずいたようで、國廣さんも着任2年目に映画の上映スペースを作りたいと若者たちに相談されている。

映画看板はあるのに、映画館がなかった不思議なまち、青梅

飲食店を経営、青梅の多くの人達の思いを実現して映画館を誕生させた菊地さん。着ているTシャツは館内で販売されている飲食店を経営、青梅の多くの人達の思いを実現して映画館を誕生させた菊地さん。着ているTシャツは館内で販売されている

「その時には『だったら、まずは上映団体を作ろう』ということで青梅シネマ倶楽部が誕生。上映会が始まりましたし、地元商店街がシネマネコに改装される前の建物を使って上映会をしたこともあります。それが10年後に本当に映画館になるとは当時は誰も想像していませんでしたが……」

ストマンさんとのやりとりで映画館を作ることを決意した菊池康弘さんは日野市で生まれ、小学校6年生の時に青梅市に引っ越してきた。すでに映画館のない時代で、映画好きだった菊池さんは立川の映画館まで見に行っていたそうだ。

「高校卒業後は飲食店でアルバイトをしながら俳優を目指していました。付き人をやったり、テレビの制作会社に在籍したりもしていましたが、それをすっぱり辞めて地元に帰ってきたのは29歳の頃。もともと、バイトでは飲食を続けていたので福生のバーで店長をやることになったのですが、それがターニングポイントになりました」

オープンカウンターのキッチンでお客様が食べたいものをリクエスト、それを作るというやり方をしたところ、その方式が人気を呼んだ。長らく飲食業に関わってきたものの、それまでは厨房内で決まったメニューを作るというやり方で、お客様と直接接することはなかった。

「クリエイティブなことが好きだということ、そしてそれ以上に人に喜ばれることが楽しい、うれしいということに気づきました。振り返ると役者をやりたかったのは自分のためだったのかもしれない。それ以来、お客様を喜ばせよう、地元を盛り上げようと思うようになりました」

福生で1年半ほど勤めた後、2011年に地元の青梅で焼き鳥店を始めた。
「オープン当初からお客様からは青梅は以前は映画のまちだったという話がよく出ました。私自身は初めて聞く話でしたが、その頃から漠然とですが、いつか、自分が作りますよと言っていました」

コロナ禍でスタート、プロジェクトは誰からも心配された

映画館の前に本業で足元を固めなくてはと1店舗目を出した1年半後には2店目、続いて3店目と本業は順調だった。そして、2017年にストマンさんとの出会いがあり、映画館を作るという話も動き始めた。

ところが2019年の年末にもっとも大型の店舗が火事にあった。年末年始の予約が多く入っていた時期に痛い事態である。そして、その後に到来したのがコロナ禍。

「すでに映画館の事業は動き始めていました。2020年4月に東青梅の商店街と組んで商店街活性化を目的とした経産省からの補助金が採択され、そこで5000万円を超す補助金が出ることになっていました。経産省からは『コロナ禍ですが、事業はできますか?』と聞かれましたが、この機会を逸したら後がないという気持ちで『やります』と答えました」。

組合も映画館を作りたいから場所を貸してくれという言葉に全員が驚いた。映画のまちを復活させたいという菊池さんの熱意に場所を貸すことを承諾してくれた。しかし、商工会議所、商店街など関係する団体はすべて映画館が成り立つのか、大丈夫なのかと不安を感じていたらしい。

シネマネコの図面。設計は海外で古い建物を再生などに携わっていた人が引き受けてくれたシネマネコの図面。設計は海外で古い建物を再生などに携わっていた人が引き受けてくれた

最初は使われていなかったのこぎり屋根の元工場だった建物をリノベーションする予定だった。だが、建物自体が大きい上に躯体が腐り、雨漏りしていたこと、工場だったために安価に作られており、隙間風がひどかったこと、さらに建物の先に崖があることから建物を曳家する必要もあるなど問題が多く、結果、サイズダウンして、耐震補強をすれば使えそうな現在の建物を貸してもらえることになった。

こちらの建物は教室などに使われていたが、ちょうど、その向かいにある建物の2階が空いており、使っている人達にそちらに移動してもらえば使える、と組合も調整に奔走してくれた。

コロナ禍で本業も大変な時期に映画館の工事もスタート。しかも、工事は遅れた。

「2020年7月から工事開始のはずが9月に延び、解体に3~4ヵ月かかり、終わったのが12月末。耐震補強も大変で建物は大谷石の土台に乗っていたのですが、四隅と中央に穴を掘って大谷石を抜いてそこにコンクリートを流し込んで新たな基礎にしました。その後、年を跨いで内装。3月までに終わらせて検査に間に合わせなくてはいけないのですが、間に合うかどうか、本当にはらはらしました」

シネマネコの図面。設計は海外で古い建物を再生などに携わっていた人が引き受けてくれた都心部ではほぼ無くなってしまった三角屋根の工場がここではまだ残されている
シネマネコの図面。設計は海外で古い建物を再生などに携わっていた人が引き受けてくれた外側は変えられないものの、基礎、内部はほぼ新しく作り直すことに

「地元の人達の応援に勇気をもらった」

ただ、工事中の地元の人達からの応援には勇気づけられたと菊地さん。

「クラウドファンディングをやったのですが、それで支援者が増えました。最初はこのサイズの建物で映画館なんて期待できないという空気もあったのですが、次第にまた聞きなどで噂が広まり、工事現場にお金を持ってきてくれるおじいちゃん、おばあちゃんがいたり、週末になると中には入れないものの見学に来てくれる人が10人、20人も。特に工事後半は地元からの協力、賛成の気持ちを強く感じました」

