後世に残らない古民家を残そうという強い意志

香川県高松市屋島に四国村という場所がある。中心になっているのは四国四県から33棟の建物を移築復元した野外博物館・四国村ミウゼアム(以下、四国村)だ。首都圏近郊には小金井市にある江戸東京たてもの園、川崎市の川崎市立日本民家園、横浜市の三渓園などといった文化財集落施設を集めた庭園があるが、それの四国バージョンといえば分かりやすいだろう。

エントランス近くに兵庫県生田区北野町から移築された神戸異人館があるなど、瀬戸内近隣の建物もあるものの、展示の中心は四国四県から集められた建物で、しかも、今ではここにしか現存しないという建物も少なくない。四国というエリアを知るために非常に貴重な建物が集められているのである。

四国村ミウゼアム入り口。背後にある、木を並べた壁状のものは2011年の東日本大震災の際に津波で流された江戸時代中期の古民家・遠藤家住宅の梁、柱などを生かしたもの。説明には木のステンドグラスとあった四国村ミウゼアム入り口。背後にある、木を並べた壁状のものは2011年の東日本大震災の際に津波で流された江戸時代中期の古民家・遠藤家住宅の梁、柱などを生かしたもの。説明には木のステンドグラスとあった
四国村ミウゼアム入り口。背後にある、木を並べた壁状のものは2011年の東日本大震災の際に津波で流された江戸時代中期の古民家・遠藤家住宅の梁、柱などを生かしたもの。説明には木のステンドグラスとあったおやねさんの奥にある神戸から移築された洋館。カフェとして利用されているので、お茶をしながら内部を楽しめる
四国村から見下ろすわら家。たらいに入った釜揚げうどんが名物とのことで、人気店のひとつ四国村から見下ろすわら家。たらいに入った釜揚げうどんが名物とのことで、人気店のひとつ

開村したのは1976(昭和51)年。きっかけとなったのは前年に開業した、現在もミウゼアム入り口にあるうどん店「わら家」。この店は加藤陸運(現カトーレック株式会社)が社員の第二の職場として造ったものだが、その際に店の建屋として徳島県祖谷地方の古民家を移築した。同社の創業者である加藤達雄氏はそのとき、民家の美しさに目覚めたという。

もともと美術コレクターだった加藤氏はこのときの移築で民家の保護者になることを決意している。四国村のエントランスとなっている建物「おやねさん」内にある四国村設立の経緯についての本人談には、愛好家の多い美術品はいくらでも後世に残るだろうが、古びた木造建築を残そうなどという人はいないとして、だったら民家を残すほうがよほど大切ではないかと思ったと書かれている。

昭和50年ごろといえば1973年の第一次石油ショックで日本の高度経済成長が終焉、安定成長期に入った頃であり、高度経済成長期ほどではないものの、まだまだイケイケな感じのあった時代である。

一方で1975年には文化財保護法が改正され、伝統的建造物群保存地区の制度が創設された時期でもある。戦後から高度経済成長へと続く開発の中で失われていくものに目を向ける動きがようやく始まったタイミングであり、そこで民家に着目した加藤氏には先見の明があったといえよう。

四国村ミウゼアム入り口。背後にある、木を並べた壁状のものは2011年の東日本大震災の際に津波で流された江戸時代中期の古民家・遠藤家住宅の梁、柱などを生かしたもの。説明には木のステンドグラスとあった美術品ではなく、古民家をという言葉にちょっとうるうるした

16棟からスタート、徐々に棟数、建物が増加

開村時には約5万1,000m2の敷地に16棟の建物でスタートした。実際の四国村は高低差のある森の中に民家が点在しているので全体の広さが分かりにくいのだが、非常にざっくり言うと野球場くらいですと四国村の広報担当・新福功さん。

「もともとは果樹園などもあった土地で、広さはちょうど、マツダスタジアムと同じくらい。開村後も建物は少しずつ増えており、最後に移築復元されたのが灯台退息所エリア。退息所とは明治以降、日本の近代化に大きく貢献した瀬戸内海航路を照らし続けた灯台の職員の事務所兼住宅のこと。1998(平成10)年、同エリアの完成で建築物の移築はほぼ終わり、四国村ミウゼアムの現在の姿が整いました」

