子どもたちのために遺産を活用してほしい…故人の遺志を継承
JR恵比寿駅東口から歩いて5分ほどの坂道の途中にある「景丘(かげおか)の家」(東京都渋谷区恵比寿4丁目)。地上3階、地下2階建てのスマートな佇まいの建物で、茅葺きの技術で装飾された外壁が斬新かつ、懐かしい雰囲気を醸し出している。ここは、こども食堂や学習支援、遊びなどを通して、子どもたちを支えるという「渋谷区こどもテーブル」事業の拠点のひとつとして2019年3月に開設された施設だ。
都心の好立地にある施設だが、以前この場所には、個人の邸宅があった。その邸宅に住んでいた故・郡司ひさゑさんの遺志により、敷地と建物は1998年に渋谷区社会福祉協議会(以下、社協)に遺贈され、社協の施設「景丘の家」となった。施設名は、この地のかつての地名「景丘町」にちなむ。その後、福祉活動などに活用された時期を経て、故・郡司さんの「子どもたちのために遺産を活用してほしい」という遺志を継承し、社協が建て替えを行ったのが、現在の「景丘の家」だ。
多世代が集い、地域のつながりを深め、地域で子どもを支える力を養う
地域の子どもたちの施設として生まれ変わった「景丘の家」。だが、利用対象者は子どもやその保護者だけに限定していない。渋谷区内在住・在学であれば、大人1人でも利用できる。
「生後2ヶ月くらいから80代くらいの高齢者まで、地域のあらゆる世代の方が利用し、思い思いに過ごせる居場所になっています。世代を超えて人が集まり、おしゃべりを楽しんだりするなかでごく自然に交流が生まれ、そういう時間を通して、地域のみんなで子どもを育てる…そんな場所でありたいと思っています」
こう話すのは、「景丘の家」の企画・運営を担う株式会社マザーディクショナリーの増田晴菜さん(「景丘の家」副館長でもある)。マザーディクショナリー は、子どものための居場所づくり事業に取り組み、「景丘の家」に携わる以前から、渋谷区から委託を受けて2つの施設を運営している。その経験とノウハウはこの「景丘の家」でも生かされ、居場所づくりとともに、子どもの可能性や感性を高めることを目的とした施設づくりがなされていることを特筆したい。
みんなで一緒に作って、囲炉裏を囲んで一緒に食べる「こども食堂」
「景丘の家」は、「こどもと食」をテーマにしており、その象徴的なフロアが1階。囲炉裏や土間、縁側、左官仕上げのかまどキッチンがある空間が広がる。「サロン」と名付けられたスペースで、さまざまな世代の人が囲炉裏を囲んでゆったりくつろいだり、会話を交わしたりする「地域の縁側」のような場所だ。ちなみにこの囲炉裏は、故・郡司さん宅の古材を使用して作られたもの。
1階「サロン」は、毎月第3水曜日の夕方は「景丘の家 こども食堂」の場になる。
「私たちが開くこども食堂は、『みんなで作ってみんなで食べる』こども食堂です。かまどで炊いたご飯と一緒に、囲炉裏を囲んでみんなで食事を楽しみます。旬の食材を中心に使った献立で、ひと手間かけて調理します。例えば、煮物なら出汁から作るし、餃子なら餃子の皮からみんなで作ります。普段は忙しくて、お子さんと一緒にご飯を作る余裕がないというご家庭は少なくないでしょうから、このこども食堂で一緒に食事作りをすることは、親子にとってよい時間になると思います」(増田さん)
「こども食堂」は親子(子どもは5歳以上)のほか、9歳以上の子ども1人の参加も受け付けているので、近隣の小学生が1人でやって来るケースも珍しくないという。
「この地域は親御さんが共働きだったり、仕事で忙しくしている一人親世帯のご家庭が多く、学校から帰っても家に誰もいなくて、一人で夕食を食べているお子さんも少なくないようです。『景丘の家』のこども食堂が、そうした孤食の解消の一助になれば、という思いがあります。一人で参加したお子さんも、親御さんと一緒に参加したお子さんも、このこども食堂でコミュニケーションが生まれ、友達ができたりもします。それにかまどでご飯を炊くなんて、日常生活ではほとんどないことですから、ご飯が炊き上がったときにはみなさんから『わぁ!』という歓声と笑顔が広がる…スタッフである私もうれしくなる光景です」(増田さん)
