『河内のオッサンの唄』で認知度があがった、南河内の人たちが使う「河内弁」

「やんけ やんけ やんけ やんけ せやんけワレ」のフレーズを聞いて「ああ、あの歌か」とピンとくる人はどれくらいいるだろうか。
『河内のオッサンの唄』は1976年に発売されたシンガーソングライター・ミス花子のヒット曲で、川谷拓三主演で映画化もされた。河内は、全国ではどれほどの知名度なのか、南河内以外で暮らしたことのない筆者にはわからないが、この歌があったことは、河内弁の認知度があがったひとつの理由であろう。

河内エリアは大阪東部の細長い地域で、北河内エリアと南河内エリアでは文化も気質もまったく違う。
その中でも主に南河内エリア(河内長野市・富田林市・千早赤阪村・河南町・太子町・大阪狭山市・羽曳野市・藤井寺市・松原市・柏原市)の人たちが使う言葉が、いわゆる河内弁である。今の「大阪弁」と呼ばれる言葉は、河内弁と泉州弁、船場言葉が入り混じったものだとされる。

今の時代に南河内に住む人間にとっても河内弁の多くのフレーズは、「そんな言葉は知らん」か「え、それ河内弁なん? 普通の大阪弁やと思てた」のどちらかに分かれるかもしれない。
南河内で生まれ、南河内で育った筆者だが、富田林河内弁研究会によって編纂された『やぃわれ! -南河内ことば辞典-』を開いて「え、これって河内弁なんや」と驚いた。
例えばであるが、たくあんを「こぉこ」と呼ぶのが南河内だけだったとは、知らなかった。
反対に「こんな言葉、使ったことも聞いたこともないわ」と思うものもよぉけ……もとい、たくさん掲載されている。

「ちゃっちゃとしぃな」など、大阪弁に取り入れられて残っている河内弁もあるが、小さいスイカを「ごろんぼ」と呼んだり、おめかしを「えどる」と表現したりすることは、2023年6月現在54歳の、筆者の時代にさえもうなかった。純粋に南河内だけで使われて来た河内弁は、消えゆく運命なのかもしれない。

河内弁の「われ」は「我」、「おどりゃ」「おんどれ」は「己(おのれ)」が訛ったもので、どちらも「自分」を意味する言葉だ。大阪人が「あなたさ」の意味で「自分な」と言うのは、相手の目線に立ってものを考えるがゆえとされるが、南河内でも困っている人がいれば、誰かが声をかける人情が今も残っており、ガラが悪いからといって、相手を思いやる気持ちがないわけではないのだ。

筆者の祖父は生粋バリバリの河内のおっさんで、子どものころはよく「わりゃ あんじょう じょらくむのぅ」と膝を軽く叩かれた。「あんじょう」は上手にの意味で、「じょら」とは胡坐のこと。祖父は、女の子が胡坐をかくのは行儀が悪いと優しく叱っているわけだが、遊びに来ていた大阪市内からの転校生は、顔を引きつらせて固まっていた。大阪府内の人間にさえ、本場もんの河内弁は少々怖かったようだ。

多くの強いキャラの方言が、テレビなどの普及により姿を消しつつある中、河内弁自体を南河内の若者が日常で使うことは稀になった。しかし、「われ」や「おどりゃ」のほかガラの悪い河内弁は、歌になっただけでなく漫才などでも使われ、全国的に知られている。
ガラが悪いが個性の強いキャラのある河内弁は、少なくともあと数世代後まで残るのではなかろうか。

河内長野市街河内長野市街

南河内人の「ちょけ」体質

南河内人の気質で特徴的なのが「ちょけ」かもしれない。標準語に直すと「ひょうきん」が一番近いが、「ちょける」と動詞にもなる。筆者が子どものころは、授業中にふざけてみんなを笑わせるような、ちょけな児童が人気者だった。これに対し、相手をからかうことは「おちょくる」という。

そういえば河内弁には「ちょ」の音がよく使われるようだ。たとえば、大阪弁の挨拶として取り上げられがちな「もうかりまっか?」「ぼちぼちでんな」のやりとりだが、河内弁なら「調子どないや」「ちょぼちょぼや」となる。

「少しずつ」は「ちょびちょび」、「てっぺん」は「ちょっぺん」、「とがる」は「ちょがる」と、「ちょ」が醸し出すちょっと拗ねたような雰囲気が、南河内人のちょけ体質に合っているのかもしれない。

