日本人と入浴。神話に出てくる温泉とは

日本人はお風呂好きで、今は少なくなってしまったが、銭湯が大好きだ。それでは日本では、いつから銭湯が始まったのだろうか?銭湯の歴史を調べてみた。

入浴の習慣がいつから始まったかはっきりしないが、『日本書紀』や『古事記』には、黄泉の国から帰ってきたイザナギが、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あわぎはら)で禊ぎをしたエピソードがある。
阿波岐原は、現在の宮崎市阿波岐原町あたりの海だとされていて、イザナギはここで黄泉の穢れを洗い落とし、禍の神や海の神、最後に三貴神と呼ばれるアマテラスやツキヨミ、スサノオを生んだ。水浴は体の穢れだけでなく心の罪過まで洗い落としてくれるという宗教的な感覚があったのだろう。

また、火山国である日本には所々で温泉が沸いており、さまざまな薬効をもたらしてくれる。伊予国風土記逸文には、スクナヒコナが死んだとき、オオナムチが道後温泉の湯をかけたところ、「よく寝たわい」と言いながら生き返ったという話がある。湯村温泉や白骨温泉など、数多くの隠し湯を持っていたとされる武田信玄も、戦で負った傷を温泉で癒やした。温泉は神秘的な施設であると考えられてきたらしく、白鹿や白鷺など、神の使いとされる動物が発見したというエピソードも少なくない。

道後温泉道後温泉

奈良時代、鎌倉時代の入浴と浴場

民間の銭湯が登場する以前、大衆浴場は公共のものだった。

奈良時代には大きな寺院などに浴堂が作られ、庶民に入浴を施した。
たとえば聖武天皇の皇后である光明皇后は、法華寺に「浴室(からふろ)」を作っている。光明皇后については『元享釈書』などの仏教説話に語られる、有名な伝説がある。慈悲深い皇后は、千人の背中を流そうと誓いをたてたが、千人目に皮膚病で全身がただれた老人が表れ、「口で膿を吸い出してもらえば病が治るので、皇后さまにお願いしに来ました」と、とんでもないことを言い出す。しかし皇后がそれを受け入れて膿を吸い出していると、老人の体が輝き始め、阿閦仏(あしゅくぶつ)の姿に変じたとか。

鎌倉時代にも歴史に登場する人物の入浴に関する記録がある。
『吾妻鏡』によると、源頼朝は後白河法皇崩御の年、鎌倉山の浴堂で1日100人のペースで100日間続ける追善供養のための施浴を行ったとされる。北条泰時が北条政子の供養に長期間の施浴を行ったことも記され、鎌倉では、北条政子の病没の年以降、毎月の厄日を施浴日とした。

源頼朝は後白河法皇崩御の年、鎌倉山の浴堂で1日100人で100日間続ける追善供養の施浴を行った(写真は鶴岡八幡宮)源頼朝は後白河法皇崩御の年、鎌倉山の浴堂で1日100人で100日間続ける追善供養の施浴を行った(写真は鶴岡八幡宮)

「銭湯」誕生はいつ?

足利時代あたりから、寺院建築の様式の町人のための「町湯」も出てきたとされるが、広く民間の大衆浴場が登場したのは、江戸時代とされる。

徳川家康が幕府を開くまで、関東地方は坂東八平氏・武蔵七党と呼ばれる武士団が戦乱を繰り返しながら支配しており、整備されていなかった。東京には多摩川水系、利根川水系、荒川水系、鶴見川水系と4つの水系があり、大小100以上の河川が流れているが、当時は水系が乱れており、しばしば氾濫を起こしている。そこで家康は大規模な河川工事を行い、水害を防ぐと同時に灌漑を整え、さらに物流をスムーズにしようと考えた。そのためたくさんの労働者が集められたのだ。

当時の江戸は乾燥していて強い風が土埃を舞い上げたので、一日の終わりには、労働者たちの体は泥だらけだった。明日の英気を養うためには、汗を流して汚れを落としてしまいたい。銭湯誕生の背景にはこのような事情があったのだ。

徳川家康が江戸に入府したのは天正18(1590)年のこと。銭湯が誕生したのはその翌年であると、三浦浄心著の江戸の風俗誌『そぞろ物語』や『慶長見聞集』に記録されている。伊勢与一という商人が、現在の千代田区大手町あたりにあった銭瓶橋近くに開業したという。上方の銭湯については詳細がわからないが、女性の装いを考証した『歴世女装考』によれば、銭湯が生まれたのは1590年というから、江戸より一年先んじていることになる。

ただし、戦国時代の公家、山科言継が著した『言継卿記』には「天文二十二(1553)年十一月十二日、従冷泉被誘引之間、一条室町四辻石風呂令同道(いしぶろにどうどうせしむ)」とあるなど、上方では、風呂屋に関する記録が複数残されており、公家が利用する風呂屋は、それ以前からあったとも考えられる。