このこども食堂 のほか、幅広い世代が参加できるワークショップの開催にも力を入れている。食、ものづくり、音楽など、週末を中心にさまざまなジャンルの講座を開くアートスクール、季節にちなんだ催し、スタッフの特技を生かしたフリープログラムなどを開催している。これらの講座やプログラムを通じ、多世代が一緒に学び、交流の機会を広げている。
他の親子との交流も生まれ、育児の不安をやわらげる場にもなっている
それでは、他のフロアを紹介していこう。
2階は、「こどもテーブル」フロア。階段側に面した壁面は、アーティストによる造形やからくりおもちゃなどが飾られ、「仕掛けの壁」と名付けられている。一瞬、ギャラリーを訪れたような気分になる。このフロアにはキッチンとダイニングがあり、渋谷区の「こどもテーブル」事業の拠点のひとつとして、さまざまな団体がこども食堂や学習支援などの活動を実践する場になっている。このほか、「景丘の家」が主催するワークショップや、趣味のサークル活動の場としても使われているが、利用予定が入っていないときは地域住民に開放している。近隣の小・中・高校生がやってきて宿題をしたり、工作に熱中したり、そこで仲良くなった子ども同士でボードゲームを楽しむといった具合に、子どもたちに親しまれている場所になっているという。
3階は「おやこフロア」。大きな窓から差し込む光が心地よく、眺めのよいこの部屋は、乳幼児と保護者のためのフロアだ。無垢材の床、雲をイメージした竹細工のオブジェが施された天井、アーティストによる手作りの人形などが飾られた棚、やさしい色調の木製玩具など、クリエイティブでぬくもりある空間になっている。ベビーカー置き場も併設されていて、子育てファミリーへの心配りが感じられる。
「土曜・日曜になると、大勢の親子が来館し、くつろいでいかれます。『この子の生まれて初めてのお出かけの場所が、景丘の家なんですよ』などと話してくれる親御さんもいます」(増田さん)
「おやこフロア」では親同士の交流も生まれるので、子育ての悩みを抱え、孤立しがちな母親の心を癒やし、不安をやわらげる場にもなっている。
この場所で好きなことを見つけ、熱中できることに出合った子ども
地下1階は卓球台、ビリヤード、ジャングルジムが置かれた「プレイフロア」。 小・中・高校生を中心としたスペースだが、土日には家族そろって遊んだり、近所のシニア世代の人がやって来て、子どもたちと卓球を楽しんだりしているという。ここでは毎月1回、フリープログラムの一環として卓球大会が開催されている。
「日頃から卓球で体を動かし、大会常連の子どもたちも多く、盛り上がっています。なかには小学校のときにこの場所で卓球に出合って大好きになり、中学校進学後は卓球部に入部したという子もいます」(増田さん)
地下2階 は、音響設備のあるスタジオ。バンドやダンス、ヨガ、楽器の練習などに利用できる部屋が2室あり、地域住民が無料でレンタルできる(団体登録が必要)。
開館中はどのフロアも子どもたちや親子を中心に多くの人が集い、活気のある「景丘の家」だが、コロナ禍に見舞われた2020年春からは、思うように活動できない時期が続いた。地域住民が交流するみんなの居場所なのに、こども食堂を開くことはおろか、人を集めることすらできない。施設運営に関わったスタッフたちは悔しい思いをしていたことだろう。
コロナ禍でもオンラインでこども食堂を開催。地域とつながり続けた
コロナ禍という危機に直面し、「景丘の家」はどのようにして乗り越えてきたのだろう?
