古事記にある、御神渡りが起こる諏訪湖の神話
日本人は大いなる山や豊かに流れる川を神と見なし、台風や大雨、火山の噴火なども神の業と恐れ畏怖した。そして諏訪湖などで起きる「御神渡り」など、大自然が起こす不思議な現象もまた、神と関連付けて考えられている。日本は「神」とともに生きてきた国だ。
「神道」にはさまざまな側面があり、一言では定義を説明できないが、神社本庁の公式サイトでは、「神社を中心とした、日本の神々への信仰」を神道と表現している。
しかし、日本の神々にもさまざまな成立の背景があり、時代の流れとともに習合したり、入れ替えられたりしてきたため、「この神はこういう神である」と言い切れるものではないから、神道とは奥深いものだと感じる。
都のあった奈良や京都の神々は、朝廷によって信仰がある程度整理されてきたため、それなりに矛盾のないストーリーで語られるのだが、地方の神々はさまざまなエピソードが伝わっており、矛盾をはらむものも少なくなく、後世に何を伝えたかったのか、よくわからないものも多い。
御神渡りが起こる諏訪湖、その諏訪湖がある諏訪の神話もそのひとつだ。
古事記の物語によれば、オオクニヌシが出雲国を造ったあと、高天原の神々が国を譲るように迫ったので、オオクニヌシは太い柱を持つ立派な神殿を所望し、そこに永遠に鎮まったとされる。その息子の一人であるコトシロヌシも青海原に隠れた。そしてもう一人の息子のタケミナカタは、高天原の使者であるタケミカヅチに戦を挑んだが、腕をつかんで投げうたれたため、諏訪へ逃げて命乞いをした。
タケミナカタは日本書紀には登場しない、古事記や物部氏が編纂したとされる『先代旧事本紀』に登場する神だ。
古事記のタケミナカタは、高天原による侵略の犠牲者だが、諏訪地方の伝承ではタケミナカタこそが侵略者であるとされる。
代々諏訪大社上社の神職をつとめた諏訪家に伝わる古文書『諏訪信重解状』の「守屋山麓御垂跡事」には、諏訪地方を統べていた守屋大臣の所領に大神が天降り、合戦となったと書かれている。守屋大臣は鉄の鎰(かぎ)を持って、大神は藤の鎰を持って戦い、勝利した大神は諏訪大社に鎮座した。大神はタケミナカタのことで、守屋大臣は洩矢神とも表記される諏訪の古い神、モリヤ神を指す。タケミナカタが、諏訪地方を治めていた守屋大臣を侵略し、諏訪の地を奪ったと語られているのがわかるだろう。
そして現在、諏訪大社の上社・下社ともにタケミナカタとその妻神であるヤサカトメが祀られており、モリヤ神は守屋神社などに追いやられているかっこうだ。
モリヤ神は歴史の古いミシャグチ信仰と深い関わりがあるとされ、多くの研究者の注目を集めているが、その性格がよくわからないのは、タケミナカタが信仰されるようになった以降、古い信仰の多くが上書きされてしまったからなのかもしれない。
日本における考古学が始まる前は神話が史実として扱われた
少し話は逸れるが、日本における考古学が本格的に始まったのは、明治時代で、アメリカの動物学者であるエドワード・モースが大森貝塚を発掘調査したのが始まりだ。
それまではもっぱら日本書紀や古事記などの神話を史実として歴史を研究した。
たとえば、日本書紀や古事記には、ニニギがコノハナサクヤヒメを見初めて求婚したところ、親のオオヤマヅミは姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせた話が載せられている。イワナガヒメは醜い女性だったので、ニニギは追い返してしまうのだが、オオヤマヅミは「イワナガヒメを嫁がせたのは、あなたさまの子孫が花のように美しく栄えるだけでなく、岩のように頑丈で長生きするようにとの祈りを籠めたからです。岩を返したので、あなたさまの子孫の寿命は短命に終わるでしょう」と怒ったという。
現代の私たちはまさかこれが史実だとは思わないだろうし、実はこの神話は、パプアニューギニアなどを中心に分布する「バナナ型神話」のひとつであることを知っている人いるだろう。
