春日大社の最大の祭り「春日若宮おん祭」

奈良の冬を代表する祭りといえば、毎年12月17日を中心に大和国の大祭として開催される春日大社のおん祭だろう。古くから奈良に住む人々は「おん祭の日は寒くなる」と言い伝え、この日は普段より厚着する。

長承年間(1132~1135)のこと、大雨が続いて飢饉がおき、疫病も蔓延した。そこで関白の藤原忠通は、保延元(1135)年の旧暦2月27日に春日大社の境内に新たに若宮を造営し、世の安寧を祈った。そして翌年の1136年に、春日野にその祭神を迎えて祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まりという。
内大臣藤原宗忠の日記である『中右記』にも、「今より以降、長く式日と成す由、仰せ下さる」とあり、祭日は官命で決められたと記録されている。
若宮の祭神は、大宮の第三殿の祭神である天児屋根(あめのこやね)命の御子神で、天押雲根(あめのおしくもね)命とされる。

春日大社の大宮の中門・御廊春日大社の大宮の中門・御廊

7月からの半年にわたる様々な祭礼と12月17日の「春日若宮おん祭」の式次第

12月17日に開催される春日大社の若宮おん祭までの間、7月1日には流鏑馬の稚児を決める「流鏑馬定」が行われ、これをもって「御祭礼事始」とする。
10月1日には若宮が遷されるお旅所行宮の起工式である「縄棟祭」、16日の宵宮祭や18日の後宴能なども催行される。さまざまな祭礼が約半年にわたり行われて、「若宮おん祭」につながる。

春日大社の摂社 若宮本殿 撮影:桑原英文春日大社の摂社 若宮本殿 撮影:桑原英文

しかし祭の中心は、なんといっても12月17日の「遷幸の儀」から「還幸の儀」までの約1日だ。
12月17日の午前0時ちょうどに、春日若宮を春日大社境内摂社の若宮本殿から、お旅所の行宮へと神霊を遷すのが「遷幸の儀」である。参道のすべての灯りが消された真っ暗闇の中、榊の枝で十重二十重に囲まれた神霊が、神職たちに奉じられて渡るので「暗闇の祭」とも呼ばれる。「オー、オー」と絶え間なく唱えられる声は「警蹕(みさき)」。尊い神や貴人が通行するのを知らせる声だ。楽人たちは「慶雲楽」を奏でる。

午前1時には、お旅所において、おごそかに暁祭が執行される。行宮の前に立てられる松は、神を迎えた徴だ。海川山野の供物が奉納され、神楽も奏上される。特徴的な供物は「素合御供(すごのごく)」と呼ばれるもので、紅白の紙が貼られた台に檜の葉を差し込んで、そこに餅とミカンを交互に挿したものだ。この供え物は一時期中断していたが、平成十五年に復興している。

朝9時には、大宮本殿で、御留守事の神供を奉る「本殿祭」を執行。
午後0時になると御渡り式が行われる。行列は、日使(ひのつかい)、巫女、細男(せいのお)と相撲、猿楽、田楽、馬長児(ばちょうのちご)、競馬、流鏑馬、将馬、野太刀、大和士(やまとざむらい)、大名行列と続く豪華絢爛なもの。登大路から油阪を経て興福寺南大門跡を通過する際には、「南大門交名の儀」が執行される。その後一之鳥居をくぐり、すぐ南側の影向の松前で「松の下式」を行ったあと、お旅所へと練り込むのだ。祭りの日は、きらびやかな行列を一目見ようと、徒歩数十分ほどの道中が見物客でいっぱいになる。
午後2時30分ごろから執行される「お旅所祭」では、お旅所において、神楽、東遊、田楽、細男、神楽式、和舞(やまとまい)、舞楽が奉納される。神楽と神楽式を混同してしまいそうだが、神楽式は能楽の「翁」を略式にしたものだ。翁はお正月などに神社などでも舞われる特別な舞で、天下泰平・国土安穏を祈願するものとされる。
午後11時には「還幸の儀」が営まれ、神霊は御旅所から若宮本殿へと還される。参道の明かりをすべて消し、真っ暗な中で渡るのは遷幸の儀と同じだ。ただし、遷幸の儀より、軽やかでアップテンポな雅楽が奏でられる。興味深いのは、若宮の神霊が本殿を出てから還るまで、必ず24時間以内でなければならないとされていることだろう。

春日大社の摂社 若宮本殿 撮影:桑原英文御渡り式

春日若宮・天押雲根命は謎の多い神

春日若宮・天押雲根命は謎の多い神だ。
3月13日に斎行される春日祭も盛大な祭りではあるが、若宮のためのおん祭に比較すると、規模が大きいとはいえない。春日若宮は、なぜそこまで重要視されるのだろうか。