「2020年に入ってコロナの感染が広がり始めて、2月29日から6月1日まで、約3ヶ月間の臨時休館を余儀なくされました。でも、こんな状況でもできることをやっていこうと、スタッフ全員、前を向いていたと思います」と、増田さんは振り返る。
「活動を止めてはいけない」「地域の皆さんとつながり続けたい」という思いから、休館中の4月から公式SNSでフリープログラムの動画配信を開始。料理のレシピや梅シロップの作り方、ヨガ、編み物など、自宅で楽しめるプログラムの動画を配信した。増田さんも鍼灸師の資格取得者という経歴を生かして「みんなでからだケア」と題して、身体のツボを紹介する動画を配信した。さらにアートスクールも、親子でダンスを楽しむオンライン講座などを開催し、活動をつないでいった。
そして、「景丘の家」を居場所にしている子どもたちとつながり続けるために、子どもたちに手紙を書いて送ったという。
「2020年春は、コロナの影響で小学校、中学校、高校が一斉休校になった時期です。『景丘の家』も休館していたので、子どもたちが家でどうしているのか気になりました。そこで、連絡先がわかるお子さんたちに、私たちがハガキにメッセージを書いて送ったのです。『今は景丘の家がお休みしているから会えないけど、開館したらまた来てね』と」(増田さん)
臨時休館期間を終え、2020年6月2日より、入場者数の制限をするなど感染対策をしながら再開。
「コロナで不安な情勢だけど、お子さんたちがまた元気に遊びにきてくれて、よかったなと思いました。お母さんたちからも『ここがずっとお休みだったので、行く場所がなくて困っていました』『こういう施設があるのはありがたい』と言っていただき、地域のなかでよい役割を果たせる場所になっていることを実感しました」と、増田さんは打ち明ける。
臨時休館を経て、2020年6月17日には、オンラインでこども食堂の再開がかなった。オンラインでも、旬の食材を使い、親子で一緒に作るという基本は変わらない。家での夕食の時間に間に合うよう、1時間のプログラムとしていたこともあり、食材などの下ごしらえはスタッフが行い、参加者は「景丘の家」で食材を受け取り、夕方、自宅から参加するという方法を取った。
「景丘の家」と参加者の自宅をオンラインで結んでのこども食堂は、毎月1回、2021年11月まで開催された。
「オンラインでのこども食堂は私たちも試行錯誤しながらの開催でしたが、思っていた以上に参加した皆さんに喜んでもらえました。コロナ前にはなかなか参加できなかった方が、自宅なら参加しやすいということで、初めてこども食堂に参加した親子もいます。また、在宅勤務のパパも参加してくれたり、新たなつながりもできました」(増田さん)
家や学校以外の第三の居場所として、子どもたちから必要とされている
2021年12月、対面でのこども食堂が復活した。参加人数をコロナ前の半数以下に制限、1階の囲炉裏を囲んでの食事はしない、など、感染対策に注意を払いながらではあったが、20ヶ月ぶりにみんなと顔を合わせてのこども食堂だった。
「景丘の家」本来のこども食堂の姿が戻ってきたのは、2023年4月。参加者が一緒に作った料理、かまどで炊いたご飯を囲炉裏を囲んで食べるという、なごやかな光景が再び見られるようになった。
コロナ禍を乗り越え、リニューアルオープンして4年が過ぎた「景丘の家」。
「オープンしたときから来ているお子さんも多く、赤ちゃんだった子が保育園に通うようになったり、小学生だった子が中学生になったり、みんなの成長を感じます。そういう環境でスタッフとして働けていることがうれしいです」(増田さん)
「景丘の家」を、居心地がいい場所と感じている子どもたちも少なくないようだ。
「私たちスタッフは子どもたちの親でも、学校の先生でもありません。でも、子どもたちは私たちに、親や先生に言えないことなどを相談してくれるのです」と、増田さん。こんなエピソードを話してくれた。
「開館した当時、高校生だった子が、『将来は看護師になりたい』と夢を語ってくれて、『景丘の家』で勉強に励んでいました。その後、専門学校に進学して卒業し、国家試験に受かって看護師になったと報告しにきてくれたんです。ここを大切な居場所として思ってくれているんだなと思いました」
内閣府の調査によると、子ども・若者の自己認識と居場所の数の調査では、家や学校を含め、安心できる居場所が多いほど、「自己肯定感がある(今の自分が好き)」と回答している。具体的には、「居場所が6つある」という若者の約7割が「今の自分が好き」と回答している。一方、「居場所がない」という若者のうち、「今の自分が好き」と回答したのは約1割となっている。また、居場所の数が多いほど、チャレンジ精神が高いことや、将来への希望を持っている子ども・若者が多いという結果も出ている(※)。
こうした調査結果からみても、「景丘の家」のような居場所があることは、子どもたちや地域の人にとって心強いだろう。この施設の場合は個人からの遺贈という形で実現した事例ではあるが、これからも各地で子どもたちの居場所づくりが進んでいくことを期待したい。
※内閣府『令和3年度子ども・若者の状況及び子ども・若者育成支援施策の実施状況~概要(令和4年版子供・若者白書)』
■取材協力
景丘の家
https://kageoka.com/
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