「さらす」「こます」「かます」

河内弁でも活用法が多いのは「さらす」ではなかろうか。「なにさらしとんねん」は「なにをしているんだ」を意味し、さらにガラを悪くすると「なにさらしてけつかんねん」となる。
「はよ行きさらせ」は「早く行け」で、「投げさらせ」「走りさらせ」「座りさらせ」など、「動作をすること」全般に使える便利なフレーズだ。あおり言葉の一種だが、親しみを込めて使われることの方が多いので、必要以上にびびらないでほしい。ちなみに「びびんちょ」は「びびりぃ」ではなく「けち」を意味するので、お間違いなく。

「さらす」と似た言葉に「こます」「かます」がある。「いてこましたろか」は本来「いこうか」の意味なのだが、喧嘩で使われる場合は、なぜだか「殴り倒すぞ」の意味になる。
もちろん、勢いのある場面ばかりで使われるわけではない。面倒くさいことをしなくてはいけないときに「はよ終わらせてこまそ」と表現したり、「食べてこまそ」「寝てこまそ」「遊んでこまそ」と、その気になれば、どんな場面でも使える。
「さらす」が他者の動作に使う言葉なのに対し、「こます」は自分の動作に使うと考えると、理解しやすいだろう。

「いてこます」をもっと端的にすると「いわす」になる。「いわしたろか」「いわすぞ」などと使うが、もちろん本当に喧嘩をするわけではなく、「いてこましたろか」や「いわすぞ」をツッコミに使うことも多いから、どうか怖がらないよう願いたい。

富田林寺内町の町並み富田林寺内町の町並み

南河内生まれのヒーロー楠木正成

大阪人が好きな武将は豊臣秀吉だと思っている人が多いかもしれない。
確かに太閤秀吉は大阪を日本の中心にし、その文化を花開かせた人物だが、生まれは尾張であり、さほど愛着はない大阪人も少なくないのではなかろうか。なぜならば、豊臣秀吉よりもっと親しまれる武将がいるからだ。

豊臣秀吉が愛される理由はその機智と度胸だろうが、南河内には天下人秀吉以上に機智に富み、度胸もあり、戦に強かった武将がいる。生まれ故郷が南河内である楠木正成だ。

楠木正成は千早赤阪村あたりを本拠地とした悪党ではないかと考えられ、水運を掌握し、兵法に秀でていたとされる。悪党は悪人のことではなく、幕府に対抗する人々を指す。集団が大きくなれば力も増すから、水運を支配していた楠木正成は大きな勢力を持っていたようだ。

楠木正成が歴史の表舞台に登場する経緯は、ドラマティックだ。鎌倉時代末期、鎌倉幕府倒幕を目指しながら、幕府軍との戦に劣勢だった後醍醐天皇は、ある日不思議な夢を見た。美しい童子が現れ、南向きに枝を伸ばした大木の下の玉座に導くのだ。木の南は楠だから、「くすのき」が後醍醐天皇を玉座に座らせてくれると解釈できるわけだが、果たしてこれは正夢となる。

楠木正成は、数々の戦で大活躍するが、特に痛快なのは赤坂城の戦いだろう。幕府軍の兵は30万もの大軍で、対する楠木の兵はたった500人しかいなかった。しかし正成公は赤坂城に詰め、敵が狭い道に入った途端に弓矢で一斉攻撃する。さらに幕府軍が休んでいるところに奇襲をかけ、兵力を激減させた。攻め入ろうと城壁を登る敵兵には岩を落とし、あまつさえ煮えたぎった糞尿を浴びせたから、戦意喪失した幕府軍は這う這うの体で敗退する。100倍どころか、600倍もの敵を追い払ったのだ。

この時代、武士はただ強ければ良いというものではなく、品格を必要とした。源氏にしても平家にしても、血脈を辿れば皇室につながる。もともとは公卿なのだから当然だ。
だから楠木正成のようにただ勝てばよいという戦いぶりは、武士にもあまりよく思われなかったかもしれない。しかし、多くの武将たちが南へ北へと信念なく寝返る中、楠木正成だけは一途に南朝のために仕え、最後は湊川で立派に討ち死にしたから、その忠臣ぶりは多くの武将に感銘を与えた。徳川光圀公が自ら湊川を訪れて建てたとされる「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑は、今も湊川神社に残されている。
またその戦の強さに惹かれる武将も少なくなかった。大阪の役で活躍した真田幸村やその父の昌幸は、楠木正成の兵法書を熟読していたとも伝わる。