江戸時代の「湯屋」

江戸時代の銭湯は「湯屋」と呼ばれていた。江戸時代初期の入浴料は永楽銭1文。現代の価格に置き換えるのは難しいが、だいたい30円程度と考えられる。

江戸時代の終わりになると、湯屋の数は600軒前後まで増えた。『洗場手引草』に所収の「湯屋万歳暦」によれば入浴料は6文程度まで値上がりしているが、「羽書(はがき)」と呼ばれる1ヶ月のフリーパスポートがあったので、多くの庶民はこれを利用していたらしい。『守貞謾稿』によれば、羽書の価格は1ヶ月で148文前後というリーズナブルなものだった。

江戸時代には、さまざまなものが無駄なく循環していた。たとえば排泄物は肥料として農家に売られたが、長屋の主にとってこの売り上げは、大きな収入源だったという。そしてゴミは燃料として使われる。湯屋は焼け跡やゴミ捨て場などから集められた廃材が燃やされる、ゴミ焼却施設でもあったのだ。

江戸の町の様子江戸の町の様子

湯屋と吉原遊郭との関係

誕生した当時の湯屋は蒸し風呂で、湯気で垢をふやかし、竹べらで垢を削っていた。男女の別はなく混浴。男性は湯褌、女性は湯巻と呼ばれる腰巻を身に付けて入浴した。江戸時代中期には浴槽にお湯を溜めて入るようになる。蒸し風呂は「風呂」、お湯に浸かる風呂は「湯」と呼んで区別していたらしい。

このころには裸で入浴するようになったが、混浴のままの湯屋も多く、問題が多発したのだろう。男女入込(混浴)湯禁止の令が、寛政3(1791)年の正月に公布されている。しかし天保12(1841)年にも同じ禁令が公布されているから、この頃にはまた混浴が増えていたのだろう。

江戸時代中期から後期にかけて発刊された川柳句集『柳多留』には「男女別にあるのは江戸の湯屋ばかり」とあるから、江戸以外ではすべての湯屋が混浴だったとわかる。男湯と女湯が明確に分かれたのは、明治になってからだ。

江戸時代に作られた落語に「湯屋番」がある。勘当された若旦那が湯屋で働くのだが、強引に番台に立たせてもらったにもかかわらず女性客がいない。仕方なく、大金持ちの二号さんに見初められて……と妄想を始め、男客たちの笑いものになるのだが、実際に銭湯で恋が始まることもあったのではなかろうか。

湯女(ゆな)と呼ばれる女性が、垢を削ったり髪を結ったりしてくれるサービスを実施していた湯屋もあったが、当たり前のように、サービスを行う湯女が登場する。当時、遊女を働かせて良いのは吉原遊廓の中だけで、それ以外は取締りの対象だった。そこで明暦3(1657)年には「風呂屋へ遊女を隠し抱え置くことを禁ず」と触書が出され、風呂屋200軒が取りつぶしになり、湯女600余人が奴女郎として吉原に送られている。

奴は奴隷を意味し、湯女は、戒めとして吉原に勤めさせられたのだ。この処置は、湯屋に男たちが集まるようになり、吉原の客が激減したのが発端だというから、湯女のいる湯屋はさぞかし繁昌したのだろう。

江戸時代の遊郭跡江戸時代の遊郭跡

湯屋の建物の構造はどうだったのか?

では、江戸時代後期に著された『守貞謾稿』に所収の見取り図から、男女別の湯屋の建物の構造を見ていこう。

玄関中央にある入り口を入ると土間で、右が女風呂、左が男風呂だ。女風呂の側に番台があり、手ぬぐいのほか、肌を磨きながら体を洗う糠袋などを買うことができる。ここで入浴料を支払って板間にあがると、そこが脱衣所だ。当時から、入浴客の荷物や衣装を盗む悪党がいたらしく、衣装棚には鍵がついていた。
脱衣所と洗い場の間には仕切りがなく、洗い場の中央が谷状になっていて、ここを排水が流れる仕組みだ。奥には腰をかがめなければ通れないほど低い鴨居があり、その奥に膝丈くらいの浴槽がある。かがんで入らねばならないので、「かがみいる」と鏡を磨くのに使う柘榴の実をかけて、「柘榴口」と呼んだ。柘榴口は保温効果を高める働きがあるが、光を遮るため、どうしても浴槽が暗くなる。そのため、浴槽に入るときには「冷えものでござい」「田舎者でござい」などと声をかけてぶつかるのをふせいだ。「冷えもの」とは冷えた体のことで、「お湯の温度を下げてしまって申し訳ない」という思いが籠っているのだろう。

江戸時代の湯屋は、人々が集まる社交の場でもあった。現代ではほとんどの家に浴室があり、銭湯に通う客は減ってしまった。銭湯自体の数も経営が難しいこともあり、残念ながら年々少なくなっている。

それでも広々とした浴槽に浸かると良い気持ちになるものだ。さまざまな大浴槽を備えた健康ランドやスパも登場しているが、ちょっと気分を変えたいときなど、まだ近所に銭湯があるなら、行ってみてはいかがだろう。

家にお風呂がそなえられるようになり、今では少なくなってしまった銭湯家にお風呂がそなえられるようになり、今では少なくなってしまった銭湯

■参考資料
雄山閣『入浴・銭湯の歴史』中野栄三著 昭和59年1月発行
毎日新聞社『浮世風呂ー江戸の銭湯』神保五弥著 昭和52年12月発行

公開日:

ホームズ君

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