多くの建物が取り壊し直前など危機的な状況で救われ、移築されているのだが、SNSもない時代にどうやってそうした情報を入手していたのだろう。

新福氏によると「本業のひとつである運送業はいろいろなところに物を運ぶ仕事、同時にどこそこで古い家が取り壊されるらしいという情報も集まってきたのではないか」という。加えて同社には物を運ぶノウハウもある。調査、解体、組み立ては別として移築復元のためのノウハウの一部は自社で賄えたわけである。

歩いていると、所々にこうした小さな建物や碑、石仏などがあり、飽きない。これはかつては四国の村々に広く分布していたという茶堂。仏様を祭るなど信仰の場であると同時に、お遍路さんの休憩場所などとしても使われたそうだ歩いていると、所々にこうした小さな建物や碑、石仏などがあり、飽きない。これはかつては四国の村々に広く分布していたという茶堂。仏様を祭るなど信仰の場であると同時に、お遍路さんの休憩場所などとしても使われたそうだ
歩いていると、所々にこうした小さな建物や碑、石仏などがあり、飽きない。これはかつては四国の村々に広く分布していたという茶堂。仏様を祭るなど信仰の場であると同時に、お遍路さんの休憩場所などとしても使われたそうだ3棟の退息所が並ぶ小高い丘。映えるからと訪れる人がいるのが分かる、絵になる空間
ギャラリー内部。コレクターだった加藤氏の収集した品が並んでいるギャラリー内部。コレクターだった加藤氏の収集した品が並んでいる

その後、2002(平成14)年には建築家・安藤忠雄氏設計の四国村ギャラリーが完成し、古民家に加えてフランス絵画、中国の金銅仏などの美術品を展示するようになった。高台に立つコンクリート打ち放しの建物の前には、土地の高低差を生かした階段状の水景庭園があり、涼やかな気分を味わえる。

2019年からは瀬戸内国際芸術祭に参画。村内にアート作品が展示されるようになっており、同年、四国村ギャラリーでは香川出身の洋画家・猪熊弦一郎展が開かれた。2022年にも村内で芸術作品が楽しめるとあって、これまでとは異なる層の来村があったそうだ。

歩いていると、所々にこうした小さな建物や碑、石仏などがあり、飽きない。これはかつては四国の村々に広く分布していたという茶堂。仏様を祭るなど信仰の場であると同時に、お遍路さんの休憩場所などとしても使われたそうだ四国村ギャラリーの足元にある水景庭園。村内にはもう1ヶ所、水景を楽しめる場所がある

気候、風土によって建物には大きな違い

実際に見学して面白かった点をいくつかご紹介しよう。ひとつは同じ四国の中でもその土地の気候、風土によって建物の形や材料、作り方に違いがあること。

たとえば全国でも有数の多雨地帯である高知県高知市布師田から移築された1800年代末ごろ、つまり明治時代後期に造られた前田家土蔵を見ると、壁の上部には水きりのために4段または2段の瓦庇(かわらびさし。水切瓦とも)が付けられている。これは壁面を伝う雨滴を断ち切り、雨水から壁面を保護するためのもの。漆喰の白壁を保護するのはもちろん、蔵の内部が過湿になるのを防いでいるそうだ。

石灰岩が多い高知県では土佐漆喰といわれる耐久性に優れ、しかも、塗った当初は土色であるのに時間の経過とともに白色になっていくという不思議な素材がよく使われており、前田家土蔵も土佐漆喰仕上げ。白い美しい外壁からは古い建物には見えない。時間がたっても美しさを保てる素材があるわけである。

土佐漆喰を使い、多雨の気候に応じて水切瓦を使った前田家土蔵。防火、防水のため、屋根は鞘屋根と呼ばれる二重の作りになっている土佐漆喰を使い、多雨の気候に応じて水切瓦を使った前田家土蔵。防火、防水のため、屋根は鞘屋根と呼ばれる二重の作りになっている

