簡単に読めない「難読地名」の多い奈良

奈良に難読地名が多いのはよく知られている。
有名なのは「京終」「蛇穴」「阿字万字」「忍辱山」あたりだろうか。
「京終」は「きょうばて」と読み、「都の果て」の意味だと思われる。
「蛇穴」は「さらぎ」と読むが、「さらき」は土器を意味する言葉で、このあたりでも土器が生産されていたらしい。のちに蛇伝説が生まれたときに「さらき」の音に「蛇穴」の漢字があてられたとも考えられるが、諸説あって定説はない。
「阿字万字」は「あぜまめ」。弘法大師の「阿字万字の護符」に由来するという伝承もあるが、「阿字万字の護符」がどのようなものか伝わっていないので、ストレートに「あぜに豆を植えていたから」と解釈する方が真実に近いかもしれない。
「忍辱山」は「にんにくせん」と読む。この地にある円成寺の山号でもあり、「忍辱」は仏教の六つの修行(波羅蜜)の一つだ。六波羅蜜は布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若を指し、これらの修行を積めば悟りに至るとされた。

JR桜井線の「京終駅(きょうばてえき)」JR桜井線の「京終駅(きょうばてえき)」

「奈良」の名称の由来

地名は歴史や土地柄などを由来とすることが多く、言葉は時代とともに変化するから、歴史の古い奈良に難読地名が多くても不思議ではない。では、「奈良」にはどんな意味があるのだろうか。

ヤマト王権が誕生した奈良の地は、古くから栄えていたと考えられるが、王権が生まれた当時は「ヤマト」と呼ばれていた。しかし平城京が置かれた時代にはすでに「なら」という呼称があり、平城京は「ならのみやこ」と呼ばれていたらしい。つまり、「なら」の呼称が生まれたのは奈良時代以前と考えられる。

「なら」は、奈良時代に成立した最古の書物『日本書紀』にも登場する。崇神天皇が即位して10年目に、孝元天皇の皇子・武埴安彦(たけはにやすひこ)が謀反を起こした。講談社学術文庫宇治谷孟訳の『日本書紀』にはこうある。
「(天皇は)彦国葺を遣わして山背に行かせ、埴安彦を討たせた。その時忌瓮(いわいべ・祭祀に使う聖なる器のこと)を和珥の武すき坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦った。そのとき官軍が多数集まって草木を踏みならした。それでその山を名づけて奈良山とよんだ」。

現代語訳本では「奈良山」に変えられているが、原文は「那羅山」の表記で、日本書紀の記述を信じるのならば、「なら」は「ならした」が由来ということになる。現在「ならやま」は「平城山」と表記され、平城山丘陵は奈良市東部に東西に延びている。

余談だが、平城山の東端には「奈良豆比古(ならずひこ)神社」が鎮座する。主祭神は平城津比古大神(ならずひこおおかみ・奈良豆比古神の表記もある)で、この土地を統べる神であるとされる。平城津比古大神は現在の奈良全体の土地神というわけではなく、平城山丘陵一帯の土地神と考える方が自然だが、古くからハンセン氏病患者のための施設があった土地柄を考えると、疫病封じの性格があったかもしれない。
相殿に志貴皇子とその皇子の春日王が祀られているのだが、志貴皇子の別名も「春日宮天皇」と、「春日」にゆかり深いのが興味深い。
この神社は能楽の源流である猿楽発祥の地とされ、秋祭りには能楽の「翁」が舞われることでも知られる。春日王が病に倒れたとき、その皇子である浄人王が芸術でもって神に祈り、父の病を治したのが由来だとか。
そして能舞台に描かれる松は、春日大社境内にある影向の松で、春日と能には深い関係がある。奈良‐能‐春日を結ぶ線に何が隠れているのか説は定まっていないが、古い都ならではのロマンを感じていただければと思う。
この記事では、歴史ある奈良だからこその難読地名を取り上げたい。

奈良豆比古神社奈良豆比古神社

奈良に残る住んでいた人々に関わる地名

唐古は「からこ」で、「韓(から)」の人々が来住した地域だったと考えられる。唐古・鍵遺跡は弥生時代の環濠集落の遺跡で、大規模な農耕集落があった。楼閣の描かれた土器など、貴重な遺物も出土している。

忍阪は「しのびさか」でも「おしさか」でもなく「おっさか」と読む。第十九代・允恭天皇の皇后である忍坂大中姫と、側室で大中姫の妹の衣通姫(そとおりひめ)がこの地の出身だ。『日本書紀』には、忍坂大中姫を皇后に立てたとき、御名代(直轄地)として忍坂部(刑部)を定めたとあり、これが地名の由来ともされるが、初代・神武天皇条にも「於佐箇」の地名が登場する。むしろこの地出身だから忍坂大中姫の名があると考える方が自然だろう。この地は古代豪族・押坂氏の本拠地ともされているから、押坂が転じて忍坂になったのかもしれない。