しかし、江戸時代の漢学者である秦鼎などは、著書の『一宵話』の中で、「瓊々岐(ににぎ)尊・火々出見(ほほでみ)尊・葺不合(ふきあえず)尊、此三御代合わせて一百七十九万二千四百七十余歳也。其内、火々出見尊は、五百八十歳、其御子葺不合尊は、父の尊に準らへば、五百歳所にもあらんか。此両御代合わせて一千一百歳足るたらずなれば、瓊々岐尊御一代にて、御寿、一百七十九万一千歳余り受け給へり。父の尊はかく御長寿なるに、御子の御時、俄かに御短命にて、僅かに五百八拾歳、御父子の御年、一百七十九万一千八百歳計の違ひなるは、けしからぬ御事なり。」と、本気で嘆いている。
そんな状況だったので、古事記などにあるストーリーから、出雲に先住していた人々が、「高天原」と呼ばれる後着民族に侵略されたと考える人もいた。さらに考古学の研究により縄文時代と弥生時代の文化に大きな違いがあるとわかると、先住民族を縄文人、後着民族を弥生人と見なして、弥生人による縄文人への侵略があったと信じられた時代もある。
しかし大規模な侵略戦争があった跡は見つかっておらず、弥生時代になっても縄文のつけられた土器を作っていた地域もあるなど、近年の考古学研究では、縄文人が弥生文化を受け入れて、弥生人に変化していったとの考え方が一般的だ。
諏訪大社の御柱祭
諏訪地方における侵略戦争も、実際にあったのかどうかはわからない。
この地方に新たな文化を持ち伝えた部族がおり、古い神々は忘れられてしまったのかもしれないし、なんらかの軋轢が実際にあったのかもしれない。
ただ、モリヤ神への信仰が、タケミナカタへの信仰より古いのは事実だろう。そして諏訪地方の祭りには、モリヤ神の時代から続くものもあるに違いない。
諏訪大社の祭りといえば、寅と申の年、7年に一度開催される御柱祭が有名だろう。正式な名称は「式年造営御柱大祭」で、山から切り出した16本の樅の大木を上社本宮・上社前宮・上社春宮・下社秋宮に4本ずつ曳行し、社殿の四方に立てる。
木落し坂の急な斜面を柱が滑降する様は勇壮で、テレビなどで見たことがある人も多いだろう。祭りの起源はわかっていないが、平安初期には始まっていたとされる。モリヤ神の時代にこのような祭りがあったのかはわからないが、この地域の気質は受け継がれてきているだろう。それならば、諏訪の古い信仰は、力強く激しいものがあったのかもしれない。
諏訪湖の「御神渡り」
古い信仰の歴史を持つ諏訪地方では、冬になると神の足跡が刻まれることがあり、その跡を「御神渡り」と呼んだのだ。
全面凍結した湖のうえに盛り上がった筋が走るもので、上社に鎮座するタケミナカタが、下社に鎮座するヤサカトメを訪ねた跡だと信じられてきたが、現代では科学的に説明がつけられている。諏訪湖が全面結氷したままの日が続くと、夜の冷え込みで氷が収縮し、亀裂ができる。そこに湖水が入り込んでまた氷ができるが、周囲に比べると薄いから、昼の温度上昇で氷が膨張すると押しつぶされて、轟音とともにせり上がるのだ。
南岸から北岸にかけてできるものを「一の御渡り」、その数日後に同じ方向に現れるものを「二の御渡り」、東方向から一の御渡りや二の御渡りに直行するように出現するものを「佐久の御渡り」と呼ぶ。
諏訪湖が結氷すると、諏訪湖東側に鎮座する八剱神社の観察会が開かれ、三つの筋がそろうと総代会が開かれる。総代会で拝観式の日取りが決められると、神職と氏子総代は精進潔斎せねばならない。御神渡りはさほどに神聖なものと捉えられてきたのだろう。
拝観式では諏訪湖の周囲を巡って三本の御神渡りを拝観し、検分を行ったあと、八剱神社に戻って神に御神渡りを奉告する。そして御神渡りの状況は「注進状」に記録され、諏訪大社上社の神前に捧げられるのだ。
この一連の儀式を「御渡り神事」と呼ぶ。
近年は結氷しない「明けの海」が続き、御神渡りは珍しい現象となってしまったが、最近では2018年2月5日に出現している。
筆者は2月7日に見学に行ったが、御神渡りはくっきりと残っていた。観光客が氷の上に乗るのは厳禁なので遠くから眺めたのみだが、一の御渡りは、妻神のもとへ急ぐタケミナカタの弾んだ気持ちをあらわすように、勢いよく盛り上がっていた。
御神渡りは珍しい現象になってしまったが、八剱神社の御神渡り観察会の様子を見物できるイベントも開かれているようだ。
1月から節分ごろまでの期間に開催されるようなので、御神渡りが気になる方は、観察会の見学に行ってみてはいかがだろう。
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