これに対して徳島県三好市東祖谷、徳島県の西部にある平家の落人村として有名な祖谷から移築された中石家住宅はそれより古く1700年代後半から1800年ごろに建てられたと推定される。特徴は厳しい寒さをしのぐために各部屋に囲炉裏が切られていること。

四国と聞くと漠然と首都圏より暖かいと思ってしまいがちだが、「祖谷は徳島県唯一のスキー場があるほどで雪も多いエリア。ですから、各部屋に防寒のために囲炉裏があるほか、同様に香川県でも山中の雪深い土地にあった山下家住宅のように軒が長く地面に近いところまで葺きおろされた屋根も見られます」と新福さん。

山下家住宅は1700年代末に香川県の東端、徳島県との県境に近い東かがわ市五名の山腹にあった農家住宅で、間口4間半(8.83m)×奥行2間半(5.01m)のコンパクトな造り。間取りは土間、床張りの1部屋に奥に寝室1室というもの。新福さんが指摘するように茅葺きの屋根の厚み、軒先まで低く葺きおろした形は印象的だ。

ちなみに中石家住宅は主屋の隣に隠居屋が配されているのだが、こちらは主屋より規模が小さいだけでなく、お年寄りに配慮してか敷居が低く作られているのが特徴。造られたのが江戸時代と考えると、その当時から高齢者への配慮があったということだろうか。

土佐漆喰を使い、多雨の気候に応じて水切瓦を使った前田家土蔵。防火、防水のため、屋根は鞘屋根と呼ばれる二重の作りになっている中西家の右が主屋、左が隠居屋。明らかに建物の高さが異なる
土佐漆喰を使い、多雨の気候に応じて水切瓦を使った前田家土蔵。防火、防水のため、屋根は鞘屋根と呼ばれる二重の作りになっている茅葺き屋根を身近で見ると茅の厚さが圧倒的。葺き替えが大変と聞くが、これだけの建物を維持管理し続けるのは大変だろうと思う

ここにしか現存しない砂糖しめ小屋

土間から上がったところは竹のすのこ敷きという吉野家住宅。住宅周囲には強風を防ぐための石垣が築かれていた土間から上がったところは竹のすのこ敷きという吉野家住宅。住宅周囲には強風を防ぐための石垣が築かれていた

吉野家住宅は海辺にある漁師の住まいで、漁で濡れた着物や道具の雫を落とすために玄関を上がってすぐの場所が竹のすのこ張りだった。この家は明治時代初期の1800年代後半に徳島県海部郡美波町に建てられたもので、太平洋に面した断崖下の集落・伊座利地区から移築した。海からの強風を防ぐために家屋の周囲に石垣が造られているのも特徴なのだとか。気候・風土だけでなく、職業も家の在り方に影響を及ぼしていたわけである。

建物だけでなく、猪垣という、田畑への猪や鹿の侵入を防ぐ垣根も土地の違いを如実に表しており、興味深かった。小豆島の猪垣は粘土に松葉を入れて造られており、徳島県美馬市脇町のものは石を積んだもの。途中に隙間を作って落とし穴で猪や鹿を捕獲する工夫もされてある。同じ石を利用した猪垣でも徳島県美馬郡つるぎ町では地域で取れた青石を利用。一見、アートのようにも見える猪垣だった。

土間から上がったところは竹のすのこ敷きという吉野家住宅。住宅周囲には強風を防ぐための石垣が築かれていた猪、鹿の害を防ぐための猪垣。左上が小豆島、左下は一宇村、右が脇町。脇町では落とし穴を作って猪、鹿を捕獲していたそうだ

ここにしかない建物もある。その代表例が砂糖しめ小屋。丸い建物に円錐形の屋根がのっており、しかもてっぺんに甕が被せてあるというユニークなスタイルで、童話の世界の家のようでもある。

香川県は和三盆で知られる砂糖の生産地で、その最初の工程がサトウキビの汁を搾る砂糖しめ。建物の真ん中には3つの「しめぐるま」と呼ばれる石臼が据えられ、そこにサトウキビを入れて汁を搾っていたのだ。なぜ、円形だったかといえば石臼に取り付けられた腕木を牛が建物の内周に沿って引いて回していたから。内周の柱の一部が凹んでいるのは牛の腹がずっと擦れていたからと説明があり、実際に柱はどれも凹んでいる。宮崎家砂糖しめ小屋ではその様子が具体的に分かるビデオも流されており、当時の状況がリアルにイメージできるようになっている。