社伝によれば、長保五(1003)年の旧暦3月3日に、第四殿に若宮が出現し、その後しばらく第二殿と第三殿の間にある「獅子の間」で祀られたとされている。第四殿に祀られる神は比売神で、一般に、天児屋根命の妃神とされる。第二殿の祭神は経津主(ふつぬし)命で千葉県香取からやってきた神、第三殿の祭神は天児屋根命だ。

南門前にある「出現石」も、若宮の荒魂(あらみたま)である「赤童子」が出現したと伝わる石だ。荒魂とは神の活動的かつ積極的な一面を表す語で、これに対して静的な面は和魂(にぎみたま)と呼ぶ。

春日大社の説明によれば、赤童子が出現したのは「太古の昔」とある。春日大社の創建は神護景雲2(768)年のこと。赤童子の出現は本社よりもっと古いのかもしれないと感じさせる表現なのが気にかかる。

製鉄の神を祭り、奥出雲に鎮座する金屋子神社の元宮司の著作『玉鋼の杜 : 金屋子縁起と炎の伝承』には、「安部家由緒に従えば(中略)太古甲子の年三月十一日甲子の日、大和國春日山の麓に生誕した、とある」ともある。春日山の麓とはいささか広範囲に過ぎるが、赤童子の出現石も、春日山の麓にある。
酒呑童子や茨木童子の例からもわかるように「童子」は鬼の呼称でもあり、鬼は製鉄の民と関係が深い。たとえば備中一之宮である吉備津神社の祭神である吉備津彦(きびつひこ)命は桃太郎のモデルとされるが、彼が退治した温羅という鬼は、製鉄の技術を持つ吉備地方先住の統治者だったとされる。そうとなれば、春日若宮の荒魂である「赤童子」の名が意味ありげに感じられてはこないだろうか。

お旅所の御仮殿(行宮)お旅所の御仮殿(行宮)

「元春日の主」に関わる伝説

また、大和地方には、「元春日の主」に関わる伝説も語られている。
かつて、春日野を統べていたのは、春日の主と呼ばれる耳の悪い神だった。そこに春日大社が創建されることになり、茨城県鹿島から武甕槌命(たけみかづちのみこと)がやってきて、「春日野を三尺借りたい」と申し込んだ。しかし、元春日の主が快く「良いとも」と承諾すると、武甕槌命は「三尺と言ったのは、山野全体の地下三尺のことだ」と言い張り、すべての土地を奪い取ってしまったという。

武甕槌命は武神だから、呑気に暮らしていた元春日の主が勝てる相手ではない。居場所がなくなった元春日の主は安部廃寺跡などを放浪した後、現在は春日大社の摂社である榎本神社に祀られているという。大和史蹟研究会著『大和の伝説』によれば、明治20年ごろまでは、春日大社に参る人々は、まずこのお社にお参りし、「春日さん、参りましたよ」と柱を握りこぶしで何度も叩いたのちに、大宮に参っていたとある。

安部寺跡は、現在の安倍文珠院近くにあり、安部文珠院の境内、現在の晴明堂の近くに元春日の主の祠があったとも伝わっている。本地垂迹説では、春日若宮の本地は文殊菩薩とされているのだが、元春日の主と安倍氏、そして春日若宮には、どんな関係があったのだろう。
ちなみに金屋子神社の宮司は、代々安倍氏が務めている。

古文書の記録や伝聞は事実とは言えず、比喩表現も多いので、真に受けるのは危険だが、春日若宮はかように謎の多い神であり、興味深い神なのだ。

さらに、春日大社は能楽とも深い関係があるとされる。たとえば、能の舞台に描かれている松の絵は、春日大社の影向の松だ。
春日大社最大の祭である「春日若宮おん祭」で、さまざまな舞が奉納されるのは、このことと無関係ではないだろう。

奈良旅行を計画されている方は、謎が深く、盛大な「春日若宮おん祭」をぜひ見学してみてほしい。

お旅所祭「社伝神楽」お旅所祭「社伝神楽」
お旅所祭「社伝神楽」お旅所祭 舞楽「賀殿」

■参考
春日若宮おん祭保存会『式年造替奉祝 春日若宮おん祭』大和芸能懇話会編 2022年12月発行
大和史蹟研究会『大和の伝説(増補版)』高田十郎編 昭和34年11月発行
金屋子神社『玉鋼の杜 : 金屋子縁起と炎の伝承』安部正哉著 1985年4月発行
東方出版『祈りの舞ー春日若宮おん祭』永島福太郎・花山院親忠・三隅治雄・笠置侃一・児島健次郎著 1991年9月発行

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