衣通姫は記紀神話中指折りの美女だ。美しさで輝いており、その光が衣を通して輝き出すほどだというので衣通姫と呼ばれている。允恭天皇は衣通姫に夢中になり、皇后を悲しませ、国の民を困らせることもあったという。忍阪には衣通姫が産湯を使ったという井戸が残っており、玉津島明神として崇敬されているので、美しさにあやかりたい人はお参りしてはいかがだろう。

奈良県磯城郡田原本町唐古・鍵にある弥生時代の環濠集落の遺跡「唐古・鍵遺跡」奈良県磯城郡田原本町唐古・鍵にある弥生時代の環濠集落の遺跡「唐古・鍵遺跡」

奈良の地の先住民に関わる地名

国栖は「くず」と読む。『日本書紀』によれば、応神天皇が即位して19年目に吉野宮を訪れた際、国樔(栖)人が醴酒を献上し、「カシノフニ、ヨクスヲツクリ、ヨクスニ、カメルオホミキ、ウマラニ、キコシモチヲセ、マロガチ」と歌ったと記されている。歌の意味は「橿の林で横臼を造り、その横臼に醸した大御酒をおいしく召し上がれ、わが父よ」という意味だから、親しみの籠った振る舞いをしたのだろう。

国樔人は純朴な人たちで、山の木の実を食べ、かえるを煮たものを「もみ」と呼んでご馳走としていた。国樔人は吉野川のほとりに住んでいたが、この邂逅以降はたまに宮を訪れて栗や茸、鮎などを献上したという。
奈良の言葉で味がよくないことを「もみない」というのは、かえるを煮た「もみ」が語源とされる。吉野町に鎮座する浄見原神社では、この故事にちなみ、毎年旧暦の1月14日に国栖奏が奏上される。

井光は「いかり」と読み、やはり『日本書紀』に登場する古い起源を持つ地名だ。神武天皇が大和入りしようと吉野に到着した際、井戸の中から出てきた人物が「私は国つ神で、名は井光」と名乗った。この人は光る体に尾を持っていたといい、その子孫が吉野の首部(おびと)となった。首部は有力な豪族に与えられた姓(かばね)で、具体的には書かれていないが、井光は姓を与えられるような手柄を立てたのだろう。ちなみにその後に出会った、岩を押し分けて出てきた石押分(いわおしわく)が、国栖人の祖だ。井光は古事記に「井氷鹿」と表記されているから、もともとは「いかり」ではなく「いひか」と読んだと考えられる。

記紀には触れられていないが、長尾街道と竹内街道が交差する地点に鎮座する長尾神社の祭神は水光姫という。『新撰姓氏録』によると、神武天皇の吉野行幸の際、井戸に井光女がいて、天皇はこの女性に「水光姫」の名を与えたとある。日本書紀や古事記には、井光(井氷鹿)の性別が書かれていないので、井光姫と記紀に登場する人物が同一かどうかわからないが、「井光」と「尾」は深い関係がありそうだ。

「国つ神」は先住の土着民を意味すると考えられる。国栖の本来の意味も「国つ神」だったのだろう。神武天皇はあくまでも伝説上の人物だが、新しい文化を携えた人々がヤマト王権を築く以前から、この地には土着の人々がたくさん暮らしていたに違いない。彼らの古い言葉で呼ばれた地名も残っているだろう。

吉野町の中心から吉野川を遡った高見川との合流地点付近にある国栖の里吉野町の中心から吉野川を遡った高見川との合流地点付近にある国栖の里

独自の伝承が残る奈良の地名

『日本書紀』にはないが、「穴闇(なぐら)」には推古天皇ゆかりのエピソードが残されている。推古天皇がこの地を通りがかったとき、にわかに病に伏した。その苦しさを「穴暗い」と表現したので、「なぐら」という地名が生まれたのだという。しかし平安時代には「名蔵庄」の表記が残されているとのことだから、「闇」は当て字で、本来は「穴蔵」だったのかもしれない。

「狐井(きつい)」の昔話はそこまでは古くないかもしれない。字のごとく、狐が掘り当てた井戸が、地名の由来だ。このあたりは川が流れておらず、村人たちは水不足に苦しめられていたという。村には狐の親子が棲んでいて、人を怖がらずに愛らしい姿をよく見せていた。村人たちも狐親子を可愛がり、油揚げをやったり、「良い水が出てくれないものかのぉ」と愚痴をこぼしたりしていたそうだ。
ある夏は雨が少なく、村人たちがひときわ苦しんでいたところ、鎮守の宮で不思議な音が聞こえた。何かと村人が見に行くと、境内から清らかな水が湧き出ているではないか。その横には泥だらけの狐が疲れ果てて眠っており、狐が掘り当てた井戸ということで「狐井」と呼ばれた。これが村の名前になったという。なんとも心温まる話で、この井戸は今も香芝市に鎮座する杵築神社の境内にまだ残っているから、動物好きの方は訪れてみてるのもよいかもしれない。

奈良の難読地名はまだまだあるが、あまり有名でないものを選んでみた。奈良の古い歴史を感じていただけたら幸いだ。

杵築神社奈良の難読地名はまだまだある

■参考
新人物往来社『奈良・京都地名事典』吉田茂樹著 2007年5月発行
東京堂出版『奈良の地名由来辞典』池田末則編 2008年8月発行

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