楠木正成像楠木正成像

男児の通過儀礼「十三参り」

そんな楠木正成の生まれ故郷である南河内には、ガラが悪くても弱きに優しくすべしとする精神がある。男児の通過儀礼だった「十三参り」はその証拠の一つといえるかもしれない。精神力がなければ、弱者を守ることができないからだ。

十三歳を迎える男児が、修験者の先達で山上参りすることを「十三参り」と呼ぶ。「十三参り」自体は各地にあるのだが、南河内では、厳しい修験の山である大峰山に登る。もちろん、ただ登るだけでは終わらない。「西の覗き」と呼ばれる断崖絶壁では、命綱をつけられて上半身を乗り出さされ、ほぼ逆立ち状態で「親孝行するか?」などと問いかけられる。「はい」と答えるまでこの姿勢のままだから、ほとんどの男児は、必死で「はい」と答えるそうだ。
女人禁制なので、その恐怖がどれほどのものか実感できないが、命を失う覚悟で仏の世界を覗き込む修行というので「覗き」だというから、死ぬほどの恐怖なのだろう。
この儀礼を済ませて初めて、一人前とみなされた。

筆者が子どものころの富田林にはまだこの風習が残っており、小学六年生の林間学校で、男子だけこの修験体験に参加させられたのではなかったかとおぼろげに記憶しているのだが、六年生の二学期に、南河内でも北部にある羽曳野市に転校したので判然としない。
生まれてから35年間、富田林に住んでいた母に確認したところ、「お母さんが子どものころは学校行事やったで。そやけどあんたの時代にまで残ってたかわからんわ」と、軽く一蹴されたが、小学校における冬の恒例行事であった雪の金剛登山も十三参りの一環であるはずだと、思わぬ情報が手に入った。金剛山は標高1125mで、大阪でもっとも高い山だ。

堺市(和泉地方)出身の主人に確認すると、「中二の林間強化合宿で覗き体験をさせられた」とのことで、大阪でもさまざまな地域にある風習のようだ。

雪の金剛山・転法輪寺雪の金剛山・転法輪寺

あかねこ餅(あかねこもち)など南河内の風習

南河内では、半夏生の日にあかねこ餅を食べる風習があった。
もちろん猫を入れるわけではない。蒸した餅米に小麦粉を混ぜ込んで搗いた餅で、普通の餅より柔らかく、かたくなりにくいのが特徴だ。きな粉をかけて食べるのが一般的だろう。昔は自家製の小麦粉を使っていたので茶色っぽく、柔らかい餅が寝ている猫の姿を思わせたからこの名があるそうだ。

「いれおかい」は「入れ粥」の意味だが、筆者の家では「いれおかい」は必ず茶がゆだった。茶がゆを「おかいさん」と呼ぶのは和歌山の風習らしいが、富田林寺内町近辺でも「おかいさん」という言葉を使っていた。南河内の南部は和歌山県と接しているから、いつの時代にか混じったのかもしれない。
ちなみに、猫舌の人間が、出来たてのおかいさんを食べるときは「つけごはん」にした。冷や飯の上に茶がゆをかけ、混ぜて食べるのだ。

筆者は今も南河内の北部で暮らしているが、時代の流れか、あるいは南河内の中でも南部と北部では人情が違うのか、子どもが学校から帰ってきたときに家族が留守で、家に鍵がかかっていても、近所の人が「うちで遊んどき」と声をかけてくれるような「町内まるごと家族」の感覚はない。しかしそれでも、旅行で家を空けて郵便物が溜まったら、近所の誰かが預かっておいてくれる程度の御近所づきあいは残っている。

河内弁は、聞くと怖い印象があり、ガラが悪く聞こえる。しかし実は、その根底に文化と熱い人情がある。
南河内を旅する機会があれば、人情に注目していただけたら幸いだ。

あかねこ餅あかねこ餅

■参考
富田林河内弁研究会『やぃわれ! -南河内ことば辞典-』富田林河内弁研究会編 2002年4月発行

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