水面下でプロジェクトが動いている間、菊池さんは全国のミニシアターを見学して回った。埼玉県の深谷シネマでは補助金の申請方法から映画の配給会社まで教えてもらった。シネマネコで使われている椅子はそうして回った新潟県十日町市で閉館した十日町シネマパラダイスから譲り受けたフランスのキネット社製造の品。当時は購入を検討していたが、高価なため、予算が合わず諦めていた。しかも譲り受けたのは欲しかった色だったというから、熱意は幸運を引き寄せるものらしい。

大切に保存していたきれいな状態の椅子をもらえたことで400万円ほどは浮いたそうだが、全体としては補助金と同額ぐらいを自己負担した。
「家を買うのと同額ぐらいでした。私は家を買うか、映画館を作るかという二択のうち、映画館を選んだわけです」

シネマネコの客席。鮮やかな色が目を惹くシネマネコの客席。鮮やかな色が目を惹く
シネマネコの客席。鮮やかな色が目を惹く新潟県十日町市の十日町シネマパラダイスから譲り受けて来た時の写真。菊池さん、持っている人のようだ
時間のない中での工事といいながら、ロビーの壁には以前、漆喰が塗られていた時の下地となっていた材を再利用している。普通は捨ててしまうものだそうだが、防火処理をした後で一枚ずつ貼った。本当は全面でやりたかったが足りなかったとも時間のない中での工事といいながら、ロビーの壁には以前、漆喰が塗られていた時の下地となっていた材を再利用している。普通は捨ててしまうものだそうだが、防火処理をした後で一枚ずつ貼った。本当は全面でやりたかったが足りなかったとも

しかも、菊池さんはこの大変な2020年に本業でも3店を出店している。出店する度に緊急事態宣言が出たそうで、そんな時期にさらに映画館である。普通の人ならめげてしまいそうな時期によくもそれだけのことができたものと菊池さんの話には感嘆するしかない。

コロナ禍ではアップリンク渋谷、岩波ホールなどいくつかのミニシアターが閉館したが、一方でStranger(墨田区菊川)、K2(世田谷区北沢)など新しい施設も誕生した。暗いニュースの多かった時代、シネマネコの誕生は希望を持って語られ、地元の人達は大喜びしてくれた。

シネマネコの客席。鮮やかな色が目を惹くもう少しで90年になろうという歴史ある建物。とにかくかわいい

映画館で見る楽しみ、それを語り合える喜びを

ロビーに置かれたネコ会員募集の告知。ご近所にこんな映画館があって気軽に見られる仕組みは映画好きにはたまらないだろうロビーに置かれたネコ会員募集の告知。ご近所にこんな映画館があって気軽に見られる仕組みは映画好きにはたまらないだろう

そして現在。シネマネコでは特別ネコ会員という年会費2000円でいつでも1000円で映画鑑賞ができ、1年間有効の会員制度がある。それが1500人ほどに増え、リピート客が多いのが特徴だ。投資した資金の回収という意味ではもっと増やしたいものの、会員数は順調に伸びてきた。よくあるのは会員が友人を連れてきて映画を鑑賞、その後に友人も会員になるというパターンだ。

観客の7割ほどは地元からだが、それ以外では都内、神奈川、埼玉など県外の人もおり、中には大阪、金沢などからの来訪もある。遠隔地から来ているにも関わらず、気に入ったからと会員になる人も少なくない。

上映する作品はジャンルを決めず、アニメから洋画、邦画、ドキュメンタリーなど幅広く取り上げている。これは分母が少ない地域ではこだわりを強く出して観客層を狭めたくないという意識から。

シニア層が多いものの、だからと言って懐かしの映画が人気になるわけではない。人気のあるオードリー・ヘップバーンなどの作品もあるものの、今どきのシニアはかつて見た映画より見たことのない最近の映画を好むそうだ。

ロビーに置かれたネコ会員募集の告知。ご近所にこんな映画館があって気軽に見られる仕組みは映画好きにはたまらないだろう天井が高く、緑の映えるロビー。見上げると歴史を感じる

カフェが併設されているのも強い。カフェだけの利用も増えているそうで、そこに助けられている部分もある。

「映画を見終わった後、カフェで映画の感想を語り合う人達の姿をよく見ます。今は自宅でもいろいろ見られますが、その感想を友人などと共有できるのは映画館ならでは。ましてこの建物の雰囲気は今からでは作れないもの。ここで大きな画面で映画を見るのは贅沢な時間ではないかと思います」

2024年6月に3年目を迎えるシネマネコだが、最初の2年間はコロナ禍中。これからが本格稼働といっても良い。今後は市やいろいろな人と組んでみんなでこの場を守っていくような活動をしたいと菊池さん。すでに母校の小学校6年生が映画鑑賞教室に来たそうだが、ミニシアターという存在を知らしめていくことも大事と考えている。多摩地域ではシネコン以外の映画館はここだけ。そもそも、身近にこうした空間と映画が楽しめる場があることをしらない人もまだ多い。広く知っていただき、このまちのアイコンとして多くの人が誇りを持って語れる場に。菊池さんの夢を応援したい。

ロビーに置かれたネコ会員募集の告知。ご近所にこんな映画館があって気軽に見られる仕組みは映画好きにはたまらないだろうロビー。一番手前にチケット売り場、一番奥にカフェがある
ロビーに置かれたネコ会員募集の告知。ご近所にこんな映画館があって気軽に見られる仕組みは映画好きにはたまらないだろうコンパクトながら居心地の良いカフェ。映画関係などの書籍も置かれている

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