ただ、すべての砂糖しめ小屋が丸かったかといえば、四国村には四角い砂糖しめ小屋もある。全体としてはどちらが多かったのだろうとその他妄想は膨らむが、残されたものはあまりに少ない。砂糖しめ小屋はかろうじて残されたが、それ以外に消えてしまった作業小屋のような建物も多いのかもしれない。

土間から上がったところは竹のすのこ敷きという吉野家住宅。住宅周囲には強風を防ぐための石垣が築かれていた宮崎家の砂糖しめ小屋。日本の建物とは思えない。砂糖しめ小屋以外には醤油作り、和紙作りに使われた建物の展示などもある
土間から上がったところは竹のすのこ敷きという吉野家住宅。住宅周囲には強風を防ぐための石垣が築かれていた建物中央に据えられた石臼、そこに取り付けられた腕木を牛が回してサトウキビの汁を搾ったそうで、石臼に手が引き込まれないような特別な道具も別途展示されていた

100年前には風呂、トイレは戸外にあった

高台にある灯台退息所エリアも魅力的だ。この一画には江埼灯台退息所(兵庫県淡路島の江崎。灯台名称、地名は字が異なる)、鍋島灯台退息所(香川県坂出市与島町)、クダコ島灯台退息所(愛媛県松山市元怒和、クダコ島)が並んでおり、順に歴史が下る。江崎が1871(明治4)年、鍋島が1873(明治6)年、クダコ島が1903(明治36)年でいずれも外観はクラシカルな洋風。

だが、面白いことに初期は室内も洋風なのだが、最後のクダコ島の内部にだけは畳の部屋がある。説明によると初期の灯台守は欧米の人たちだったようで、明治後期に至ってようやく灯台守も日本人になっていたのではなかろうかとのこと。だんだん洋風になるのではなく、徐々に和風になっていったわけだ。

3棟並んだ退息所のうち、ゲートもあってかわいかった鍋島灯台退息所。考えてみれば灯台のあるような場所は波風も強いはず。堅固な建物が求められたのだろう3棟並んだ退息所のうち、ゲートもあってかわいかった鍋島灯台退息所。考えてみれば灯台のあるような場所は波風も強いはず。堅固な建物が求められたのだろう
3棟並んだ退息所のうち、ゲートもあってかわいかった鍋島灯台退息所。考えてみれば灯台のあるような場所は波風も強いはず。堅固な建物が求められたのだろうクダコ島の退息所の居室は和室。それまでの2棟の室内はばっちり洋風だった
左がトイレ、右が風呂。2点ユニットと言えばいいだろうか、全体にコンパクトで、当時の日本人の体格を想像してしまった左がトイレ、右が風呂。2点ユニットと言えばいいだろうか、全体にコンパクトで、当時の日本人の体格を想像してしまった

時代による変遷という意味では森野家住宅風呂便所という建物も面白い。これは大正時代、1920年ごろに徳島県美馬町脇町に建てられた、名称のとおり、風呂とトイレが一体になったコンパクトな建物で、登録有形文化財。瓦葺きの小さな建物には風呂と便所が左右に並べられており、かつては風呂、便所が主屋の外にあったことを示す。また、風呂は土台の一部に煉瓦が使われ、煙突は陶菅にするなど農山村にも新しい素材が入ってきていたことを示すものでもあるのだとか。

今の時代、風呂やトイレは家の中にあるものというのが常識だろうが、100年前には外にあるものだった。薪で風呂を焚いていた時代には、万が一火災が起きた場合に家屋全焼を逃れるためだったと推察できるが、ガスや電気で風呂を沸かす今からすると隔世の感を覚える。

実際にはまだまだたくさんの建物があるのだが、すべてを説明してしまっては訪れたときの驚きがなくなるのでこのあたりにしておき、最後に訪れる際の注意点などを。

高低差のある土地であり、入り口付近には3分の2ほどのサイズのかずら橋もある。本物の祖谷のかずら橋は整形された板が敷かれているが、こちらは隙間が多く、本物ほど水面との距離はないものの、けっこう怖い。渡ってインディ・ジョーンズになった気分を味わいたいなら、ハイヒールは避けること。歩きやすい靴で、がしがし歩くつもりで訪れるようにしたい。

3棟並んだ退息所のうち、ゲートもあってかわいかった鍋島灯台退息所。考えてみれば灯台のあるような場所は波風も強いはず。堅固な建物が求められたのだろう入村してすぐの場所にあるかずら橋。本家本元より短い、高さがないとはいうものの、けっこう怖い。手すりにつかまる必要があるので、両手が使えるように肩掛けバッグなどがお勧め

建物以外にも見どころ多数、四季ごとの魅力も

琴電屋島駅。外観の色合い、文字などいちいちかわいい。内部も必見琴電屋島駅。外観の色合い、文字などいちいちかわいい。内部も必見

四国の旅とあれば車で移動している人も多いだろうが、屋島を訪れる際にはぜひ、ことでん志度線の琴電屋島駅を利用してほしい。無人駅だが2009年に経済産業省から近代化産業遺産に認定されており、ピンクに水色のアクセントの入った建物は一見の価値がある。取材で訪れたときには構内のシャンデリアにツバメが巣を作っており、なんともかわいい風景が見られた。

敷地内では四季折々の草花、紅葉なども楽しめる。新福さんは桜やチューリップなどの花が楽しめる春、紅葉が美しい秋がお勧めとのことだが、冬には梅、水仙が楽しめ、夏は生き生きとした緑が鮮やか。要はいつ行っても楽しいということである。

琴電屋島駅。外観の色合い、文字などいちいちかわいい。内部も必見取材が夏だったので、それ以外の季節の写真をお借りした。どの季節も魅力的

タイミングが合うなら収蔵庫見学ツアーの日程に合わせて訪問するという手もある。前述の砂糖しめ小屋のほかに産業遺産として醤油蔵もあり、見学ツアーでは砂糖作り、醤油造りに使われた器具などが見られる。建物を見たうえで実際にそこで使われていた品を見れば一層、理解が深まるというもの。

もし、さらにさらにタイミングが合うなら小豆島から移築された農村歌舞伎の舞台を利用したイベントがあるときに訪れるのも一興。建物を囲んでスリバチ状に座席が造られており、ヨーロッパの古代劇場を思わせる雰囲気の空間となっている。ここでの演劇、音楽体験はちょっとほかではできないのではないかと思う。

建物好き、民家好きにぜひぜひお勧めしたいが、実際には、もっと幅広い人が来村している。近年は写真映えスポットとして知られるようになっており、建物の前で撮影すればここでしか表現できない雰囲気が出せるし、建物以外でもきれいな竹林や山中の階段はそれだけで絵になるからだ。

新福さんはできることなら若いうちに一度来てみてほしいという。

「この頃、若いときには分からなかったけれど、大人になってよさが分かるようになったと言われることがよくあります。地元の人たちにはここは遠足スポットのひとつですが、子どもの頃や若いうちに見ておいていただき、大人になってからまた見る。すると、見え方が変わり、先人たちの知恵や工夫が今の豊かな暮らしにつながっていることを感じる時間になると思います」

バリアフリーではないので、あまりに小さな子どもを連れては大変かもしれないが、訪れる価値がある場所であるのは確か。屋島自体にはほかにも見どころがあり、四国旅行の1日は屋島に充てても楽しいかもしれない。

琴電屋島駅。外観の色合い、文字などいちいちかわいい。内部も必見江戸時代に造られたという小豆島の農村歌舞伎舞台。屋根が抜けて、そのままでは数年で朽ちるところを移築された
琴電屋島駅。外観の色合い、文字などいちいちかわいい。内部も必見金毘羅街道沿いにあったアーチ型の橋。鯉の滝登り、唐獅子ボタンの彫刻があり、その昔は彩色されていたという記録があるそうだ。建物以外にもこうした珍しい品が点在している

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